第14話 行方不明の衛兵
ラブローと別れたあと、ネイピアは東街区にある衛兵寄宿舎を訪ねた。裏手は丘になっており、その向こうは壁だ。外の世界とベルメルンを隔てている。
壁の高さは五メートルはあるだろうか。脱走した衛兵はロープをかけてよじ登り、その先にある森へと逃げ出していくそうだ。ネイピアが壁を観察すると、ロープで擦れた後がいくつもあった。
近年、軍国化が著しいボミラールルでは徴兵制を進めている。衛兵のほとんどが貧しい農村の次男や三男で、もともとは田舎でのんびりと暮らしていた者たちだ。
ネイピアも似たような境遇だった。この壁を越えて故郷を目指す気持ちも分からなくもない。
「とにかく優しい子だったよ。体の線も細いしねえ。あれで兵隊が務まるもんかねえと心配したもんだ」
寮母は山のように重なっているベッドのシーツを干しながらそう言った。ネイピアは寄宿舎の庭で人懐っこくておしゃべりな小太りの中年女の仕事を手伝いながら話しかけていた。
「そうか。しかし、大変だねえ。何枚あるんだい? このシーツは」
「ざっと二百さ」
「ひええ。気が遠くなるぜ」
「この後は二百人分の夕食の準備さ。もう引退したいもんだ」
ネイピアは言葉とは裏腹に楽しそうな表情で話す寮母を好ましく思った。きっと衛兵たちからも慕われているだろう。
「あの子は、ベクちゃんは非番の日はよく手伝ってくれたよ。いつも笑顔でねえ。本当に優しいんだ」
放火事件の夜、失踪したのはベクトール・マーシュレン。ここに来て五年が経つという若い衛兵だ。
「よくいるのんびりした田舎の子かい? ベクトール……ベクちゃんは」
「羊飼いでもしながら、だだっ広い草原で本を読んでるのが似合いの男さ」
「だったらやっぱり軍隊は耐えられなかったんだろうか?」
「いや、それが違うんだ。あの子はすごかったらしいよ。私はよく分からないけど、訓練じゃいつも一番だったらしいよ。ぽーっとした表情からは想像もつかないけど桁違いに強いんだってさ。仲間からも一目置かれていたようだし。寮の中じゃ出世して偉くなるんだろうね、なんて言ってたもんさ」
「ほう。じゃ変な話だな。そんな男が逃げ出すなんて」
「私はベクちゃんが逃げたなんて思っちゃいないさ。もう二十年もここで兵隊さんたちのお世話をしてるんだ。いろんなことを見てきたよ。逃げ出すのは決まって追い詰められた子さ。顔を見てて分かるんだ。ベクちゃんは違う」
「じゃ、ベクちゃんはなぜ失踪したと?」
寮母は残りわずかとなったシーツの籠を地面に置くと、ネイピアの方に体を寄せ、小さな声で囁いた。
「例の火事。あれに関わってるんじゃないかって。他の兵隊さんたちも噂してる。表立って誰も言わないけれど、私知ってるんだ」
「放火したんじゃないかって?」
「バカなこと言うんじゃないよ! そんなことするわけない」
「うん、だよな。現場じゃその場にいた者たちを避難させようと声をあげていた若い男が目撃されている。それがベクちゃんだと思うかい?」
「あの子のやりそうなことだよ。リーダーシップがあるんだ。火事の時も本当ならベクちゃんがみんなを指揮するはずさ。だから、火事の知らせが来た時、新米が真っ先にベクちゃんを呼びに行ったのさ。でもその時、もう姿はなかったんだ」
「荷物は?」
「自分の目で見てみるといいさ」
残りのシーツを干し終わると、寮母は中へと案内してくれた。
ほとんどの者が任務中だからか、人の気配はない。足音がやけに大きく聞こえるほど静けさが漂っていた。
寮母は玄関を入ってすぐの階段を上がって行く。ネイピアもそれに続いた。
「ここだよ」
長い廊下の一番奥の部屋で寮母は立ち止まった。
ドアを開くと、ベッドと机が二組あった。相部屋のようだ。きちんと整理されており、ネイピアは規律正しさを感じた。
「ここはそのままさ。お財布だって置いてあった。逃げるのなら荷造りするだろ?」
「ベクちゃんは門限過ぎてこっそり飲み歩くような習慣はなかったかい?」
「そんなことしたら私が叱ってるよ」
「でも、実際、夜中に抜け出していたことは確かだ」
「それはそうだけどさ……何か理由があるんだよ」
ベクトールの机の上には読みかけの本にしおりが挟まっていた。ネイピアが表紙を見ると、「ボミラールル軍人英雄列伝」と仰々しい書体で書いてある。なるほど、外見のようにのんびりとした田舎の坊やではない。歴代の名将に憧れ、自分もそうならんとする血気盛んな若者だったわけだ。
「そのうちフラっとベクちゃんが帰ってくるんじゃないかと、私は思ってるんだ」
「でも、そうなったら処分があるだろう? 無断で職務を放棄したんだ」
「何か止むを得ない事情があれば、隊長さんも許してくれるだろ?」
「ああ、そうだな」
ネイピアは気の無い返事をしたが、内心、それは無理だと思っていた。衛兵のトップであるブラニー・ベルギリス大佐のブルドッグのような顔が浮かぶ。徹底した規則第一主義者であり、一切の例外を認めない堅物は、問答無用でベクトールを裁くことだろう。助言するのなら、そのまま逃げた方がいいと伝える。
ネイピアは寮母の言葉を鵜呑みにしたわけではなかった。いくら順風満帆に見えても、それはあくまでも外から見た印象に過ぎない。ベクトールはここの生活から逃げ出したかったのかもしれない。
立身出世を望んでいた若者の心がある日突然、ポキンと折れるのだってよくあることだ。本当のところは本人にしか分からないのだ。
ネイピアは戦場で追い詰められた人間をイヤというほど見てきたが、発狂する直前まで至極冷静に見えることは少なくない。
「私は心配なのさ。息子のように思ってたんだ。ベクちゃんにも親はいないしね。孤児院の出でねえ、私のことを母親のように慕ってくれていたよ。どこかで元気でいてくれてさえいればいいんだけどねえ」
「そうだよなあ」
ネイピアはうなずきながら、孤児院出身ならば逃げ帰る田舎もないのだろうと思っていた。
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