第11話 動揺と憤怒
俺が細川のジジイを脅しに掛かっていた、まさにその時だった。
「もうやめてください!」
この細川道場内に、高らかに岬さんの声が響き渡った。
俺は思わず岬さんに振り返った。
震えながらも、毅然とした態度で俺を見つめる。
その瞳は、確かに俺を捉えていた。数日前に会ったばかりのあの品のあるお嬢様のような瞳ではなく、俺を
やはり、刺激が強すぎたか?
そんな風に思っていると正座して座っていた岬は、立ち上がるなり俺に近づいてきて、俺の頬を叩いた。
俺は呆気に取られた。
おそらく、この場にいる人間全てが、そう思ったに違いない。
向き直ると、岬さんの瞳には涙が溢れていた。
「安居院さんの強さ、生い立ち、そして身体の傷跡で色々と分かりました。けれど! 安居院さんの強さは歪んでいます! 私には怒りに満ち溢れて、強くなったとしか見えません! 心技体があるというのなら、安居院さんも心が歪んでいるんじゃないんですか?」
真っ直ぐな目で俺を見る。
そして訴えかけてくる。
妙な説得力がある。
明らかに俺は、動揺しているのが分かる。
出会って間もないこの女に、俺はたった一言で丸め込まれている。
「日輪無神流、確かに一子相伝であり、不敗の剣術なのかもしれません。私たちには想像も出来ない様な経験を、これまでしてきたかもしれません。だけどもし、安居院さんに良心的な心があるのならば、何故、私に稽古をつけようとして下さったのですか? 何故そこまでして、頑なに意地を張るのですか?」
俺が意地を張っている?
この俺が?
冗談じゃない。
意地を張る理由が何処にあるというのだ。
しかし圧倒的に俺は、岬さんに今、心を動かされている感じがしてならない。
これだから女が嫌いだ、という理屈が通らなくなっている。
そういう自分に動揺が走っている。
「お嬢さんに一本取られたな、安居院」
細川のジジイが、静かに言った。
「お前の剣には、向こう見ずなところがある。己の強さに過信している。日輪無神流として、二十代目当主として、胡坐をかいているところがる」
俺は細川のジジイに向き直る。
「何だと?」
「お前は傲慢な態度を振る舞っているが、そこのお嬢さんが言うように、稽古をつけようとしているというのならば、理屈上良心的な心を持っているという事になる。お嬢さんがそう言っているんだ。嘘はつけないぞ?」
良心的な心、だと?
この俺に?
認めたくはないが、何なんだ。
この異様な違和感は。
俺の心が揺らぐ。
何だかばあちゃんに、説教されていた時みたいな感覚だ。
ばあちゃんは言っていた。
「怒りに身を任せて、剣を振るってはいけんよ」
俺はその言葉を理解しようにも、なかなか理解が出来なかった。
今、目の前にいる岬さんを、真っ直ぐ見ようとしても俺の心の何かが阻んでいる。
俺の心は岬の言葉ひとつで揺らいでいる。
怒りがまるで浄化されていく。
馬鹿な。
この女、円城寺岬に、俺の何が分かるというのだ。
しかし今のこの動揺は何なのか?
意味が分からない。
駄目だ。
駄目だ、駄目だ、駄目だ!
俺は日輪無神流二十代目、安居院貴久だぞ?
その俺が動揺するだと?
良心的な心があるだと?
認めるな。
認めたら負けだ。
俺は俺の怒りを、心の中で塗りつぶしていかなければならない。
己自身の目的を思い出せ。
この腐った剣道界を蹂躙するのは、この俺だという事を思い出せ。
女の
流されるな。
落ち着くんだ。
落ち着け。
徐々に心が、怒りで塗りつぶされていくのを。
己自身で感じ取るのだ。
俺はこの日輪無神流を、俺の代で潰す。
そして腐敗しきった剣道界を、
それが俺の目的だ。
忘れてはならない。
己の目的を。
俺は握っていた竹刀の剣先を、岬に向けた。
「安居院さん!」
岬さんの声など、俺に届く訳がない。
鬼であろうが、修羅であろうが、俺は俺の道を切り
「お前には刺激が強すぎた。やはり女に教えるのは良くなかった。俺の心にずけずけと踏み込んでくるって事は、岬。お前、命がないぞ?」
その時だった。
素早く俺が岬に向けた竹刀を叩き落とす音とともに、俺の前に立ち塞がったのは塚原だった。
「塚原!」
細川のジジイが声を上げる。
「先生、僕は我慢出来ません。女子に竹刀を向ける安居院は、剣道、剣術の前にあってはならない事。こいつの凶暴性がよく分かりました。僕が、こいつの目を覚まさしてやります」
塚原は
俺の足元にも及ばない塚原に、一体何が出来るというのだ。
確かに俺は、塚原にアドバイスをしてやった。
だがそれはあの県警上がりの、山本のやり方が気に喰わなかっただけだ。
俺に立ち合いを挑んだとしても、今の塚原が俺に勝つなんてたかが知れている。
細川のジジイに敗北したのは、死んだジジイの幻影によるものだ。
敗北はしたが、負けちゃいない。
もし敗北の原因というのであれば、それは俺の心の弱さだ。
だから俺はジジイの幻影さえ見なければ、負けちゃいない。
日輪無神流に敗北などない。
そうなれば塚原などに、負ける訳がない。
「いいのか? 今、俺とこの場で、本気で立ち合う気があるというのか?」
「お前がその気であれば、僕は
声も上擦りもせず、淡々と吐き出す塚原。
面白い。
塚原が地べたに這いつくばるのは、容易に想像がつく。
「本当にやる気か? 俺は手を抜かないぞ? 全中二位だからといってもな?」
「望むところだ。ここまで馬鹿にされて、ただ茫然としているほど、僕は馬鹿じゃない」
塚原と睨み合う。
塚原の怒りが感じ取れる。
なるほど。
本当にその気らしい。
だったら、剣を交えるまでだ。
徹底的に踏み躙って、塚原の剣道とやらを蹂躙するまで。
しかし一触即発にも関わらず、横やりが入った。
「待った! やめぃ!」
細川のジジイが俺たちに吠えた。
ジジイは立ち上がると、塚原に近づいて平手打ちをする。
平手打ちされた塚原は、何故? と言わんばかりの表情をしている。
俺にも分からなかった。
ただ、俺はこう思った。
細川のジジイは、何か企んでいやがる。
喰えねぇジジイだ、これだけで終わりって訳ではないだろう。
「塚原も安居院も開始線に」
静かな声で誘導する。
「へぇ、そういう事かい」
俺はさっさと、開始線の前に立った。だが岬さんが付いてきて俺の腕を掴み、
「いけませんよ! 安居院さん、落ち着いてください」
そう言いながら放そうとしない。
塚原も言われるがまま、開始線に立った。
そして塚原の方から、竹刀の剣先こちらに向け、中段構えをしてきた。
塚原の表情も、その目つきも俺の知っている塚原ではない。
ついに腹を括った様だ。
「いいねぇ。全中二位の力、見せてもらえそうだな」
俺も構えようとした時、
「おいおい、何を早合点している? 開始線に立てとは言ったが、立ち合えとは言っていないぞ?」
細川のジジイは表情を一切変えず、塚原と俺を見つめる。
ジジイの発言に、まるで肩透かしをくらった様子の塚原。
それは俺も同じであった。
「いいか、塚原よ? たった今、この場所でワシは安居院と立ち合った。そして引き分けで終わった」
まさか…このジジイ……。
「ワシは日輪無神流と『ただ立ち合っいたかった』それだけのこと。
やはりな。
細川のジジイは俺、つまり日輪無神流と一戦を交えたかっただけ。
個人的な興味、悪趣味。
その為に弟子である塚原を、
だが、剣道しかやってこなかった塚原に、
そうなると分かった上で、俺に挑んできた。
細川のジジイも可愛い弟子には、立ち合いをさせたくない。
本当に喰えないジジイだ。
細川のジジイの言葉に、間髪入れずに返事をする塚原。
「自分の剣道を
塚原の息が怒りと共に興奮している。
どこまでいっても、やはりコイツはお子ちゃまってことだな。
実直。
芯の通った男。
融通が利かない、真っ直ぐな男。
要はただの馬鹿だ。
だから…。
だからこそ面白い。
俺に向けられている塚原の表情は、俺が観たくて仕方がなかった表情。
それは怒りに満ち溢れて、本気になった表情。
全中二位ではあるが、本来なら一位を取ってもおかしくはない。
「駄目だ、もう勝負はついた。これ以上もそれ以下もない」
飄々とした表情で、塚原に言い聞かせようとする細川のジジイ。
俺は塚原を見つめたまま、
「本人はやりたがっているみたいだが?」
「いや、駄目だ。ワシの興味本位に付き合わせてしまったワシの責任だ」
だろうな。
そう言うと思っていた。
あくまでも、剣道しかやってこなかった塚原と、剣術である『日輪無神流』と、立ち合いをさせたくないのだろう。
当たり前といえば、当たり前だろうが。
「そんな! 先生、それはあまりにも! 僕は先生の弟子です! 安居院ともやり合えますよ!」
「首筋に手刀で突かれた、というのにか?」
「そ、それは…。油断したまでで……」
塚原は動揺を見せる。
「剣道しかやってこなかった塚原に、安居院の日輪無神流、そして組手甲冑術に勝てる、そう思っているのか?」
塚原は押し黙ってしまった。
ここまでくると、俺も何だか興醒めしてしまった。
自分はやりたい事やって、満足しているだろうが、それを見せられた塚原の考えも分からなくはない。
ただ細川のジジイの言うことにも一理ある。
全中二位の成績を持っている塚原。
そう、全中二位だ。
塚原にはそれしかない。
それだけの実力、実績しかない。
俺と立ち合ったところで、塚原は死に体だ。
結果は直ぐに出る。
剣道と剣術。
人を活かす術と殺す術。
全くの正反対。
「安居院、弟子の塚原は何も悪くない。全てはワシの責任だ。お前を引きずり出したかったワシの責任。どうか許してくれ。そしてここで聞いた事、確かに口外法度、承った」
ふん、随分と自分都合で、エグい事をしやがる。
これだから剣道は甘い。
だが。
ここまで弄ばれるのも、少々ムカつくってものだ。
細川のジジイの、開き直りそして、誠意を見せかけておきながら、自信に満ち溢れているその物言い。
「安居院さん…」
岬さんはまだ俺の袖を掴んでいた。
振り払って俺は
小馬鹿にしやがって。
気に喰わねぇ。
「待て、安居院!」
「ならん!」
呼び止めようとする塚原に、細川のジジイが一喝する。
口内の奥で、歯と歯が擦れる音がした。
俺もこの怒りを、どこまで制御できるか分からない。
ここは一旦、引くしかない。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます