本当の名
自分の視界を遮った理由は、彼の表情を見なくて済むからだ。石の様に無言となった彼は、きっと表情までも固まってしまったのだろう。
「……あの、総ちゃん?」
昔から沈黙という物に耐えられない性分が口を勝手に動かせる。
「訳を聞いてもいいです?
どうして、そんな話しになったか理由を知りたいんですけど。」
自分を育てた男であるなら、「添え膳食わぬは男の恥。」とか言って、言い寄ってくる女を喰らうであろう。現状、それを望んでしまうのは、理由など言いたくは無いからだ。
仕事だから。信じてもらう為に。
答えを探すが、どれも傷付けてしまう言葉。
自分が好きだと嘘を言えばいいのだろうか?
だが、それですら傷付けるのは目に見えて分かる事で、
「千夜さん?
土方さんに何を言われました?」
「……。」
顔を持ち上げられて交わってしまった視線。困った様に眉を寄せ、悲しそうな表情にチクリと胸を痛ませる。
そして、過去の自分の言葉が脳裏に浮かぶ。
あれは、縛る為に言ったのではない。自分の気持ちがハッキリとして無かったが為の最善の答えだった。
でも、それをそのまま言うのを躊躇するのは、過去の沖田を想って居る事を彼は気づいているからだ。
「あの、ちゃんと話します。嘘は言いません。」
そう言えば、身体から温もりが離れて行き、向かい合う形で腰を下ろす。
「私は、浪士組に入ったのは、芹沢に認められたからで、近藤派に近づくのは、探る為だろうと……。そう言われたんですけど、その前に彦五郎さんが来る話して、仕事がある様な事をよっちゃんが言ったんです。
だから、沖田総司に抱かれてきたらいいんですね。って言ったら何にも返事がなく……。」
とりあえず、土方から言われた訳でもなければ、山崎に言われた訳でもない事は、伝えなければならないだろうと口を開くが、段々と自分が何を言ってるのか分からなくなってくる訳で、
助けを求めたくても、当人に話してるのだから、助けてくれるはずもなく、大きな溜息が聞こえてきた。
「千夜さんがそんな事をする必要は無いです。僕が興味を持てば、勝手に女を買うことだって出来るんですから。あの人達は、すぐにそうやって無理に女を買わせようとするんだから。」
居ない相手に苛立ちをぶつける沖田に、千夜の表情が暗くなっていく。
言っちゃダメ。そう思うのに、
「……嫌なんです。
貴方が違う女を抱くのが……。総ちゃんの時も、今も嫌なんです。」
言った後は、もう自分が情けなくて惨めで仕方なく涙が勝手に落ちていく。自分の感情は、何も分からない。嫌なものは嫌。それしかハッキリしない。
「千夜さん……。」
「ハッキリ分からないんです。自分は気持ちが。」
ハッキリしない気持ちは、自分と同じ。彼女と組を天秤に掛ければ、組を取る自分が居る。自分は修行中の身で、色事にうつつを抜かしている暇は無いはず。だからこそ、千夜との関係は、気が楽だったのかも知れない。
「でも、15日は、私を抱いてください。
過去を消したいんです。思い出すと死にたくなる。此処に残りたいのに、そう思ってしまう。」
「……それで、良いんですか?本当に。」
「仕事ですから。って言ったら胸痛みます?」
ズキっと痛みが走って気付く。
それは、"ケイちゃん"の存在を聞いた時の彼女の胸の痛みと多分同じ。
「……千夜さん、やっぱり根に持つ人じゃないですか。」
「冗談ですよ。
私だって、人肌恋しい事だってあります。総ちゃんが嫌でも、お願いしても良いですか?」
「嫌な訳無いじゃないですか。」
少なからず、好きと言う気持ちは芽生えてしまった訳で、こうなる事は予期もしなかったが、嫌という事は全く無く、むしろ嬉しいぐらいだ。
だが、不安な事もある訳で、自分は女を抱いた事が無い。知識も無ければ経験すらない訳で、沖田は、後から三馬鹿の元に行こうと決めたのだった。
(……流石に、土方さんに聞くのは……。)
「あの。」
そんな事を考えて居た沖田に、千夜が突然声を掛けるものだから、肩を跳ねさせる。
「そんな驚かなくても。」
「驚いて無いです!!断じて!」
「なんか、いやらしい事考えてました?」
その通りです。とは言えずに、
「いえ。で、千夜さん何ですか?」
沖田から視線を逸らし、空に向けた表情は読めないまま、彼女の澄んだ声だけはよく聞こえた。
「島原に行くことにしました。
あ、ずっとじゃ無いですけど、潜入で。」
「……え?」
「私の目的の為です。肌売る為じゃ無いですよ。だから、遊びに来てくださいね。」
行って欲しく無い。そう思うも、それは自分が言える立場では無く、
「遊びに行きます。」
「総ちゃん島原行った事あります?」
その言葉に過去の記憶が蘇る。
「一回だけ。芹沢さんに連れて行ってもらいました。」
「へぇ。誰ついたんです?」
「えっと、確か……君鶴さん。だったかと。」
「君鶴ねぇさん、ついたんです?」
「知ってる方です?」
「私の姐さんだった人です。」
品のある人であったが、その場の空気が合わなかった沖田は、大層不機嫌なままであった事を恥じる。
「場の空気が合わなくて、ずっと呑んでしまってました。横にいてくださったんですけど、」
「大丈夫ですよ。そういう時、芸妓や舞妓は、違う事をボーッと考えてるんです。気にする事無いです。」
そう言って笑う千夜に、少なからず安堵する。
「千夜さんの名前は、なんて言うんです?」
「姐さんの名前を一字もらって、君菊。それが私の芸名です。」
「……君菊さん。」
復唱する沖田に千夜は笑う。
「敬語は、なかなか取れないですね?」
そんな事を言う彼女も敬語のまま。
「千夜さんだって、敬語やめるって言ったのに。」
「呼び方は、総ちゃんですよ?」
「だって、泣いたじゃないですか。」
なんの言い争いをしてるのかと思いたくなる程で、二人は顔を見合わせ笑い出す。
「もう一回、呼んで下さい。」
そう言うものだから、一つ呼吸をした後、口を開く。
「————ちぃちゃん。」
そう呼べば、彼女は、はにかんだ様に笑い、
「なんか、照れ臭いんですけど。」
と、文句を言った。
「どっちなんですか。」
「どれが呼びやすいです?」
そんな質問に、沖田は悩む。
そして思い出した、一つの名前。
「いつか、貴女の本当の名を呼んでみたいです。————椿さん。って。」
その名が出てくるとは思わず、止めどなく流れる涙のまま沖田を見る。
「それが貴女の名ですよね?」
「よく、分かりましたね。私の名だと。」
「家紋に嫌われた花に気づいたのは新八さんです。でも貴女は言いました。」
"家紋に嫌われた赤い花は、全ての定めを変えるべく再びこの地に舞い降りた。"
「貴女は、全ての運命を変える為に幕末にやってきた。何度考えても、その言葉にしか変えられませんでした。
貴女は、僕たちの未来を変えようとしてるんじゃないですか?」
学がないから気づかない。そう馬鹿にしていたのかも知れない。きっと気づかない。気付くはずもない。なのに、気づいてくれた事がこれ程まで嬉しいなんて考えなかった。
それでもまだ、詳しくは言ったらダメなんだ。
「そうです。
私は、未来を変えたいんです。今は、それしか言いませんけど。
————変えなきゃいけないんです。」
「それは、何故ですか?」
彼女は、濡らした頬を隠さぬまま、僕を見つめて、
「全ては、私の欲の為です。」
ただ、それだけ言い放った。
そんな筈はない。彼女は、いつだって自分達の為に動こうとする。それは、今まで見てきた事。自分達を責めない。心の優しい人だという事は、よく知っている。
ただの欲のためなんて、そんな事、絶対にある筈が無い。
確かな事が一つ。
この人は、土方歳三を裏切らない。彼女なら自分に抱かれてこい。なんて事は、引き受けたりしない。いつも強く当たるのは、違う意味が有る。それに気づいたのは、広間で抱き上げられた時だ。
『暴れるなよ。』
あの子は、大人しく従った。嫌いなら突き飛ばせば良かったのにしなかった。
次第に彼女に皆が惹かれていく。
そして、————僕も。
「……貴女は、何者なんですか?」
そんな言葉がこぼれ落ちる。
「私は、————ただの異端者です。」
彼女は、絶対に自分を認めない。
強く凛々しい。こんな女は、見た事が無い。
そして、繊細で脆い彼女に、手を差し伸べたくなる。
「椿。」
「……っ。あの、その名は……。」
「使って欲しく無いです?」
こくんっと頷く彼女が可愛らしくて、
「では、貴女を抱く時にだけ使います。」
「————っ!?あの、それは、やめてください。」
顔を真っ赤に染めた彼女を初めて見た。少しばかり意地悪をしたくなって、
「何故です?」と、聞けば、
「その名を呼ばれて抱かれた事は一度も無いですし……。」
と、俯く彼女が愛らしい。
だけど思ってしまうのだ。彼女の初めてを自分も欲しいと。
「同じ初めてでしょう?」
「……あの、嫌です。呼ばれる度に思い出すじゃないですか!」
「それが良いんじゃ無いですか。」
「何もよくないです!」
「顔真っ赤で言われても、可愛いだけなんですけど?」
「————っ!!総ちゃんっ!」
からかうのが楽しくて、表情が変化する彼女を見るのは嬉しくて、何より彼女を抱ける日が待ち遠しい。
彼女の本当の名を知るのは、今は僕だけ。
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