第4話 剣道の理念とは
中山から手を引かせて正解だった。
まさかバレるとは思わなかった。
安居院は寮に入らず裏手に静かに移動し、僕も足音を立てずに決してバレないように、再三の注意を払い裏手の茂みに隠れたつもりだった。
だが、何故か安居院にバレてしまった。
その距離、十五~二十メートルは、離れていたはずだった。
何なんだ?
あいつは耳が良いのか?
だとしたらとんでもない聴力だ。
「何の用だ? 俺は謹慎中の身だぞ。立ち合いもしない、ただつけ回すだけ。どうも道理にかなっていない。何故、そこまでおれに執着する?」
「その前にひとつ聞きたい事がある」
「何だ?」
鋭い目付きを、安居院は僕に向けてくる。
「いつから僕が、安居院をつけ回していた事を知っていた?」
すると再び鼻で笑い、呆れた様に言い放った。
「最初からだ。教室で違和感を覚えた。それだけだ」
それだけだって?
クラスメイト達がいる中で、僕が安居院を意識し始めた時から、こいつは既に気付いていたというのか?
「もう一度聞くぞ? 何の用だ?」
安居院が一歩前に出る。
僕は思わず、条件反射で、竹刀袋を握りしめる。
「やはり立ち合うつもりか? それならそれでもいいぞ? ただし、俺には絶対勝てない」
そうだ。
僕は安居院に勝てる気がしない。
そんな事は重々承知だ。
「そんな事は分かっている! あんなものを見せられたらな!」
「あんなもの?」
僕は一度、深く呼吸をして、動揺を落ち着かせた。
「く、組手甲冑術……。全中でお前が見せた技だ。お前は、俺が知る限り、全中から一度たりとも剣道をしていない!」
僕の言葉にピクリと眉をひそめた安居院。
その様子を見て細川先生の言葉は、やはり本当だったんだと確信した。
「安居院、お前がやっているのは剣術だ。違うか?」
僕はやっと、自分が知りたかった事を、言葉にして言い表せた。
安居院は僕を睨みつける。
それは剣道家の目つきじゃない。
言葉には言い表せない、何ともいえない目つきだった。
そして僕を睨みつけたまま、静かに淡々と言葉を発していく。
「塚原。お前、
そしてあの、悪意に満ちた表情を見せてくる。
佐々木部長を叩きのめした時の、まさにあの表情を。
僕は一瞬、寒気がした。
そして知ってしまった。
安居院は竹刀であろうと、木刀であろうと、
「それで塚原はどうしたいんだ? それを知ったところで何も変わらないだろう。大人しく剣道でもやっていればいい」
「そ、そういう訳にはいかない! 僕は自分の剣道を志して、この河口高校に入ったんだ! それを邪魔される訳にはいかないんだ!」
「へぇ、中々一本筋が通った事を言うじゃないか。だったら、その志した剣道を見せてみたらどうだ? 相手になってやるよ」
「何を言っている?
そうだ。立ち合いであろうが、試合であろうが、竹刀を持たない相手に剣を振るうなんて決してあってはならない。
それは僕の剣道理念に反する。
剣と剣を交えてこそ、それが剣道だ。
僕は安居院とは違う。
組手甲冑術を見たその時から、僕はあくまで剣と、自分の心を磨く事を誓ってきた。
安居院の様に力づくで倒す、なりふり構わず強さだけで戦う、そのスタイルが気に入らないのだ。
この男がやってきた事は武道でも何でもなく、ただの『暴力』であり、『力こそ正義』といわんばかりの所業を行ってきた。
だから許せない。
僕が安居院に立ち塞がった以上、こいつに好き勝手な事などさせはしない。
しかし。
安居院は
声高らかに嘲笑った。
「なるほどなるほど。お前がそういうのならそうなんだろう。だがな、それは甘ちゃんが言う
なん…だと……?
「昨今の剣道界を見てみろ。これがお前の望んでいる剣道か? 師範代は威張りくさり、剣道を習わせている馬鹿な親たちは、指導者や師範代におべっかを使う。その結果、現在の剣道の理念はどうなった? より複雑になり、そしてより甘くなった。鍔迫り合い如きで、十五秒のルール? ちゃんちゃらおかしい。鍔迫り合いで相手を押し出し、地に足のついた奴は、その場で負けに決まっているだろうが。全て馬鹿な大人たちによって、剣道の理念もクソも崩されていく。それに対抗できない剣道協会も馬鹿だ。理念と謳っているが、その理念を分かり
何を言っているんだ?
十五秒ルール?
オリンピック?
落ち着け。
もう一度、深く深呼吸をする。
かく乱している思考を一旦リセットする。
簡単に言えば『剣道とは?』という事を、聞いているに違いない。
そして安居院の言う事も、あながち間違ってはいない。
柔道、空手と違い、剣道は徐々にマイナーになっているのは確かだ。
つまり小さな世界で、慣れ合っていると言いたいのだろう。
剣道の歴史は、柔道や空手より長いとは聞いたことがある。
それこそ剣道は、剣術から形を変えて生まれた武道だ。
伝統もあるし、文化といえば文化であるかもしれない。
だが、オリンピックで選出されないのは、一度たりとも気にした事がなかった。
安居院はまるで
僕には……全く分からなかった。
彼の言う問いに、言葉が思いつかない、浮かび上がってこない。
「教えてやるよ」
安居院は静かに答える。
「剣道の理念の根底には、『武士道』という日本人にしか分からない
武士道。
古くから伝わる、武士の理。
安居院の言う通り、武士道の流れを汲んでいるのが現在の剣道だ。
さすがに全てを取り入れている訳ではないが、武士道の理をベースに全日本剣道連盟は剣道の理念を提唱している。
しかし、それの何がいけないというのか?
安居院は
「ちょっと待て。敗戦国とは一体どういう事だ? それが剣道と、どの様な関係にあるのか僕にはさっぱり分からない。どうしていきなり、第二次世界大戦の話に切り替わっているんだ?」
そうだ。
安居院は剣道、武士道ときて、急に第二次世界大戦の話に切り替え始めている。
違和感でしかない。
目まぐるしく、剣道の理念というものから、話が飛んでいるように思えた。
安居院は
「結局、塚原自身もそこまでの剣士でしかない、って事だな。残念だな、お前の志は俺からすれば勉強し直してこいとしか言えない」
なびく白髪の前髪から、冷めた視線が僕を見る。
いや、
この僕が?
「ふざけるな! 安居院、お前の言っている事は滅茶苦茶だ! 第二次世界大戦の話まで持ち出して、剣道の理念を誤魔化そうとしている! いや、剣道そのものを否定している! 剣術が最強だとでも言いたいのか? 自分の力に溺れている哀れな男は安居院、お前の方だ!」
僕は
「へぇ、さっきまで無手の相手には剣を抜かない、と言ったばかりだというのに…… 矛盾しているな、お前の言う剣道というのは」
「うるさい! ここまで否定され、自分の剣道を
頭に血が上るとはよく言う。
僕は正常な思考を保てなかった。
剣道という理を、信じて疑わなかった。
それをたった
馬鹿にされた。
踏みにじられた。
安居院貴久。
こいつは、やっぱり、危険な男だ。
耳を貸してはいけない。
たちまち、何もかもをこの男に取り込まれてしまう。
駄目だ。
駄目だ駄目だ駄目だ。
お前は危険すぎる。
だが……。
安居院を叩きのめす、そのはずだった。
その意に反して、僕の身体は
中段構えをとった瞬間だった。そのまま面を取りにいけるはずだった。
しかし安居院と目が合ったその刹那、僕の身体はピタリと動こうとしない。
その鋭い眼光に、僕は全てを悟った。
本能がそう急き立てる。
竹刀を振り下ろした瞬間と共に、
僕の身体がその様に訴えかけてきている。
不思議な感覚だ。
身体が僕の脳に訴え、身体が僕を平常心に持ち直しているようだった。
安居院は僕に近づいてくる。
一歩。
また一歩。
さっきまでの僕の威勢は何処へやら、恐怖心がゆっくりと脳を侵食していく。
逃げよう。
だが、身体が動かない。
徐々に近づいてくる安居院に対して、僕は只々恐怖と戦うしかなかった。
これまで感じたことがない感覚。
本当の怖さ、恐ろしさというのはこの事なのだろうか。
いつの間にか、冷汗をかいている。冷汗がまるで縄となり、僕を締め付けている。
これではまるで金縛りじゃないか。
そして安居院は、僕の目の前に立った。
鋭く、今にも僕を食い殺すような眼光。
硬直して、身動きの取れない、僕の耳元で安居院は囁いた。
「これが俺と塚原の差だ。諦めろ。貴様に俺は倒せない」
ひどく冷めた声。
しかし、
「だが、中段構え。何を教わったか知らないが、その構えでは塚原の本気は出せない。元に戻せ。お前が言う剣道を極めたいのなら、お前の剣道を、構えを、残身を心掛けろ」
囁き、安居院はその場を去った。
僕は安居院が去った後も、暫く動けなかった。
何分経ったのか。
硬直した身体はだらりと
そして同時に襲ってくる感情。
それは屈辱だった。
何も出来なかった、自分に対しての屈辱感が、嫌というほど脳裏を駆け巡っていく。
結局、僕は何も出来なかったのだ。
そして小賢しかったのだ。
悔しいのか、情けないのか、それとも惨めなのか分からない。涙が溢れてきた。
興味本位。
それが僕の人を巻き込んでまで
これで剣道など語れるだろうか?
これで理想の剣道を極められるのか?
出来るはずがない。出来る訳がない。自分の心の弱さを棚に上げ、何が理想の剣道だ。
僕は全て、安居院に見抜かれていたのだ。悔しかった。
細川先生の言葉を思い出す。
「この小僧に当たらなくて良かった」
まさにその通りだ。僕はこの言葉を、自分に昇華させていなかった。
謂わば、
それを鵜呑みにしていたのは、この僕だった。それがこの結果を招いた。
何も出来なかった自分。それは心の弱さだ。
それでも。
それでも僕は……。
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