ペンギン・デリバラー(1)
ペンギンだ。
最初にその『異界』を目にした感想はそれだった。
辺りは深い霧に満ちているため、Xの目では遠くまでを見通すことは難しい。しかし、辺りをぺたぺた駆け回るもの、地面に腹をつけてうつらうつらしているもの、棒立ちになって虚空を見つめているもの、耳にうるさい声で鳴きかわしているもの、そのどれもがペンギンなのはわかる。腹から首にかけてと羽の裏、目の周りだけが鮮やかに白く、それ以外がしっとりとした黒の、『こちら側』でいうアデリーペンギンによく似たペンギン。
もちろん『異界』の事物を『こちら側』の常識に照らし合わせるのは、観測における正しい姿勢とは言えない。ペンギンの姿に見えていても、実際にはまるで別の生物である可能性が高い。『異界』とは『こちら側』と異なる理で存在しているからこそ『異界』なのだから。
とはいえ、観測しているのが私という『こちら側』の人間である以上、つい『こちら側』の思考に縛られてしまうのは許されたい。
それに、現実に『異界』でそれらを観測しているXだって、
「ペンギンだ……」
と呟いているくらいなのだから。
ペンギンたちは、その場に立ち尽くすXを不思議に思ったのか――それとも、大きな同類だとでも思ったのか、よちよち歩きで寄ってくる。気づけばXは、すっかりペンギンに取り囲まれる形になっていた。
「あの……」
Xの、助けを求めるような声が、スピーカーから聞こえてくる。
確かに、これでは身動きも取れない。背丈はそう高くないペンギンなので、持ち上げてどかすのはそう難しくないのだろうが、果たしてこちらを見つめるペンギンに触れていいのか、手を出したら噛まれたりしないだろうか、敵対行動とみなされて群れで襲い掛かってきたりはしないだろうか、様々な可能性が脳裏に浮かんで、行動に移せないとみえる。
数多の『異界』を渡り歩いてきたXだからこその危機察知能力が、今回ばかりはX自身の行動を鈍らせているともいえた。今まであらゆる理不尽な経験をしてきたのだから、さもありなん、というところだが。
じり、じり、と包囲の輪を狭めてくるペンギンたち。今にも飛びかかってきそうな、剣呑な目つきをしている。いや、ペンギンの目つきは元より怖いものなのだが。
その時だった。
「おや、誰かいるのかな?」
霧に閉ざされた視界の先に、ぼんやりと人影が浮かぶ。すると、Xを取り囲んでいたペンギンたちが一斉に声の聞こえた方に首を向け、ぴょこぴょこぺたぺた、そちらに駆けていくではないか。
霧をかき分けるようにして現れたのは、大柄な白髪の男性だった。Xより幾分年上なのだろう、深く皺の刻まれた顔は穏やかで優しげだ。そして、その手には大きなブリキのバケツがぶら下げられている。どうも、ペンギンたちのお目当てはそのバケツの中身であるらしい。
「知らない顔だね、こんなところに何の御用かな?」
「いえ、その、迷い込んで、しまいまして」
しどろもどろといった様子で弁明するX。「別の世界から来た」と言えない状況に置かれたときに、どうにも不審なことしか言えなくなるのが、彼の異界潜航サンプルとしての数少ない欠点といえよう。Xは、元より話すのが苦手なのに加えて、嘘や誤魔化しが極端に苦手なのだ。
とはいえ、男性はXの不審さにもさして気を留めた様子もなく、人のよさそうな顔のまま、軽く首を傾げる程度だった。
「迷子かい、それはまた……、おっと」
ペンギンたちが何かを訴えるように口々に鳴き喚き、男性の手にしたバケツをつつく。
「すまないね。まずはこいつらに飯を食わせてやらないと」
なるほど、バケツの中身はペンギンたちの餌なのか。ペンギンたちの興奮の具合から、どうやら彼らは相当腹を空かせているらしい。つまり、先ほども、Xが「餌をくれる存在」だと考えて包囲してきたのかもしれなかった。
手に一つずつ持ったバケツを置こうとした男性に、Xが歩み寄り声をかける。
「お手伝いしましょうか?」
「そうかい? 助かるよ、一人だとなかなか満遍なく食わせてやるのが難しくてね」
そう言って、男性は片方のバケツをXに渡し、ズボンのポケットから予備の手袋を引っ張り出す。Xがバケツの中身を覗き込めば、そこには魚がいっぱいに入っていた。どれもこれも『こちら側』の魚と似て非なるもの。何よりも、その鱗は様々な色に輝いて見えて、さながら宝石のようであった。
「魚をやるときは、頭からあげてくれ。そうじゃないと、鰭が喉に引っかかっちまうからな。あと、できれば食ってない奴を優先してほしいが……、まあ、見分けもつかんだろうしな。食いたがってるやつにあげてくれ」
「わかりました」
男性の言葉に生真面目に頷いて、手袋をはめて魚の尾を持つ。鮮やかな紅の魚。大きな鰭は、確かに喉に引っかかったら相当辛そうだ。しかし、ペンギンたちはそんなことどうでもいい、とばかりに嘴をぱっくり開いて待っている。愛らしい姿に似合わず、その嘴の中はぎざぎざとした突起に満ちており、なかなか恐ろしげだ。
Xは男性の動きをちらりと見て、それを真似て一番近くのペンギンの口に魚を押し込む。言われた通り、頭から。そうして、私はXによるペンギンの給餌を、バケツの中身がすっかりなくなるまで、じっくり観察することになるのだった。
――『異界』。
ここではないいずこか、此岸に対する彼岸、伝承の土地におとぎの国、もしくは、いくつも存在し得るといわれる並行世界。
それらが「発見」されたのはそう最近のことではない。昔から「神隠し」と呼ばれる現象は存在しており、それが『異界』への扉をくぐる行為だということは一部の人間の間では常識とされていた。
だが、『異界』が我々を招くことはあれど、『異界』に対してこちらからアプローチする手段は長らく謎に包まれていた。
そのアプローチを、ごく限定的ながらも可能としたのが我々のプロジェクトだ。人間の意識をこの世界に近しい『異界』と接続し、その中に『潜航』する技術を手にした我々は、『異界』の探査を開始した。
もちろん『異界』では何が起こるかわからない。向こう側で理不尽な死を迎える可能性も零とは言い切れない。故に、接続者のサンプルとして秘密裏に選ばれたのが、刑の執行を待つ死刑囚Xであった。
彼は詳細をほとんど聞くこともなく、我々のプロジェクトへの参加を承諾した。その心理は私にはわからないが、Xは問題なく『異界』の探査をこなしている。
寝台に横たわる肉体を残して、Xの意識は『異界』に『潜航』する。Xの視覚情報は私の前にあるディスプレイに、聴覚情報は横に設置されたスピーカーに出力される。肉体と意識とを繋ぐ命綱を頼りにたった一人で『潜航』するXの感覚を受け取ることで、私たちは『異界』を知る。
かくして、今回の『異界』に降り立ったXを待ち構えていたのが、あの、空腹を訴えるペンギンたちなのであった。
「いやあ、助かったよ。日課とはいえ、なかなか大変な仕事でね」
「それは……、そうでしょうね」
Xは無事――時々ペンギンにつつかれたり、手を噛まれたりしながらも――給餌を終えて、朗らかに笑う男性と向き合っていた。二人がかりでもこれなのだから、普段はもっと過酷な給餌なのだろう。Xの視界越しに見ているだけならばユーモラスな光景だと思うが、自分があのペンギンの群れと向き合う羽目になったなら、と考えると、背筋に粟立つものがある。
「さて、ここからもう一仕事だが、その前にお茶にしようか。お客さんにも、せっかく手伝ってもらったしな」
「いえ、私は……、本当に、偶然立ち入ってしまっただけなので。お構いなく」
「まあまあ、急ぎってわけでもないんだろう。普段、客人なんてほとんど来ないから、話を聞かせてほしいのさ。大したものは出せないが、是非寄っていってくれないか」
その声はうきうきと弾んでいて、言葉通りにXという突然の来訪者を喜んでいることが伝わってくる。Xが何者なのか、どうしてここに迷い込んだのか、もちろん疑問に思っていないわけではないのだろうが、それよりも、親切な客人をもてなそうという気持ちが優先されているのかもしれない。
私がXに課しているタスクは「可能な限り『異界』の事物を見聞きする」ことであり、そこには『異界』の住人から話を聞くことも含まれる。そのため、Xは少しばかり逡巡してみせたが、やがて足元をうろつく――空腹が満たされたことでXへの興味はすっかり失せたようで、てんでばらばらの行動をしている――ペンギンたちを見下ろして、言った。
「ありがとうございます。それなら、お言葉に甘えて」
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