38.「シロアッフ」
「おい、いい加減に起きろ」
足を蹴られた感覚がして、あなたは飛び起きた。完全な無意識化の反射として、気配を頼りに反撃の足払いを払ったが、虚しく宙を切る。あなたは目を閉じていても半径五メートルの人間の位置を大凡把握することができるが、それでも当たらなかった。
「もう昼時だ。落ち着いたら来い、話がある」
そう言われて、あなたは昨日の出来事を思い出した。逃走、落下、カレン――床に敷かれた毛皮のマットレスの上で上体を起こしていたあなたは立ち上がり、シロアッフの背中を追った。
シロアッフは黒いロングコートのポケットに両手を突っ込み、一言も発さずに歩いていた。色々と尋ねたいことはあったが、その雰囲気が一切の会話を拒否していた。
仕方なく、あなたは歩きながら周囲を眺める。燈色の照明を浴びて暖かな印象を与える純白の壁、長い廊下に敷き詰められた、金の刺繍が施された真っ赤な絨毯……窓が一つもないのは不思議だったが、高貴そうな建物だとあなたは思った。
廊下には等間隔で木製の扉が設置されており、その殆どは固く閉じられていた。たまたま開いていた扉から部屋の中を覗き見るが、室内には机と万年筆が一本置かれているだけ。人は一人もいなかった。
「今は殆ど出払っている。緊急会合でね」
この建物は、一体何なのだろうか。
あなたは己の経験を参照し、恐らく民間組織ではないと当たりをつけた。では残る可能性は政府機関だが、こちらは連れて来られる心当たりがありすぎる。具体的には昨日の騒ぎだが。
もしやここは裁判所か何かで、これからカレン共々裁判を受けることになるのだろうか。昨日の件は、流石のあなたも殺し過ぎたかと幾らか反省している。
取り敢えずあなたはベルトに手を伸ばし、ブラスターガンの感触を確かめた。武器は没収されていない。理由は分からないが、何か不利益なことがあれば抵抗ぐらい出来るだろう。
「ここだ、まあ座れ」
シロアッフの声で思考が中断される。
手振りで示された先には、大きな円卓と椅子が四脚。円卓にはティーセットと色とりどりの菓子らしきもの、燻製魚が乗ったオープンサンドがあった。それにおずおずと手を伸ばす、白くてほっそりとした腕――カレンだった。頭に包帯こそ巻いているものの、まだ健在だ。今の服装は緑のドレスではなく、見慣れた皮鎧姿で、傷の付き方からして本人の持ち物らしかった。シロアッフがどうしてか手に入れたらしい。
あなたとカレンはお互いの姿を認め、同時に言葉を掛けようとしたが、着座を促すシロアッフに遮られた。
仕方がなく、あなたはカレンの隣に座った。シロアッフも席に着き、カレンを挟んで対面する。
「昨日の件だが、派手にやったな。街中大騒ぎで軍の出動一歩手前だった」
オープンサンドを一つ、口に放り込んでシロアッフは言った。それに反応して、カレンの肩がぴくりと揺れる。
「……あの、昨日の件は全て私が」
「いや、責める気はないよ。偉大なる男達連中は少し、調子に乗りすぎてたからな。我々の手間が省けたと考えれば、むしろ感謝しても良い」
「一体、何がどうなってるんですか。全く話が見えないんです」
「どうにかなったと、それだけ知っていればいい。脚本家は上手くやった……今後君たちが街で背後から刺されることはないと断言できる」
脚本家、何かの隠語かとあなたは尋ねた。
「そのままの意味だよ。カバーストーリーを書き、民衆に浸透させる。どこの国でもやってることだ」
これで、あなたははっきりと理解した。シロアッフは政府の関係者だ。
カバーストーリーを流布し、真実を作り直す。あれほどの規模の騒ぎを鎮めることができる……恐らくは諜報組織か、その系列。偉大なる男達が黙ってそれを受け入れるとは思えなかったが、その先の真実はどうあってもあなたには知りえないことだ。
力で抑え込んだか、密かな取引があったのか。どちらにせよ相当な人員と資金が動いたのは間違いない。
あの晩、シロアッフは力を貸すことを条件に提示した。一体何をすれば、どんな働きをすれば借りを返せるのか――或いは、何をさせられるのか。
「そう急くな。まだ全員揃ってないんだ」
そう言って、シロアッフは紅茶を一口。
「苛ついてるみたいだ。とにもかくにも腹を満たせ。甘い菓子とオープンサンド、温かい紅茶を飲めば頭が回り始める。音楽も掛けようか」
シロアッフは立ち上がり、部屋の片隅の箱らしき物を操作した。すると、ゆったりとしたクラシックが流れ始める。
彼の発言はいちいち癪に障るものではあったが、あながち間違っているとも言えなかった。確かにあなたは空腹だったし、疲れが抜けきらず若干苛立ってもいたのだ。
勧めに従い、鮮やかな黄色い菓子を摘まむ。思っていたよりずっと軽く、外側と同じ色のクリームを挟み込んでいる形だった。これが何なのか良く分からないが、おいしい。
円卓に出された大抵の食べ物を味わい、紅茶で一息ついた頃。一人の男が開けっ放しのドアをノックして入室、シロアッフの耳元で何やら囁いた。
「やっと揃ったな。これでようやく本題に入れる――遅いぞ、メイベル」
「お昼食べてたの。いきなり呼ばれたんだから、来てやっただけ感謝なさい」
聞き馴染みのある声。振り向くと、男と入れ替わりでメイベルが立っていた。
メイベルは最後の空席に座り、物怖じもせずに菓子を食べ、紅茶を飲んだ。
「……この部屋、魔術の匂いがする。録ってるの?」
「流石はメイベル殿。聴音の魔術が働いている」
「盗聴でしょ、不愉快なんだけど」
「分かってくれ、職務の一環だ。必要があれば上に出さなきゃならん」
やけに親しげだった。まさか知り合いなのかと、あなたは尋ねる。
「まさか、初対面に決まってるでしょ。今朝、こいつの手下に声掛けられたのよ」
「正しくは部下だが、まあいい。本題に入ろう」
シロアッフはティーカップを置き、襟を正した。場の雰囲気が引き締まる。
「俺の名はシロアッフ。教会騎士王国書庫保安部第二実働隊を率いている」
「教会騎士……」
「その通り、それなりの地位だ。敬って貰って構わない」
カレンの呟きにシロアッフが演技がかった口調で返す。メイベルは一人、ようやく納得がいったという様子で頷いていた。
「王国書庫、それも保安部。そうくれば、私達の役目は……」
「君たちにはここにない書物の回収を頼みたい」
書物を回収し、本棚に納める。それだけ聞けば楽な仕事に思えたが、楽なら人に任せない。あなた達に任を与えるだけの理由があるはずだが、情報が足りなかった。
「その扉、その向こうが書庫だ」
シロアッフが指で示した先は、木製両開きの極普通の扉だった。
「ただの書庫じゃない。一方間違えれば文明社会、大陸全土にすら影響を及ぼす類の危険な魔術書を収蔵する書庫だ。蟻一匹通さない極めて厳重な警備が敷かれているが、それでも穴はある。今では全体の四分の一の魔術書が失われた。主に盗難、自己消失によって」
「自己消滅って……殆ど禁書じゃない」
「殆どではなく、明確に禁書だ。この扉の向こうは地獄だよ。自らを綴り増え続けるもの、逆に過去を書き換えて存在を消そうとするもの、確かに存在するが同時に存在しないもの。そんなので溢れかえってる」
つまり、危険すぎて自分達では手に負えないから外注しよう。そういうことだとあなたは理解した。この類の仕事は他にも人を雇い、同時並行で進める場合が多い。あなたとしては、同業者同士での潰し合いにならないよう祈るばかりだ。
「で、標的は何冊なの」
「今のところは三冊だ。リストを……」
「待ってください!」
カレンが声を上げ、徐に立ち上がった。
「質問の時間は後に設けている」
「いえ、そうではなく……!」カレンは続ける。「昨日の件は私が一人でやったことで……この人もメイベルさんも関係ないんです! 私が一人でやりますので周りを巻き込むのはどうか――」
「君は勘違いをしているな」
シロアッフが反論する。恐ろしく冷静で、冷たい声だった。
「確かにどうにかなったと言ったし、責める気はないとも言った。だが昨日起きたことは全て現実だ。大量の死人に数えきれない被害。脚本だって安くないし、書いたからって死人が生き返る訳でもない」
とんとん、とんとん。あなたの耳が一定のリズムを捉える。シロアッフが指で机を叩いていた。
「君がどうしてあんなことをしたかは知っているし、気持ちも分かるよ。だが復讐は今や高級品でね。味わったのなら、きっちり支払って貰わないと困るんだよ」
復讐は冷やして食うべし、古くからある言葉だ。
カレンは自らの意志でそれを口にした。であれば、当然対価を払わらなければならない。選択の余地など最初から無かったのだ。
「君たちはお互いの首根っこを掴んでいる。もし不味いことになれば、君らは二人揃ってさよならだ」
「それなら、メイベルさんは」
「彼女は強制ではなく、自ら志願した。王国書庫に関する依頼だと言えば、すぐに首を縦に振ったよ」
あなたの視線を受け、メイベルは肩を竦めた。知的好奇心を満たすために、危険を冒す。彼女らしいと言えば、実にらしい。
「納得頂けたかな、それでは……」
シロアッフがどこからともなく一枚の紙を取り出して机に広げた。
折り目の無い綺麗な紙に、上から下までびっしりと細かな文字が書き込まれている。
「これは契約書だ。指定された期間国家の為に働き、それに伴う肉体的精神的損害については一切の責任を国家が負うことはなく、全て自由意志の元自己責任にて行われる、以上。同意するならここにサインを」
あなたとカレン、サインを記す線は二本引かれていた。
選択の余地は無い。全て自由意志の元自己責任で行われるのだから。
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