あるいは瞼を閉ざした話(2)
「愚かなひとですね。哀れなひと、と言った方がいいでしょうか」
スピーカーから響いてくる声は、どこまでも澄んだ、薄い硝子を鳴らしたかのごとき響きを帯びていた。
そして、Xが理解できる、つまり我々にも通じる言葉であった。
もちろん、これもXの知覚に依存する以上、本当に女性が日本語で喋りかけてきたと断定することはできない。わかるのは、この『異界』において、Xが用いている言語での意志疎通を図ることのできる相手だ、ということ。それだけだ。
Xはわずかの沈黙ののちに、口を開く。
「初めまして、のわりには、失礼なことを仰いますね」
よく通りはするものの、低い唸りを思わせる響きは、澄み渡る女性の声とは対照的だった。選ばれた言葉とは裏腹に、声に不快の色はなく、ただただ女性の言が「失礼」に当たることを指摘するだけの、彼らしい物言い。
それに対し、女性はもう一歩分距離を詰めながら、完璧な微笑みもそのままに歌うような声音で言うのだ。
「事実を述べただけです。あなたは哀れなひと。愚かしさゆえに、理を乱すものに心を惑わされたのでしょう。歪んだ理を、その身に、宿してしまったのでしょう」
「……何を、言っているんです?」
言葉は通じる。ひとつひとつの単語の意味を拾い上げることはできる。けれど、Xの戸惑いは妥当だとも思う。それがXを指した言葉であることがわかるだけで、私にも女性が何を言いたいのかは全く伝わってこない。
女性はいつの間にか互いの手が届くくらいの位置にまで近寄ってきていた。近くで見れば、更に非のつけどころがないとわかる顔。深い憐憫を湛えた微笑みは、まるで絵に描かれた聖母か何かのように見えなくもなかった。
その憐憫が、「自分」に向けられたものでない限りは。
女性はXが自分の話を理解していないことに気づいたのだろうか、「あら」と目を少しだけ見開いて、それから、笑みを深めた。
「あなたは、異なる世界から渡ってきた者でしょう? なら、わかるのではないですか、理を乱すということが。あらゆる世界を壊しかねない、悪しき行いのことが」
「わかりかねます。私は、ただ、この世界のことが知りたいだけで、何も、乱したり壊したりしたいわけでは……」
「いいえ、いいえ、あなたは知っています。知っていなければおかしいのです」
すう、と女性の白い右手がXに向けて伸ばされて、ディスプレイの端へと消える。もしかすると、Xの顔に触れたのかも、しれなかった。
「世界のあるべき形、それが理です。ひとつひとつの世界に、目には見えなくとも確かに存在しているもの。そして、その理を捻じ曲げて、身勝手にもあり得ない形に書き換える。そういう行為を、あなたたちの言葉では『魔法』と呼ぶのです。ご存知でしょう?」
魔法、と。Xの掠れた声が、わずかに、スピーカーから聞こえた。
――魔法。
それは、『異界』を観測する我々にとって、特に慎重に扱うべき言葉だ。
今までの『潜航』で、Xは『こちら側』では起こりえない数々の不可思議な現象に遭遇してきた。ただし、現象を観測した我々がそれに魔法という名前をつけたことはない。『こちら側』ではあり得ない現象も、その『異界』の中では当然のものであり、「起こりえないこと」を示す「魔法」という言葉は相応しくないからだ。
ただし、幾度にも渡る『潜航』の中で、魔法と呼ぶべきものが無かったとは言わない。
それは――『異界を渡る者』の持つ力だ。
我々は意識をこの世界に近しい『異界』と接続する、という形で限定的に『異界』を観測している。もし、人間を肉体ごと『異界』に送り込み、自由に『異界』を渡り歩く技術が確立されればこのプロジェクトも別のステージに至るのだろうが、今のところ実現には遠い。
だが、Xを通して『異界』を観測するようになって、はっきりした。我々がその方法を確立できていないだけで、『異界』を自由に渡り歩く者は存在する。それぞれの『異界』のルールに縛られることなく、まさしく魔法のような力を操る者たち。Xが接触したことのあるその人物の言葉を借りるなら、「魔女」と呼ばれる、ものが。
果たして、女性の言うそれが、私の知る魔女たちが操るものと同じものかはわからないが、『異界』と呼ばれる『こちら側』とは異なる場所でも、守られるべきルールがあるということは……、わからなくは、ない。そして、女の言う「魔法」とはそれぞれの世界が持つルールを逸脱し得るものを指すのだ、ということも。
Xが女の言葉をどう咀嚼したのかはわからない。私と同じような考えに達したのか否かを、ディスプレイとスピーカーから伝わる情報で判断することはできそうになかった。私にわかるのは、Xがそれきり沈黙していることだけだ。
女は憐れみを湛えた笑顔を浮かべ、何色とも言い切れない不思議な色の双眸でじっとXを見つめてみせる。
「どれだけ愚かで哀れであろうとも、あなたに罪はありません。しかし、理を乱し、世界を壊す魔法と、それを操る者の存在は、悪しきものなのです。許されざるものなのです」
小さな子供に言い含めるような、柔らかな言い方で。
「ですから、あなたに宿ってしまった魔法は……、除かれるべきなのです」
刹那。
ディスプレイに映し出されたXの視界が激しく揺れた。暗転。そして、スピーカーから聞こえてくるのは、押し殺し切れていない、Xの苦悶の声。
何が起こったのか、私にはわからなかったし、この場に居合わせたスタッフも誰一人理解しなかったに違いない。だが、一拍ののちにディスプレイが明転し、そこに映ったものを見て息を飲んだ。
暗転していた間の一瞬で、伸ばされていた女の手が、Xから離れていた。そして、そのしらじらとした細い指につままれていた、それは。
それは。
――血を滴らせる、眼球、だった。
「っ、う……っ」
その場に膝をついたのか、視線が先ほどより低い。激しく瞬きをしているのだろう、ディスプレイの映像がちらつき、言葉にならない呻き声が、スピーカーから漏れる。
「もう、大丈夫ですよ。あなたは、何も悪くありません。悪いのは、……あなたを惑わせたもの。それも、こうして、取り除かれました」
Xの乱れた息遣いと獣じみた唸りに、女の涼やかな声が混ざりこむ。女を見上げるXの激しくぶれる視界の中で、女の姿が少しずつ薄らいでいく。もちろん、その手の中にある眼球も、一緒に霞んでいく。
「これは、元よりあなたには必要のなかったものです。あってはいけなかった、もの」
ただ、ただ、硝子のような声が、耳に響く。
「これであなたも、正しく、間違うことなどなく、生きていくことが、」
「それを! 返せ!」
女の声を遮り、突如として意識の中に飛び込んできた声。
それがXの声だと気付いたときには、ディスプレイに映し出された女に向けて、Xの両腕が伸ばされていた。しかし、その腕は女に触れることもなく、空を切る。がくん、と視界が揺れて、視線が床へと落とされる。勢いあまってその場に倒れ込んだのだろう。
Xが顔をあげても、女の姿は、もう、見えなかった。
けれど、わずかな煌めきの気配だけが残る虚空に向けて、Xは声を荒げるのだ。
「返せ! 返せよ! それは、……っ!」
その言葉は、最後まで紡がれることはなく。苦しげな呼吸の気配を最後に、沈黙が落ちる。
私が――この場にいる全員が、呆然と、ディスプレイを見つめていた。
結局、あの女の言動の意味は何一つ掴めなかった。はっきりしたのは、あのしらじらとした手で、Xの片目を抉った、ということだけ。
だが、何よりも私を驚かせたのは、Xが自ら声をあげて、女に食ってかかろうとした、ということだ。突如、理不尽に傷つけられたのだから激昂してしかるべき、という当然の感想と、「Xらしくない」という思いが混ざりあう。
そう、これまで我々が観測してきたXらしくは、ないのだ。
Xという人物について、私は仔細を知らない。知る必要がないから。個人の情報は、「生きた探査機」である異界潜航サンプルの運用には関係がない。我々からすれば、こちらの指示に従って『異界』を観測できる人物であれば、それだけでいい。
だから、私はXの本名も知らなければ、その出自も経歴も知らない。Xとの対話で得られた情報といえば、かつて、片手の指では数えきれない人を手にかけて、死刑を宣告されたということ。そのくらい。
そして、Xという人物は私の目から見る限り、穏和で冷静、そして極端に従順な人物だ。理屈では説明のできない出来事に直面し、死を覚悟したことだって一度や二度ではないはずだ。しかし、『潜航』を命じる我々に恨み事も弱音も吐き出すことなく、それどころか眉ひとつ動かさずに次の指示を求めるような――、そういう、人物。
サンプルとしては極めて扱いやすいが、気まぐれに「人として」のXを考えてみる時、それは異様さとして映る。何に対しても執着を見せず、こちらがひとたび命じれば己を擲つことも厭わないXの姿勢は、見ている側が不安になるほどの自我の欠如を感じさせる。振る舞いに見る穏やかさも、何を前にしても心を動かすだけの理由がない、ということだと考えていたし、スタッフたちも同様に認識していたはずだ。
だから、「片目を奪われた程度」で激昂するような人物ではない、と。私を含めたこの場の全員が思ったに、違いないのだ。
「リーダー、どうする? 観測、続ける? それとも引き上げる?」
エンジニアの声が、ぐるぐると巡り始めていた私の意識を現実に引き戻した。
Xは、その場に起き上がろうとしているところだった。沈黙はそのままに、ディスプレイに映し出された視界がゆっくりと持ちあがり、改めて無数の扉と道とで構成された騙し絵の『異界』を映し出す。激しい瞬きも止まったのか、視界は安定していた。
もう、視界内に動くものはない。女性はXの眼球を持ったままいずこかに消え、その影すらも見えない。
「……もう少しだけ、待ちましょう」
返せ、と叫ぶXの声が、耳の奥に響いていた。ほとんどのものに心を動かさなかった彼が垣間見せた、苛烈な感情の発露。それが『潜航』にどのような影響を及ぼすものなのか、私には想像もできなかったから。
せめて、ここからXがどう動くのか、そのくらいは、見届けたかったのだ。
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