第82話雨・八木重吉:死は自然である

  八木重吉の「雨」です。この詩は現在、青空文庫には掲載されていません。 

私が所持している『定本八木重吉詩集』(弥生書房)にも入っていません。

私自身は確認していませんが、ぽるぶ出版『日本の詩八木重吉』には掲載されているそうです。


 では、なぜ私がこの詩を知っているかというと、学生時代コーラス部に所属していたのですが、当時、男の子たちがこの曲を練習していたのを聴いて、印象深かったからです。

多田武彦男声合唱組曲集第四集『雨』の第六曲目に、この詩をもとにした歌があります。


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      八木 重吉


雨のおとがきこえる 

雨がふっていたのだ


あのおとのように

そっと

世のためにはたらいていよう


雨があがるように

しずかに死んでいこう


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八木重吉の詩の中でも、好きな詩のひとつです。


 敬虔なキリスト教徒であり、結核を患い闘病の末に、二九歳という若さでこの世を去ってしまった詩人の、心のありようを象徴しているような詩だと思います。


 はじめてこの歌を聴いた時に、一番に思ったのは、「世のためにはたらいていよう」というところ。


 世俗にまみれた私などでは、口はばったくて、とても表現することはできないですが、宗教に身を置き、病と死と向き合っている詩人の心は静謐です。


「世のため」つまり、自分のためではなく、誰かのために働いていようと、何のてらいもなく、サラリと言えてしまうのです。


 ここで聞いている雨は、あめから降り注ぐ細い命の糸でしょう。

クリスチャンにとって、天=神であり、その細い糸は神様へと繋がっている、そう考えたのではないかと、勝手に想像しました。


 しかし詩人は、雨が降るのを実際に見ているわけではありません。雨音に耳を澄まして、雨が降るようすを想像しているのです。


 病床に横たわっているのか、書斎で書き物をしているのか、いずれにしても、その気配で雨が降っていること、さらには、そこに神がいることを意識しているのだろうと感じます。


 八木重吉は、内村鑑三が提唱した、無教会派の信仰を持っていたとされていますが、実は、亡くなった私の祖父も、無教会派のキリスト教徒でした。(私はクリスチャンではありません)


 亡くなった後にみつかった祖父の手記の冒頭に、「死は自然である」と記していました。

大げさに身構えることなく、淡々と生きて、淡々と死を受け入れて、静かに消えて行く。それでいいのかもしれません。

それがいいのかもしれません。

(記:2019-07-10)


参考:ユーチューブ:雨

https://youtu.be/ffsiKRDCFdA


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