あるいは瞼を閉ざした話(4)
Xは足早に道をゆく。サンダル履きの足音は聞こえない。静寂に包まれた世界を、ただ、ただ、進んでいく。忽然と現れる階段を上り、目の前に現れた扉をくぐり、そこから延びる道を更に歩いていく。その足取りに迷いはないが、彼には向かうべき場所が――片目を奪い去ったあの女性の居場所がわかっているのだろうか。ディスプレイ越しに観測しているだけの私がそれを判断することはできない。
画面に映る世界は少しずつ風景を変えていこうとしていた。最初は扉ばかりが目についたが、進んでいくにつれ、扉は数を減らしていき、代わりに、大小さまざまな箱のようなものが虚空に浮かびはじめる。箱の材質はそれぞれだが、どれも側面が格子状になっているのが見て取れた。
そして、もう一つ、変化があったとすれば、今まで無音であった世界に、わずかな音が生まれたということだ。
Xも周囲の状況の変化に気付いたのか、足を止めた。そして、ゆっくりと視線を巡らせる。音の出所を探るかのように。
音はXの側に浮かんでいる、いくつかの箱の中から聞こえてきていた。箱の一つずつを注視してみれば、その内側で、影が蠢いているのが見える。すぐ側に浮かぶ、人ひとりがすっぽりと収まるくらいの大きさの箱を見やれば、格子の隙間から、酷く痩せた人間の腕らしきものが伸びていた。道に立つXにぎりぎり届かないくらいの位置で、枯れ枝のような指先が、虚空を掻く。
それと同時に、スピーカーから掠れてひび割れた声が聞こえてくる。
「出して、くれ」
こちらにも意味の取れる言葉。Xにも理解できただろう言葉。Xは伸ばされた手には触れないまま箱の中を覗き込む。中にいる者の姿はよく見えなかったが、少なくとも人らしい形をしているようには、見えた。
ひとつ、聞こえていた音が「言葉」だと認識できた途端、辺りの箱から響いていた微かな音がにわかに「言葉」として意識されるようになる。
「助けてくれ」
「あの女を出せ」
「ここから逃がして」
「呪ってやる」
「こんなところもう嫌だ」
「帰りたい」
どうやら、この箱一つ一つに何者かが入っているらしい。しかも、望んで入っているわけではなく――不本意に閉じ込められている。助けを求める声、呪詛を紡ぐ声、帰還を望む声。いくつもの声を浴びせかけられながら、Xはその場に立ち尽くす。
箱に対して何らかの行動を起こすわけでもなく、ただ、ただ、黙したままそれらの声を聞き続ける。
その時、不意に。
「何だ、珍しいな、アレ以外の奴がこんなところまで来るなんて」
辺りを支配する重たいざわめきを貫いて響く、声。Xの視線はその声が聞こえてきた方に向けられる。
声の出所は、Xから死角に位置していた、ひときわ小さな箱だった。両手で支えられる程度の大きさの箱から、しかし、声だけはいやにはっきりと聞こえてくる。
「おいおい、何て顔してんだ。アレに手ひどくやられたか?」
Xはその言葉には応えないまま、箱の中を覗き込む。細い格子の間から見えたのは、柔らかそうな黒い被毛を持つ、ちいさな動物だった。ぱっちりとしたつぶらな瞳が、こちらを見つめ返している。その顔立ちを『こちら側』の生物に例えるならば、ウサギに近い。けれど、耳の形はネコのようでもあり、そもそもウサギだとしたら明らかにおかしな位置から脚が生えていたりもする。
その、不可思議な獣が、私の知る動物にはあり得ない口の動かし方で言葉を放つ。
「なんとか言えよ、それとも俺の言葉がわからないクチか?」
「……いえ」
スピーカーから漏れる、低い声。
「聞こえていますし、言葉も、わかっていると、思います」
言葉ははっきりと聞こえるのに、ぼんやりとした響きを帯びたXの声。それを聞いた獣が、目をぱちりと瞬かせる。
「アンタ、どうしてこんなとこをうろついてんだ? 迷子っつーには厳つい顔してるが」
「人を、探しています」
Xがその言葉を放った途端、辺りを包むざわめきが深まった。けれど、Xは構う様子もなく、箱の中の獣を見つめ続ける。
「アレが『ヒト』に見えたのか、アンタは」
獣は愛嬌のある顔に似合わぬ、妙に人間じみた溜息をつきながら言う。
「そのツラ見る限り、アレにやられたんだろ。目玉一つで済んでるところを見ると、アンタ自身には興味が無かったみたいだが」
「あなたがアレと呼んでいるのは、あの、白い、女ですか」
「まあ、確かに白いな。女にも見える。……だが、アレを探してどうするつもりだ?」
「目を、返してもらいます」
「無理だ、諦めろ」
Xの言葉を、獣は切って捨てた。獣の表情は人間のそれとは異なり、正確に推し量ることはできそうにないが、声音が多分の呆れを含んでいることは私にも判断できた。
「帰った方が身のためだ。せっかく見逃されたんだ、これ以上アレに関わるべきじゃない」
「何故?」
「次はアンタが『こう』なるからだよ」
言って、獣は妙に多い脚の一本で格子に触れてみせる。
「アレは、アレ自身が信じている『ルール』が全てだ。アンタ自身はルールに抵触していなかったから解放されたんだろうが、アンタがアレに歯向かおうってんなら、容赦する理由もなくなる」
それこそ、捕まるだけじゃ済まされないかもしれないな、と獣は言い放つ。
確かに、あの女性は、憐れみの微笑みを浮かべたまま、指先ひとつでXの目を抉り取ってみせた。どう見ても『こちら側』の常識が通用しない相手であり、そしてXはあの女性独自の、我々には理解できない判断基準に照らして「見逃された」だけなのだろう。
もし、あの女性の意向に逆らうならば、次はない。獣はそう警告しているのだ。
だが、Xは。
「だから、何だというのです?」
「は?」
「どうして、それで……、諦めることが、できる?」
「アンタ、俺の話聞いてたか? たかが目玉一つだろ?」
「『たかが』――?」
ぽつりと声を落としたXは、果たしてどのような表情をしていたのだろう。箱の中の獣が、びくりと震える。
「おい……、何で、そんな顔」
「取り返すまで、帰らない。諦めて帰る理由がありません」
Xの声は静かで、淡々としていて、それだけならば私が普段から観測しているXと何も変わらない。だが、その言葉は獣の忠告が全く耳に入っていないことを示している。いや、耳には入っているのだろうが――言葉通り、Xにとっては引き返す理由にはならない、ということなのだろう。
Xの言葉を受けて、獣は二の句が継げなくなったのか、押し黙る。Xはしばし箱の中の獣をじっと見つめていたが、やがて視線を外した。箱の浮かぶ空間の中にも、細い道は真っ直ぐに延びている。まだ、ここから「先」があるということだ。
声をかけてきた獣が口を噤んだ以上、立ち止まっている理由もない。Xは足を踏み出そうとして……、「待てよ」という獣の声に制される。
「どこに行こうとしてるのか、わかってんのか」
「知っているわけでは、ありませんが」
乾いた血がこびりついたままの手が、視界に入る。汚れた手が握られて、ほとんど呟きとしか取れない声がスピーカーから零れ落ちる。
「この先に『ある』ことなら、わかりますから」
失われた眼球の在処など、通常ならばわかるはずもない。もしくは、とっくに失われていたとしても、おかしくはない。だが、Xの声には妙な確信が籠っていた。常日頃から誤魔化しや嘘と無縁のXが、あえて「ある」と断言するからには、私には観測できない何らかの感覚で左目の存在を感じ取っているのかもしれなかった。
「それでは。先を急ぐので――」
「ほんと強情だな、アンタ。まあ、そう言うならもう止めないけどよ」
獣の声が、視界の外から聞こえてきて。
「先に行くなら、俺を連れてく気はないか?」
その言葉を受けて、Xは獣の方に視線を戻した。獣は小さな箱の中から愛らしい顔をXに向け、けれど顔に似合わぬ調子で言うのだ。
「アンタはアレのことを何も知らないときた。きっと、ここのことだってろくに知らずに迷い込んだんだろ。俺はアンタの知らないことを教えられるし、アレのいる場所だって想像はつく。役に立つぜ、アレに会おうってんなら、尚更な」
「……それで、あなたには、何の得があるのです?」
Xの言葉に、獣は「はは」と愉快そうに笑う。
「俺もアレに用がある。そうでなくとも、こんな変わりばえのしない場所にいるのはこりごりだ。それだけの話。アンタの邪魔にはならねえよ」
どうだ、悪い話じゃないだろう、と。あっけらかんとした獣の言葉を受けて、Xは何を考えていたのだろう。しばしの沈黙ののち、Xの声がスピーカーから聞こえてくる。
「わかりました。協力を願います」
「よしよし、いい返事だ。じゃあ、早速ここから」
獣の言葉を聞き終わるよりも先に、Xの手が獣の入った箱に伸ばされる。何かに繋がれているわけでもなく、ただ虚空に浮かんでいただけの箱は、あっけなくXの両手の中に収まった。どのくらいの重さを感じているのか、どのような手触りなのか、私が知ることはできない。ただ、Xは手の中の箱に視線を落として、
突然、箱を激しく上下に振った。
「あばばばばばばばばばば」
中の獣からしたらたまったものではなかっただろう。言葉になっていない声が箱の中から聞こえてくるが、Xは意にも介さず箱を振り続け、やがてぴたりと手を止めて、ぽつりと言った。
「開きませんね」
「今ので開くとでも思ってたの!? アンタ頭大丈夫か!?」
獣がぎゃーぎゃー訴える声が聞こえるが、Xはその言葉もろくに聞いていないのか、箱を手の中でぐるりと回して、言う。
「蓋も、継ぎ目も、ないですね」
「せめて、それを先に確かめてほしかったよ」
もっともだ。見ている私の方まで呆れた溜息を漏らしてしまう。Xの奇行もあるが、対する獣が比較的気さくな調子でいるからだろう、先ほどまで漂っていた緊張感は随分薄れた気がする。
それでも、Xはあくまで淡々としていて、箱を見えている方の目に近づける。格子の向こうの獣は目をぱちくりさせてこちらを見つめ返す。
「どうすれば、開きますか」
「さあな、内側からは絶対に無理なことだけはわかるが。散々試したからな」
「そうですか。ではこのまま失礼します」
Xはさらりと言い放ち、両手で箱を抱えて歩き出す。獣が「おい」と慌てた様子で声をかけてくるが、Xはもう手の中の箱に視線を落とすこともない。
「せめて、もうちょっと、こう、開けてみようとする努力を見せて……」
「では、もう少し強く振ってみますか」
「ごめん俺が悪かったからやめてくれ」
わかりました、と答えるXの表情を私が窺うことはできないが、彼自身はいたって真剣に言っているのだということは、何となくわかってしまう。獣も同じ結論に至ったのだろう、ディスプレイの外側から溜息混じりの声をかけてくる。
「アンタ、イカれてるよ」
「よく言われます」
Xが道を進み始めれば、辺りに漂う大小いくつもの箱の中から聞こえていた声が、にわかに数と音量を増す。
「どうしてそいつだけ」
「私も連れて行って」
「ここから、どうか」
「助けて」
「助けて」
「助けて」
だが、Xがそちらに目を向けることは、もう、ない。彼の意識は、既に目の前に延びている道にのみ向けられているようだった。足早に箱と箱の間を抜け、ただ、ひたすらに前へ。
「呼ばれてるぞ」
「聞こえています。けれど、私の手で持てるものには、限りがありますから。無理なことは、できません」
ひゅう、と、そんな口の作りをしていないはずの獣が口笛を吹く音が聞こえた。明らかなからかいの態度に晒されてもXは動じることなく、前へ前へと足を進めながら言う。
「ここにある箱には、全て、誰かが入ってるんですね。そして、一度入ったものは出ることはできない」
「そうだよ」
「つまり、牢獄、ですか」
「ああ」
牢獄。――Xにも縁深いもの、と言ってしまえばそうだ。Xはこのプロジェクトに参加するまでは、否、参加している今ですら、普段は刑務官としか接することのない独房で暮らしている。いつだって変化のない、そして、その命が終わる時まで変わることはないだろう、牢獄だ。
普通の感覚ならば、嫌にもなるだろう。今、手の中にいる獣のように。だが、Xは少なくとも我々の前で、己の境遇に対する呪詛を吐いたことは一度もない。「当然のこと」と言うことはあったとしても。
そんな私の思考とは無関係に、獣の言葉は続いていく。
「アレの気に障る奴を、その存在が尽き果てるまで封じるもの、って言やいいのかな。死ぬまでの刑。下手すりゃ死ぬよりも苦しい刑。俺も、奴らも、何をしたわけでもないのにな」
「……あの女は、『理を乱す』と言っていました。理を乱し、世界を壊すと」
「アレの言うことを真に受けんなよ。アンタだって、別に何をしたわけでもないのに、片目を取られたんだろ。そういうことだ」
「私は、」
Xは言いかけて、けれど、その続きが言葉になることはなかった。
何をしたわけでもない、といえばそう。この場所で何か罪を犯したわけではない。あの女も「あなたに罪はありません」と言っていたはずだ。つまり、X自身に非があったわけではない――はずだ。何故Xの目が奪われなければならなかったのかは、未だに理解できていないが。
ただ、きっと、Xには思うところがあったのだろう。「何もしていない」という言葉に。「罪はない」という言葉に。
Xは罪人だ。私たちの法に照らすなら、どうしようもなく。死に値する程度の。
そして、Xもその事実を認め、刑が執行されるまでの時を生きている。
だから、『異界』のルールを侵してはいないとわかっていても、言葉に詰まったのだろう。己の過去から現在までを俯瞰して、「何もしていない」とは、口が裂けても言えなかったに違いなかった。
獣はXが言葉を飲み込んだことをことさら追及することはなく、代わりに別の話題を振ってきた。
「しかし、アンタも物好きだよな、わざわざこんな目に遭いたいってんだから。手前の目玉がそんなに大切なのか?」
Xは歩き続ける。もはや、手の中の獣にも、周りに浮かぶ箱にも構う素振りを見せない。それでも、獣の言葉を無視することはせず、一拍の呼吸を置いて、律儀に答えるのだった。
「私には、いくらでも代わりはいますが、あの目は、ただ、ひとつ、なので」
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