10歳

1 大切で、大好きな婚約者「だった」

「……ナ、アイナ」


 真っ暗な世界に、誰かの声が響いてくる。

 私は、この声をよく知っていた。

 そのはずなのに、全く知らない誰かのものにも思えてくる。

 声の主を確かめたくて、私はゆっくりと目を開けた。


「ジーク……?」


 私の瞳に映ったのは、茶色い髪に、黒い瞳の子。

 その子はとても可愛らしくて、顔立ちだけじゃ性別がわからない。

 けれど私は、この子が男の子だと知っていた。


「よかった……! 気が付いたんだね、ずいぶんうなされていたよ」


 私にジークと呼ばれたその子は、ほっとしたように息を吐く。

 彼はジークベルト・シュナイフォード。

 私と同じ10歳で、現国王の親戚にあたる家の長男で、今よりもずっと幼い頃からの幼馴染で――私の、大切な婚約者。

 そこまで理解できているのに、何故だか、目の前の彼が他人のようにも思える。


「ここは……」

「君の部屋だよ」

「私の、部屋……?」

「うん。ラティウス公爵邸の、君の部屋」


 上半身を起こし、ゆっくりと辺りを見回す。

 手をついたとき、自分がベッドに横たわっていたことに気が付いた。

 マットレスはふかふかで、明らかに上等なもの。

 部屋もかなり広い。なんだか世界史の資料集で見たような雰囲気をしている。

 ……「世界史の資料集」ってなんだろう。


「アイナ?」

「アイナ……。アイナ・ラティウス……」


 アイナは自分の名前。

 ここは自分の部屋で、私はラティウス公爵家の娘。

 ジークベルトは、家が決めた私の婚約者。

 自分の名前も家柄も、目の前の彼が誰なのかもわかる。

 理解しているはずなのに、それら全てに現実感がない。

 状況が飲み込めずにぼうっとしていると、まだ寝ていたほうがいいよ、とジークベルトの手でベッドに寝かされた。


「ああ、そうか。何があったかわからないんだね」


 彼はそう言うと、事の経緯を話し始める。


「君は僕と2人で、庭で遊んでいたんだ。いつもの場所に向かう途中で転んで頭を打って、しばらく意識が戻らなかった」


 公爵家というだけあって、ラティウス邸の庭は広い。

 庭に私たちお気に入りの花畑があり、そこで一緒に過ごすことが多いのだ。

 その場所を自分の頭に思い描く。なんだかテレビの中の風景みたいだ。……テレビ?


「お医者さんは、特に心配はいらないと言っていたよ」


 強く頭を打ったと聞いて自分でも少し心配だったけど、そう聞いて安心した。


「アイナ。外を歩くときは、ちゃんと足元も見るように。君は色んなことに気を取られやすいところがあるからね。……意識が戻って、本当によかった」


 注意するときは、小さな子供に言い聞かせるように。

 最後は優しく微笑みながら、私の手にそっと触れた。

 手の甲から彼の体温が伝わり、どくん、と心臓が嫌な音をたてる。


 ジークベルトは、優しくて、穏やかで。10歳とは思えないほどに聡明な男の子だ。

 自宅の庭で盛大に転ぶような私を見守り、大切にしてくれる。

 顔立ちだけ見ればとても愛らしい女の子のようだけど、髪は男性らしい長さに整えてられていて、服も男の子のものを身につけている。

 今は美少女のようでも、年齢を重ねたら、見た目も中身も素敵な男性になるのだろう。

 ジークベルトは、私にとっても大切な人で、大好きな婚約者だった。

 それなのに。


「っ……!」


 振り払うようにして、温かな手から逃げてしまった。

 大切なはずなのに。大好きなはずなのに。知らない誰かに触られたようにも思えてーー。


「……アイナ?」

「ジーク、私、まだ頭が痛くて……。1人に、してもらえる?」


 やっとのことで紡いだ言葉。喉がからからで、上手く声が出せない。

 これは、しばらく水を飲んでいなかったせいなのか。それとも、ばくばくと嫌な音を立てる心臓のせいなのか。


 自分が何者で、ここがどこで、心配そうに私を見つめる彼が誰なのか。

 わかるのに、わからない。

 確かなのは、このままジークベルトと一緒にいられないことだった。

 ジークベルトは寂しそうに目を伏せてから、笑顔を作った。


「そっか。ゆっくり休むんだよ」


 彼は私に向かって手を伸ばし、触れる直前で腕を引っ込める。

 また来るよ、と言い残して部屋から出て行った。

 追い出すような形になってしまって申し訳ない。けれど、1人になったら少しほっとした。


「……なんで嫌だったんだろう」


 彼に触られることを嫌だと感じたことなんてなかった。

 それなのに、どうして。


 思考の海に沈みかけていると、ばんっと勢いよくドアが開かれる。

 何事かと身体を起こしてみれば、金髪の男の子の姿が見えた。

 ぜえぜえと苦しそうなその子は、ジークベルトより身長が高く、見た目も男の子っぽい。


「ア、ア……」

「あ……?」

「アイナアアアアアア!」


 広い部屋だから、ドアからベッドまではそれなりの距離がある。

 なのに、金髪の男の子は瞬時に距離を詰め、ぎゅうと勢いよく私に抱きついてきた。


「おにい、さま……く、くる、し……」


 そうだ。この人はアルト・ラティウス。2歳上の私の兄で、妹の私のことが……だい、すき……。

 ぐえ、と公爵令嬢とは思えない声が漏れる。

 頭の痛みと、混乱。それに加えてこの力いっぱいのハグ。きゅう、と何かが体から抜けていく。


「アイナ? どうしたアイナ! 大変だ、アイナがまた……!」


 兄の声がだんだんと遠ざかっていき、私は再び意識を手放した。

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