あるいは瞼を閉ざした話(8)
結局、Xの睡眠時間は『こちら側』の時計で三時間程度だった。
あれだけの時間、連続で活動していたのだから、その程度の休息で疲労が回復するとは思えなかったし、それは画面の中に映し出された獣も同様だったのだろう。体を起こしたXを見上げながら、怪訝そうな声音で言ったのだった。
「もういいのか?」
はい、と短く返事をしたXに対し、獣は口元を歪ませる。
「アンタ、返事だけはいいけど何ひとつ信用できないな」
「睡眠は時間より質ですから」
Xの言葉はどこまでも一般論であり、本当にそう思っているのかどうかはさっぱりわからない。獣も私と全く同じ感想を抱いたに違いなかった。何度目かになるかもわからない溜息をついてみせる。
「まあ、アンタがそう言うならそういうことにしておく。さっきよりは随分マシな顔してるしな」
「そうですか。自分の顔は見えないので、よくわかりませんが」
「顔、洗うか拭くかはした方がいいとは思うけどな。酷いぞ、血」
「……ああ」
今気づいた、とばかりのXの声。確かに、顔を拭った時にべったりと手に血が付着していたのだから、顔にも血が付着したままと考えるのが妥当だ。
Xは今もなお赤黒く血のこびりついた手で、もう一度顔に触れながら、言う。
「洗う場所もありませんから。別に、あなた以外の誰が見ているわけでもありませんし」
「そりゃそうだが、見ている俺は不安になるよ」
「出血はとうに止まってますから。問題はありません」
「そうじゃなくて、そう言い切るアンタの人格に不安があるってことだ」
獣の呆れ声を沈黙で受け流し、Xは獣の入った箱を持ち上げる。
ここから先もまだ道は続いている。魔女狩りの魔女と顔を合わせるまでには、あとどのくらいかかるのだろうか。Xは……、不安を覚えることは、ないのだろうか。
どれだけ思ったところで、仮に声に出してみたところで、Xに私の声は届かない。Xは獣の入った箱を抱えて、道の先に視線を向ける。ただ、ただ、真っ直ぐに伸びているだけの道。色のないがらんとした世界に消失していくように見える、道。
「まだ、目の気配は感じるな?」
「はい。遠ざかってはいないとも、思います。この道を行けば、きっと」
「見失ってないからこそ、アンタには道に見えてるんだろうな。アレの居場所に繋がった、道に」
「あなたには、見えていない?」
「アレの場所は感じ取れるが、アンタの言う道は見えてないな。まあ、アンタさえ見えてりゃ問題ないさ。進んでけば、いつかは必ず辿り着く」
獣はそれだけを言って、ふわ、とあくびをした。先ほどまでも、時折寝息やいびきが聞こえたりしていたので、Xが歩いている間は暇を持て余し、ほとんどの時間を眠って過ごしているのだろう。
Xは抱えた箱に視線を落として、平坦な声で言う。
「いいですよ、寝ていても」
「そうする。アレに近づきゃ、嫌でもわかるだろうしな」
じゃ、おやすみ、と言い残して獣は黙った。Xは道に視線を戻し、一歩を踏み出す。
それからは、またひたすらに変化のない時間が過ぎていった。もはやどれだけ進んでも辺りの風景は何一つ変わらずに、色のない空虚だけが一面に広がっている。Xが「歩いている」という事実だけが、かろうじて前に進んでいることを認識させてくれる、だけで。
この景色を延々と見せられているだけでも気が滅入る。どれだけ進んでも変わらない景色というのは、心をすり減らすにも十分だ。
それでも、Xは弱音一つ吐かずに歩み続ける。それが己に課せられた責務であるかのように。今回ばかりは誰の命令でもなく、X自身の意志でそうしているはずなのに、観測している私はそう思わずにはいられない。
その時、不意に、スピーカーからXの声が響いた。
「聞こえてますか」
それが、観測している『こちら側』の我々に向けた言葉であることに気付くまでに、一拍の時を要した。
もちろん、私がXに言葉を返すことはできず、Xも返事がないことは了解しているはずだ。その上で、ほとんど独り言のように、しかし己に語り掛けるにしてはいやに明瞭な発声で言う。
「まだ、観測は続いていますか。……どのくらい時間が経ったのかも、定かではないですが」
画面を見る限り、Xは一定のペースで歩き続けているようだ。歩きながら、我々に向けて言葉を投げかけてくる。
「今も観測しているなら、わがままを聞いてくださり、感謝しています。目的を果たしたら必ず戻ります」
それから、と。Xの、元より低めの声が、更に深い色を帯びる。
「こうは言いましたが、私は、失敗するかもしれない。その時は、きっとそちらも何らかの判断を下すのでしょう。だから、これも、どこまでも私のわがままですが」
一呼吸の間を置いて、Xは、静かに言う。
「私が失敗したら、その時は、……切り捨ててほしい」
それは。
命綱を、切れということ。
Xの意識を、この『異界』に置き去りにしろということ。
つまるところ、『こちら側』におけるXの死を意味する。
もちろん、Xが言う「失敗」とは、目的を果たせないこと。己の目を取り戻せないこと。つまり、魔女狩りの魔女と顔を合わせた上で、交渉に失敗することを意味する。その時点でXが生きていない可能性は十二分にあるから、どちらにせよ死を意味しているといえば、そう。
ただ、あえて我々に向けてこう言ったということは、「失敗と判断したとしても、引き上げるな」ということなのだろう。
「どうか、お願いします」
「それは……、約束できないわ、X」
私の声は届かないと頭でわかっていても、声を上げずにはいられなかった。
約束などできない。そもそもXの言葉に従う理由もない。Xの希望は出来る限り叶えたいと思っているが、それはあくまでプロジェクトを円滑に進めるための方策で、異界潜航サンプルを長く使い続けるための手段に過ぎない。
だから、いくら「お願い」されたとしても、私はきっと引き上げを命じる。それがXの意に反すると理解したところで、私のやることは変わらない。異界潜航サンプルを『異界』に送り込み、引き上げ、データを取る。それがこのプロジェクトの使命なのだから。
「お願いします。……なんて」
そして――それは、きっとXもわかっているのだ。
「私が言っても、仕方ないとは、思いますが」
わかった上で、叶わぬわがままを言っている。それだけの話。
私がそのわがままを聞き入れるわけにはいかない。そもそも、Xの希望を受け入れて『潜航』を続けさせていることが正しい判断だったのかも、疑問が残る。
だが、普段、「異界潜航サンプルを続けること」以外の希望を持たないXが、堪え切れなかった感情と共に吐き出したわがままに、感じるものが無いかったと言ったら、嘘だ。
だから、せめて、プロジェクトのリーダーとして、もしくはそれ以前の「私」という個人として、Xの無事を祈る。
迷いなく歩みを進めるXが、目的を果たすことを、祈るのだ。
「『潜航』を続行します」
Xの声は、その宣言を最後に途絶えた。
私は知らず、両の手を握りしめていることに気付いた。全身にかかっていた力を抜いて、息をつく。
ディスプレイに――Xの目に映る道がどこまで続いているのか、私はまだ、知らないままだ。
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