シャングリ・ラ
クニシマ
終着の夏の扉の向こう側
ふと気がつくと、夏の只中に立っていた。
それはいつのまにかのことだった。私は日陰の細い道を歩いていた。その以前のことは何ひとつもないようでさえあった。道の中途を歩いているということのみが、そのときただ唐突に始まったのだった。見上げれば背の高い木々が陽光に葉を透かし、澄みきった青空をふちどっている。傍を流れる小川の水面には蝉の鳴く音が反射して震えている。私を追い越すようにしてゆるやかな風が通り過ぎていく。
そうして木陰を抜けたその先に、あなたがいた。
あなたは降りそそぐ太陽の光を一身に浴び、私を見ると笑顔で大きく手を振った。それは、私の覚えているどんなあなたよりずっと健やかで美しく完全な、しかし確かに愛おしいあなただった。その姿こそきっと私がこれまで望み続けてきたすべてであり、そしてこのとき、私とあなたはようやく幸せになったのだった。私はすぐさま駆け寄っていき、あなたをきつく抱きしめた。あなたは驚いたような声をあげて、けれど決して身を離そうとはしないでくれた。言いたいことと言えないでいたこと、言わなければならないことが、喉の奥で結託して涙ばかりを散らせた。どうして泣くの、と微笑むあなたの頰にも涙は伝っていた。
郊外の病院で私は生まれ、そこを出ないまま育った。あなたもそうだった。私たちはまったく二人きりだった。幼少の記憶は常に明るく痛々しい匂いと隣り合っている。夜更けになるといたずらに刻まれる異常な鼓動や、腐り果てたようにしてろくに働かない臓器だってそうだ、体内にあるものはすべて自分を殺すべく牙を剥いていた。それだから、私もあなたも外へ助けを求めるしかなくて、どちらからともなく互いに手を取り合ったのだ。そのころは、あなたが生きていたから私も生きていた。あなたも、私が生きていたから生きていたのだった。いつなんどきともわからない呼吸が止まる瞬間も、毎日のように訪れる明けないかもしれない夜も、二人で怯えて身を寄せ合い、共に目を逸らすならようやく笑いに紛らすことができた。いつも頬が触れるほど傍にいて、一緒に本を読み、絵を描いて、そして痛みのない空想をして、そうやって十数年は過ごしただろう。
ある晴れた日、あなたは田舎の小さな病院へ移ることになった。あんまり突然だった。私は大いに泣き喚き、行ってしまっては絶対にいやだと訴えたけれど、そんなことでくい止められるほど簡単な話でないこともわかっていた。せがみ倒してなんとか玄関まで見送りに出ることを許された私は、看護婦の不意をつき、あなたを乗せた車の後を追いかけて走った。どうしたって追いつきようはないと知っていて、それでも私にはあなたよりほかに何もないから、そうしなければならなかったのだった。強い日差しが私の影を地面へ焼きつけるようにして照っていた。長く、長く走ったように思う。けれど病院の敷地から出ることもなく私は倒れたそうだ。あなたのいない世界は過剰に狭苦しくて、息も満足に吸えやしないのだと、そのとき悟った。
私の体の中のどこか重要な部分が二度と治らないようになったのは、それが原因であるらしい。父と母は県の一番大きな病院へ、それから都会で一番腕のいい医者の元へ、そして医療が一番発達した国へと私を連れ回した。そんなふうにしてどれだけ死ぬ日を遅らせても、あなたが隣にいないのだからうそだ、家族だろうが医者だろうが、彼らは本当には私をちっとも知らないのだ、いつもそう思っては苛立ちを目頭に溜めていた。
手紙を書いたら、届けてあげるから、と母は言った。きっとお返事もすぐに来るよ、と父は言った。なだめすかすような優しい声色。違う、違う、何もかも違うのだ。手紙なんかは書かないと言い張った。会いにいくのでなければいやだ、あなたに声を聞かせて、あなたの手を握って、そうやってあなたの声を耳にするのでなければ、決して意味などはないと。
毎日のように朝も晩も駄々をこね続けた甲斐があって、ついに母が折れた。ほんのわずかな時間だけではあるけれど、あなたと会う機会をつくってくれた。私は喜び勇んで飛行機に乗り、母と共に日本へと向かった。
あなたがいたのは田園風景の中にぽつんと建つ木造の病院だった。庭に林立する物干し竿には真っ白なシーツが何枚もたなびき、その傍で数人の幼い子供が犬と戯れていた。案内された病室の扉を開けたとき、なぜだろうか、目のくらむ思いがしたことを覚えている。大きな窓から陽はまっすぐに差し込み、あなたを明るく照らし出していた。ベッドの上で体を起こしていたあなた。その目は落ちくぼみ、くちびるにはまるで色がなく、全身の骨の形がわかるほどひどく痩せこけて、しかし私の顔を見て優しく笑った。そう、あなたの笑顔はいつでも優しかった。私たちは互いを抱きしめ合った。あなたの体はあまりに細くて、背に回した腕が余ってしかたなかった。だから私は大いに泣いて、痩せちゃったね、と言った。そっちこそ、とあなたはつぶやいた。
窓の外の景色を眺めながら少し話した。けれど何も満足には言えないまま、別れの挨拶をする時間になった。またね、絶対にまた会おうねと何度も言い合って、そうして病室を出ていこうとしたとき、あなたの小さな声が聞こえた。たったの一言、行かないで、と。ああ、その瞬間、すぐにでも廊下へ飛び出していって、母の持つ鞄をひったくって、そこに入った帰りの搭乗券をびりびりに破り捨ててしまえば、そうできるほどの意地さえあれば、私はあなたを失わずにいられたのだろうか?
それから数ヶ月してあなたが死んだと知った。ならばきっとあなたは天国や極楽と呼ばれるような、ここではないどこかとても素晴らしいところにいるのだと、そこにあなたの好きな色の花がたくさん咲いているならもうそれで構わないと、そう思った。わがままをいうなら、その隅に一輪でも私の好きな青い花が咲いていてほしく思った。私はその後もしばらく生きていた。父と母がそう望むままに治療を受け、無理やりに心臓を動かしていたというのが実際のところだった。
十七歳が終わるころ、大金をかけた手術の前、麻酔が回るまでのかすかな意識の間にあなたの姿が脳裏をよぎった。あなただけが私を知っている。なぜだかはわからないけれど、そのとき確かにそう思った。
結果としてそれが最後の手術になった。冬が明けるのとほとんど同時に、私の息は止まった。
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