第27話 過去の知覚が反転していく

 札幌市北区にあるノース店へは、みどり食品中央センター最寄りの地下鉄駅から南北線に乗車して四つ目の駅で降りて、北方向へ徒歩3分だ。


 その10数分の移動中、あおいはずっとバッグの中の赤いマグカップと会話をしていた。


 もしも、うつむいてわずかに唇を動かしているあおいを、注意深く覗き込む人がいたら、独り言をつぶやいているにしてはずいぶんと長いし、ときおり頬がゆるんだり、まなざしが柔らかくなっているのを見て、まるで誰かと話しているようだと思ったかもしれない。


 けれどもほどよく混雑した地下鉄の車内において、乗客はそれぞれのスマホ画面を見つめている人がほとんどで、あおいの振る舞いは誰の目にも止まらなかった。


「あー、緊張するなあ」


「あおいくん、がんばって」


「よりどりぐりーん四店舗の統括ってことはさ、まずは四店舗の現状をしっかり把握することからだと思ったんだけど、うすっぺらい表面の質問しかしなかったから、御用聞きみたいになっちゃって、全然しっかり聞けなかったんだ。だからやりなおし。なんとか、店長の考え方とか、人となりとか、そういうのを知りたいんだ」


「うん。すごくいいよね。この間の総務課ミーティングで『人間と人間として、もう一回ヒアリングしてきます』って言ってたあおいくん、カッコよかった」


「あんなこと言っちゃって、ちょっと後悔してるけどね。今日これから行くノース店の松雪店長は、前回何にも話してくれなくてさ。特に問題ないから、とだけしか言ってくれなくて。今日のアポを取る電話でも、『またですか』ってすごい迷惑そうだった。あー、気が重いよ」


「でもそれってさ」


 赤いマグカップの振動が少し大きくなった。振動が大きくなるときは感情のエネルギーが高まっているときのようだ。


「それって、松雪店長が『そういう人間』ってことだよね」


「え……」


「『人間と人間としてヒアリングする』ってさ、松雪店長があおいくんの話しやすいように話してくれることじゃないよね。松雪店長っていう人間と話すんでしょ。そして松雪店長は『そういう人間』ってことだよね」


「う、確かに」


「みんなさ、『そういう人間』なんだよね。ステキだなー。ボクは食器だけれど、でもボクにも個性はあると思う。知ってる? 黒沢課長の茶碗も、氷川主任のティーカップもすごい個性的な性格なんだよ。食器にも性格があるんだからさ、人間はもっとだよねー。人間は、この社会で日々伸び伸び生きているんだから、もっと個性が豊かなはずだよね。ステキだなー。松雪店長のその個性と、あおいくんのその個性でお話しするのが『人間と人間のヒアリング』なんじゃない?」


 あおいが驚いて返事をできないでいるうちに、地下鉄は目当ての駅に着いた。


 マグカップの助言を聞いて、あおいは少し緊張がまぎれた。


「キミの言う通りだ。松雪店長っていう人間と、話せばいいんだ。それが大事だ」


「そうだよねっ」


 あおいの足取りが軽くなり、あっという間にノース店に着いた。


 ちょうどスーツ姿の三人連れが弁当を買っていくところだった。


「ありがとうございました」とおじぎをする女性スタッフが頭を上げて仕事に戻るタイミングを見計らって、あおいは声をかけた。


「おつかれさまです。総務課の時田ですけど松雪店長いますか」


「裏にいますよ」


 確かこのスタッフは近所の主婦だ。もう何年も働いているベテランのアルバイト。


――ええと、お名前は……。


 あおいはさりげなく女性アルバイトの名札を見る。そこには「初山」と書いてある。


――そうだ、初山さんだ。


「初山さん、ありがとうございます」


「あら」


「初山さんは何年目でしたっけ」


「そうね、もう2年半になります」


「お仕事、どうですか? 困ってることとか、ないですか?」


「あら、そうですねえ……。思いうかびませんよ。とても気持ちよく働かせてもらっています」


――初山さんは、僕より10歳くらい年上ってとこかな? 腰が低くて、そしてやわらかい雰囲気の人だなあ。


 きっと彼女からお弁当を買うことに癒しを感じているお客さんも多いことだろう、とあおいは思った。そして少し暖かい気持ちになってバックヤードに向かった。


 店舗の作りはどの店もほとんど同じだ。路面店で、歩道に面して売り場が展開されており、売り場のカウンター内から建物の後ろに向かって事務スペースや厨房スペースがある。


 あおいが事務スペースへ入っていくと、パソコンに向かっている松雪店長の姿があった。


「お疲れ様です。総務の時田です」


 松雪店長は無表情で首をひねるような動作をすると、無言で立ち上がってあおいに背中を向けると足早に奥へ引っ込んでしまった。


「え……」


 ぶっきらぼうであろうことは予測していたが、こんなふうに居なくなってしまうとは。これは想定外だった。


「あの……」


 なんとか面談をさせてもらおうとあおいは食い下がって、ありったけの声をふりしぼって見えない松雪店長を呼ぶ。


 返事はない。


 数十秒の沈黙。


 もう一度大きな声を出そうかとあおいが悩んでいると、奥から松雪店長がのっそりと姿を現した。


 両手に紙コップに入ったホットコーヒーを持っている。


「どうぞ」


 椅子を薦められる。


――あれ?


 あおいが「失礼します」と着席すると、松雪店長は無言でコーヒーをすすっている。


――これ、もしかして。


 松雪店長はあおいが手帳を開こうとすると、あおいの分のコーヒーカップをよけ、自分も手帳を開いた。


――なんか、すごいぶっきらぼうだけど。でも。


 どもらずに一言目を発しようと力んでいるあおいに、松雪店長はもう一度「どうぞ」と言った。


――受け入れられている?


 あおいの心の目が開いたのか、松雪店長は前回のとりつく島もない愛想のなさには見えなかった。今日も前回とほぼ同じように振舞われているが、何かが違った。


――『こういう人間』なだけか!


 松雪店長は、こういう声なのだ。こういう座り方で、こういう話し方なのだ。これが松雪店長の個性なのだ。明るく接してほしい、もっとわかりやすく歓迎してほしいというのはこっちの都合だ。そんなことを相手に求めて、そしてそれがもらえないと拗ねて、そして心のシャッターを下ろしていたのだ。


 まるでカードが一枚ずつひっくり返るように、あおいの心の中で、過去のさまざまなシーンの自分の知覚の仕方が、まったく違う解釈に置き換わっていくのだった。

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