無名夜行
青波零也
それは闇のように
寝台の上に横たわるXの体がびくりと跳ねる。
「Xの生体反応は?」
問いかけに対し、医療スタッフたるドクターの「問題ない」という答えに安堵する。元より「使い捨て」のサンプルなのだから死なれても問題にならないとはいえ、上への言い訳には苦労するし、Xと同等以上の良質なサンプルを選出するのも億劫だ。
Xの肉体のあちこちから延びるコードは、研究室の中央に鎮座まします潜航装置に繋がっている。そして、潜航装置に接続されたディスプレイには、Xが「見ている」はずの光景が映し出されている――はずなのだが、映し出されている風景は暗闇に包まれていて、光ひとつ見えない。スピーカーから音声も届いてこない。
接続異常だろうか、とスタッフ一同で首を傾げるが、全く同じ条件下で前回は『異界』の光景が確かに映し出されていたのだ、単なる異常とも考えづらい。
故に私はスタッフたちに命じる。
「続けて」
――『異界』。
ここではないいずこか、此岸に対する彼岸、伝承の土地におとぎの国、もしくは、いくつも存在し得るといわれる並行世界。
それらが「発見」されたのはそう最近のことではない。昔から「神隠し」と呼ばれる現象は存在しており、それが『異界』への扉をくぐる行為だということは一部の人間の間では常識とされていた。
だが、『異界』が我々を招くことはあれど、『異界』に対してこちらからアプローチする手段は長らく謎に包まれていた。
そのアプローチを、ごく限定的ながらも可能としたのが我々のプロジェクトだ。人間の意識をこの世界に近しい『異界』と接続し、その中に『潜航』する技術を手にした我々は、『異界』の探査を開始した。
もちろん『異界』では何が起こるかわからない。向こう側で理不尽な死を迎える可能性も零とは言い切れない。故に、接続者のサンプルとして秘密裏に選ばれたのが、刑の執行を待つ死刑囚Xであった。
彼は詳細をほとんど聞くこともなく、我々のプロジェクトへの参加を承諾した。その心理は私にはわからないが、Xは問題なく『異界』の探査をこなしている。
寝台に横たわる肉体を残して、Xの意識は『異界』に『潜航』する。Xの視覚情報は私の前にあるディスプレイに、聴覚情報は横に設置されたスピーカーに出力される。肉体と意識とを繋ぐ命綱を頼りにたった一人で『潜航』するXの感覚を受け取ることで、私たちは『異界』を知る。
しかし――。
びくり、びくりと、打ちあげられた魚のように、不随意にXの体が跳ね続ける。
……これは、まずいかもしれない。
横たわったままのXの唇から漏れ出すのは、低い呻き。それはすぐに咆哮に変わった。画面は依然暗く、音声も聞こえないまま。だが、それを「『異界』に潜っているXが感じ続けている」のだとしたら。
スタッフたちが顔を見合わせ、そして私を見る。Xを『こちら側』に引き戻すかどうかは私の判断一つだ。今日の『潜航』は極めて短時間になってしまったが、この状態を続けても何も情報は得られないと判断し、命令を下す。
「終了よ。引き上げて」
私の言葉はすぐに行動へと移される。Xの意識は目には見えない『異界』から『こちら側』へ、これもまた目には見えない命綱によって引き上げられる。この命綱は肉体と意識とを結びつけているもので、まだXが「生きている」証左でもある。
「引き上げを完了」
「意識体、肉体への帰還を確認」
潜航装置を操作するスタッフの声と同時にXはもう一度びくりと震え、それからゆっくりと閉じていた瞼を開き、眩しそうに目を細めてみせた。
「気分はどう?」
私の問いに、Xは応える代わりに目を瞬いてみせた。先ほどまで鬼気迫る表情で叫んでいたとは思えない、穏やかで凪いだ顔をしていた。
そして、天井辺りを彷徨っていたXの目の焦点が私に合わせられる。どうも、何か言いたげにこちらを見上げるXだったが、その唇は開かない。そこまで来て、やっと「私の許可」を待っているのだと気づいた。Xはこのプロジェクトにおいて極めて従順なサンプルだ。従順すぎるほどに。
「発言を許可するわ。状況を報告してくれる?」
はい、と。掠れた声が漏れた。
「……何も、見えません、でした」
「そうみたいね。こちらからも何も見えなかった」
「何も見えず、聞こえず、自分の手足が、どこにあるのかも、わからなくて」
取り付けられたコードを外されながら、Xはぼんやりと虚空に視線をやって、言う。
「そうしているうちに、声を上げても、自分の声が聞こえなくなりました。……いえ、声だけではなくて。あったはずの、手足の感覚もなくなってきて、自分が散り散りになるような感覚に、襲われて」
微かに、Xの肩が震えたのがわかった。それでも、Xはそれ以上の動揺を面に出すことなく、上体を起こして私を見上げるのだ。
「申し訳ありません。……それ以上のことは、わからなくて」
「いいのよ。今回の『異界』はあなたに耐えられるものではなかったということがわかっただけでも十分」
そして、それはほとんどの人間に耐えられるものではない、ということでもある。心もとない命綱ひとつで『異界』を潜り抜いてきたXの感覚は確かだと私は思っている。そのXがここまで怯えた様子を見せるのは、今までになかったことだ。
ただ、Xがわずかに震えたのは何も『異界』の恐怖に呑まれたから、というだけでもなさそうだった。
「どうかしたの?」
Xは「いえ」と首を横に振り、それから、思い直したのか目を伏せて言う。
「死、という感覚は、ああいう感じなのかな、と、思いまして」
「さあ。それとも、聞いてみる? いつか会えるかもしれないわよ、あなたが殺してきた人たちにも」
此岸と彼岸、長らく空想のものと考えられてきた土地、もしくは、いくつも存在し得るといわれる並行世界。
それらが『異界』なのだとするならば、「『こちら側』で失われたもの」と出会う可能性だって零ではない、というのが我々の仮説だ。
しかし、Xは私をじっと見上げて、それからゆるゆると首を振った。
「考えたくは、ないですね」
「それは、どういう意味で?」
「死の向こう側は、無でないと。殺した意味が、なくなってしまいます」
ぽつり、と。落とした言葉は冷え冷えとしていて、私の背筋までぞくりとする。
Xは殺人に対する罪悪感を完全に欠いている、というのが周囲の評価であり、私もその評価は間違ってはいないのだろうと思う。だから、どれだけ私に従順であろうともその手首には今もなお手錠が嵌められているし、いつか必ず死という名の刑が下される。
この『異界』への旅とて、死と隣り合わせの非人道な実験だ。最初から私はXにそう言い聞かせている。
それを理解していながら、今日もXは穏やかに、淡々と言葉を続ける。
「そう、死とは、あの暗闇のように、何もかもが散り散りになって、闇に溶けて、二度と浮かび上がれないようで、あってほしいなと。思いまして」
その言葉は、どこか憧れのような感情を抱いているようにも聞こえて。
私は目を細めてXを見やる。
「あなたに、そんな安らかな終わりが来ると思う?」
私の問いかけに、Xはこくん、と首を傾げて。
「まさか」
と、うっすら口元を歪めた。
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