第26話 真夜中の告白

 真夜中、エレメナはホイヘンス日報の事務所で記事をまとめていた。


 他には誰もいない。しんと静まり返った中、ペンを走らせる音だけが聞こえている。


 エレメナは真夜中の事務所で仕事をするのが好きだった。今書いているのは、ロキ大橋の改装工事についての記事だ。老朽化した橋の基礎部分を補強するためにドレア人の職人が雇われたという情報が入った。その工事日程を聞き出すために今日の夕方は地下街へと足を運んだのだ。


 その途中で偶然、ネイピアに会った──


 ネイピアがトロヤン川に流されたというニュースはホイヘンス日報でも大々的に報じていた。新任の巡察隊班長が火災の捜査資料を改ざんしようと試みるも失敗。白昼堂々、大逃走劇を演じたという筋書きだ。


 担当記者はコスマトス・サドラー。何かにつけてエレメナに因縁をつけてくる先輩記者だ。ドレア人の血を半分ひいているエレメナを見下し、尊厳を踏みにじることに喜びを感じているようだ。いじめの旗振り役と言っていい。


 無能なサドラーは巡察隊隊長のビールズが流した情報をそのまま記事にしていた。無論、それはでっちあげだ。ビールズは、ネイピアをロマの仲間に仕立て上げ、万が一ロマの足取りを追えなかった場合のスケープゴートにするつもりなのだ。


──見えすいた嘘なのに……


 エレメナはネイピアがビールズの命令に背いて漏らしたベクトール・マーシュレンの情報を記事にしたことを咎められ、一連の事件から完全に担当を外されてしまった。今、彼女に新聞記者としてネイピアを援護する術はないのだ。



──それにしても無事で良かった。


 エレメナはネイピアに対して申し訳ない気持ちでいっぱいだった。自分がもう少しうまく立ち回っていれば、こんなことにならなかったのではないか、ここ数日、そんな思いに囚われていた。だから、ネイピアの元気な姿を見て、思わず泣いてしまったのだ。しかし、そんなことよりも、今エレメナの頭の中をぐるぐる回っているのは、


──ひどい態度をとっちゃった。どうしよう……


 ロマ捜索のため、ドレア人に協力を頼みたいというネイピアたちの頼みを突っぱねた形になってしまった。ネイピアたちの言っていることは十分過ぎるほど理解できた。しかし、エレメナの心が拒絶していた。


──ネイピア大尉と話さなきゃ。


 書きかけの記事を残したままエレメナは外へ飛び出した。頼りない街灯の明かりが暗闇を押しとどめていた。



 ジューゴの鍛冶屋は明かりが消えていた。当然、入り口の扉は鍵がかかっていて開かない。エレメナはこの家の主人が今、夜警に出ていることを知っていた。


どんどん


 小さくノックする。中にはネイピアが潜んでいるはずだ。ここに以外に行く場所はないのだから。


「ネイピア大尉……ネイピア大尉……」


 扉の隙間から呼びかけてみたが、反応はない。声をおさえているつもりだが、それでも夜中の静けさの中では大袈裟に響く。


──早く気づいてよ!


 寝ているのかもしれないとエレメナは思った。見れば二階の窓が開いている。あそこまで上がることができれば……


 エレメナは扉の前に置いてあった大きな瓶の上によじのぼった。そこから手を目一杯伸ばして二階の窓の下に手をかける。あとは懸垂の要領で体を持ち上げるだけだ。しかし、全く持ち上がらなかった。それもそのはず、エレメナは懸垂など生まれて一度もやったことはなかったのだから。


「あ、やばい」


 エレメナは瓶の縁から足を踏み外してしまった。頭から地面に倒れ込み──


 気がつくとエレメナはネイピアの腕に抱かれていた。


「危ねえじゃん」


「ね、ネイピア大尉?」


「間一髪のところで間に合って良かったよ。頭打つところだったぞ」


 ネイピアは優しくエレメナの体を起こしてやった。


「ありがとうございます」


「驚いたぜー。戻ってきたらエレメナちゃんがおっさんの家に忍び込もうとしてるんだもんな」


「いや、忍び込もうとしていたわけでは……」


「完全に泥棒だよ、あれは。で、何してたの?」


「私は、ネイピア大尉と話がしたくて……」


「俺が中にいると思ったわけだ」


「はい」


「ハハハ、さすが新聞記者。大した行動力だぜ。でも、もうちょっと筋肉つけてからやるんだな。ああいうのは」


「いえ、もう二度とやるつもりはないです。筋肉をつけるつもりもありません」


「そう? 筋肉ってけっこう役に立つんだけどなあ」


「ネイピア大尉はどこに行ってたんです?」


「あ、オレ? オレねえ……」ネイピアは言いにくそうにしていた。


「?」エレメナは首を傾げた。


「……実はエレメナちゃん家に行ってたの」


「はぁ?」


「階段の下で待ってたんですか?」


「いや……なんていうか、その……」


「もしかして中に入りました?」


「……こないだ行った時さ、カギの隠し場所見つけちゃってたからさ、アハハ」


「完全に不法侵入じゃないですか!」


「まあまあ、いいじゃん。お互い話し合いたかったってことでさ」


「よくありません! 掃除もしてなかったのに」


「とにかく中に入ろうぜ。ここで騒いでたらやべーよ。俺、指名手配されてんだからさ」


「あ、そうでしたね、アハハ」



 鍛冶屋の二階。


 ネイピアとエレメナは明かりもつけずに窓際に座っていた。月明かりがほのかに二人の顔を照らしている。話し合いをしようとここに来たのに、しばらく二人は黙ったまま月を見ていた。


 最初に口を開いたのはエレメナだった。


「私、匂いますか?」


「は? 匂うわけないだろ。いや、いい匂いはするけど。なんだ? この匂いは……」


「香水です」


「ああ、そうか。すまんな、俺そういうことに疎いんだわ」


「母につけるように言われたんです。私が地下街から地上に引っ越した時に香水の入ったビンをくれました。ほら、ドレア人の体って匂いがきついでしょ?」


「いや、ま、まあ、そうだな。正直、匂うかもしれんな……ごめん」


「アハハ、気にしないでいいんですよ。本当のことだから。でもよく不潔だから臭いんだとかって言われるけれど、そうじゃないんです。あの匂いは信仰の証なんです」


「信仰の証?」


「ドレア人にとって聖なる食べ物があります。ルーダスという果実です。モウラ・レーラを信仰する者は、神と対話するために、このルーダスの実を体内に取り込まなければならないとされているんです。ルーダスには強烈な匂いがあり、食べた者の体からも強い匂いを発するようになります。ルーダスの匂いをまとうことこそが、モウラ・レーラの使徒であることを示すものなんです」


「そうだったのか。エレメナちゃんも食べているのか?」


「私はちょっとだけ。地下のドレア人の十分の一くらいでしょうか。地上で暮らしていくには、ルーダスの匂いをぷんぷんさせていては無理ですから。でも、やっぱりそれでも少しは匂うんです」


「だからお母さんは香水をくれたのか」


「そうです。母は地上の生まれ。ドレア人ではありませんから」


「お父さんがドレア人なんだよな?」


「はい、父がロキ大橋の工事のために地上で作業をしている時に知り合ったそうです」


「大変だったろうな。昔は今よりもっと差別が酷かったはずだ。お父さんとお母さんの苦労は想像に難くない」


「……母は地上を捨てて地下街で父と一緒に暮らして、私ができました。優しい父にしっかり者の母。子供時代は本当に幸せな思い出しかありません。母はドレア人の社会に溶け込んでいましたが、私には地上の暮らしの素晴らしさ、豊かさを話して聞かせてくれました。母はいつの日か、ドレア人もベルメルンの市民として堂々と地上で暮らせるようにと神に祈っていたんです」


「……強い人だな、お母さんは」


「私が十六歳の時、地上に働きに出ていた父が殺されました。理由は分かりません。酔っ払った数人の男たちに何時間も殴られ続けたそうです。地上の人にとってはドレア人など家畜以下の存在なのでしょう。それは酷いものでした。父の遺体は顔も分からないくらい腫れ上がっていて、私はとても自分の父親だとは思えなかった……」


「お父さんを殺した犯人は捕まったのか?」


「はい。そして罰金を十ステアずつ払って釈放されたそうです」


「十ステアって……」


「チーズ二個分ですね、アハハ。馬を盗んだ者の罰金が三百ステアですよ。本当に笑い話です」


「……」


「そんな世の中を変えたかった。だってあまりにも理不尽すぎるじゃないですか? ……私は母のツテを辿って新聞社に入りました。編集長が母の従兄弟だったんです。私が新聞記者になっていい記事を書けばドレア人に対する見方を変えることができる。本気でそう思っていました。母も応援してくれていました。でも、就職して一年経ったころ、母が病気で倒れました。肺炎のような症状で地上なら病院で治療できる病気でした。私は母を入院させようとベルメルン中の病院を訪ねて頭を下げました。でも……あとは分かるでしょう? ネイピア大尉」


「全て断られた、か……」


「薬すらもらえなかったんです。二ヶ月後、母は地下街の狭い部屋で息を引き取りました。私は原稿の締切に追われていて死に目に会うことができませんでした。その時書いていたのは、ベルメルンのある医師が世界で初となる手術を成功させて幼い命を救ったという記事です。そして、その医師は激しい口調で母を罵り、拒絶した男でした」


「……」


「私はもう諦めているんです。理想を追いかけたってちっとも近づかない。それどころかどんどん遠くに逃げていくんです。頑張ったって無駄ですよ。疲れるじゃないですか? そんなの」


「じゃ、君は何で頑張ってるんだ? エレメナちゃん」


「私、頑張ってないです」


「頑張ってるさ、エレメナちゃんは。なぜなら、君は地下街へと逃げ帰らないからだ。君にとってこの地上は戦場だ。ずっと戦い続けているんだろ? いろんな角度から弾が降ってくるだろうし、常に地雷を踏む恐怖にさいなまれているはずだ。周りはみんな敵。そして、味方と呼べる者はいない。俺には想像できないよ。戦場で仲間がいないなんて。俺だったら気が狂うだろう」


「ネイピア大尉はそんなこと……」


「あるよ。戦場で孤独なことほど地獄はない」


 ネイピアはエレメナを抱き寄せた。「君は強い子だ。信じられないくらい強い子だ。君のお母さんと同じように」


 エレメナはネイピアの胸に頬を埋めた。なんだろうこの安心感は。こんなふうに人の温もりを感じたのはいつ以来だろう。懐かしい。父の優しい笑顔、柔らかな母の腕。幸せだったあのころ。意識が心地よくぼんやりと形を失っていく。このまま眠りに落ちてしまいそうだった。

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