第83話 人はそれを甘噛みと呼ぶ
「あれ・・・もう戻ってたの?」
どう考えても男より女の方が長風呂で、身支度に時間がかかる事も承知の上で、さらに時間を読んで行動したのに、結局部屋に戻ったのは慧のほうが先だった。
後15分程部屋で粘ってから、大浴場に向かえば良かった。
「これでも時間潰して戻って来たんだよ」
「そうなの?ごめん。
お風呂の種類沢山あって、全部入ってたら長湯しちゃったのよ。
フルーツ風呂っていう、柑橘類の果物が入ったお湯があってね、すっごいいい匂いで」
「へー・・・さすが女湯は遊び心があるんだな」
縁側に設置されている応接セットの椅子から立ち上がって、部屋に入って来た和花の元へ向かえば、まさかの濡れ髪のままだった。
「何で髪乾かしてないんだよ」
「化粧台が混んでたから、部屋で乾かせばいいかと思って・・やだ、なんで慧、そんな不機嫌なの?」
大浴場から客室までは、結構な距離がある。
只でさえ湯上りの浴衣姿なのに、その上濡れたままの髪を晒してここまで歩いて来たのかと思うと、苛立ちよりも、嫉妬の方が勝った。
「・・・」
「あ、待たせた事怒ってる?でも、先に長風呂になるって言っておいたよね、あたし・・・きゃあ!」
無言のまま和花の前まで歩いて行った慧は、浴衣の和花の腰に腕を回して抱え上げた。
この距離だとグレープフルーツとオレンジの匂いが強く香る。
すれ違った男どもが振り返ったのかと思うと、頭を抱えたくなった。
「長風呂になるのは覚悟してた。待たされることも、計算に入れてた・・・けど」
「なに!?下ろして!髪乾かす・・・っん」
抱き上げたせいで目の前にある唇を啄んで、敷かれたばかりの布団の上に和花を抱えたまま転がった。
いつもはベッドなので、このシチュエーションはかなり新鮮なのだが、それを冷静に楽しむ余裕は慧にはない。
綺麗に並べられた布団の片方に組み敷いた和花の上に、馬乗りになって慧が不機嫌を露にする。
「こんな格好の和花は、想定外」
柑橘類って言ってたな、グレープフルーツも、オレンジも、どっちも皮を剥けば食べられる。
ああ、そうか、同じように剝けばいいのか。
ふわふわと漂う甘酸っぱい香りは、和花が普段使うシャンプーとも香水とも違って、妙に気恥ずかしい気分になる。
女子高生が好んで使う制汗剤の香りに似ているからかもしれない。
見上げれば見慣れない天井と、古い木造りの窓が目に入る。
明らかに日常とは異なる空間に、和花とふたりきり。
もう少ししっとり夫婦の時間を楽しむつもりだったのに、初っ端から予定が狂ってしまった。
今更仕切り直すつもりもないし、和花に髪を乾かす時間を与える余裕もない。
とりあえず、二度と濡れた髪のままで廊下に出ない事を約束させて、それから・・・
小言を言おうと和花の顔を見下ろすと、濡れた瞳とぶつかった。
慧が頭の中でアレコレ考えていたのと同じように、和花も考えていた筈なのだ。
途端、それを思い出した。
思い出して、それでも、逃がしてやれないなと結論付ける。
★★★★★★
東雲の祖父母が愛用していた常宿の宿泊券を譲って貰った時には、両親を行かせるつもりだった。
けれど、それを見た和花が酷くはしゃいで、温泉に行きたい!と騒いだので、それなら今回は夫婦で旅行をしようと提案した。
県内の有名な老舗旅館は、高級宿で有名な温泉街に位置しており、日帰りでも行ける距離にあったが、迷わず一泊二日で申し込んだ。
和花と過ごす初めての夫婦水入らずの旅行だ。
4人暮らしだった頃、父親に連れてこられたことはあったが、散策をしたのは随分前の事で、足湯巡りをしながら、博物館や美術館を回るのも楽しかった。
何より和花が終始ご機嫌で、慧が心配する位はしゃいでくれたことが嬉しかった。
父親が気を利かせて、馴染みの小料理屋に予約を取っていてくれたので、食事は外で済ませてから宿に向かった。
すでに時間は21時を回っており、空腹が満たされた和花は早々にお風呂に入りたいと言って、慧を置いて大浴場に向かった。
備え付けの部屋風呂に見向きもしなかった事は、ひとまず置いておく。
広い湯船で寛ぎたい和花の気持ちも汲んでやるべきだと自分を納得させた。
翌朝のチェックアウトは11時にしてあるので、朝起きてから入る事もできる。
急ぐことは無いし、焦る必要もないと思っていた。
思って、いたのだ。
つい数分前までは。
震える唇を指でそっとなぞって、額をぶつける。
「・・和花・・」
「な、んで怒ってんの・・・?」
「わかんねーの?」
低い声の問いかけに、和花がびくりと肩を震わせた。
怯えさせるつもりは無かったけれど、結果的にそうなってしまった。
濡れた髪がほつれて布団の上に広がる。
どうせこっちでは寝ないから問題ない。
困惑気味の和花の頬を優しく撫でて、言い含めるように告げた。
「・・・こういう・・和花は、俺以外に見せたくないんだよ」
和服を好む香澄の教えの賜物か、和花は綺麗に浴衣を着こなす。
品よく結ばれた帯を緩めて、慎ましやかに詰まった襟を広げる。
迷いのない慧の指の動きに、和花が息を飲んだ。
「っ・・・ん・・っ」
仰のいた首筋に吸い付いて、そのまま襟の内側に指を這わせる。
着付は完璧なのに、なんで他のところが隙だらけなんだ・・・
「分かった?」
仔猫にするように喉を擽って、耳たぶを舐める。
びくんと震えた和花が、慧の肩を叩いたが、細やかな抵抗にもならなかった。
「・・・っん・・わか・・った・・からぁ」
たぶん、もうやめて、と続くんだろうけれど、言わせない。
声を震わせる和花の瞼にキスをして、上唇をつついた。
これだけやったら、もう同じ失敗は繰り返さないだろう。
いくら鈍感な和花でも、慧の嫉妬のスイッチ位は覚えるはずだ。
「・・・慧・・」
「んー・・・なに・・・ん」
問いかけておきながら、答えが返って来る前に唇を塞いでしまう。
下唇を吸って、舌で輪郭を辿れば、ほのかに甘みを感じた。
フルーツ牛乳だ。
どうやら大浴場を満喫してきたらしい。
「ぁ・・う・・・っん・・・んぅ」
「あ・・っま・・・は」
「んぁ・・・っん」
舌を絡めるとますます味が濃くなる。
中も外もフルーツ漬けだな・・・
上顎を擽って、歯列を撫でた後、迷って固まる和花の舌を絡めとる。
慧は好んで飲まないフルーツ牛乳だけれど、こうして味わうと好きになれない事もない。
舌に残る独特の甘さも、和花から感じるなら嫌じゃない。
こうして和花を腕に抱いていると、甘やかしたいのか、乱したいのか分からなくなる。
結局いつもないまぜのまま始まって終わる。
きっかけは慧が作って、応えた和花に不意打ちを食らって、そのままズルズルと思考が動かなくなってしまうのだ。
最初から溺れているのは慧のほうで、そこに砂糖を纏った和花が飛び込んで来るから、さらに自制が効かなくなる。
逃げる舌を追いかけると、ゆっくり応えてくれるから、さらに仕掛けたくなる。
怖がりのくせに、最後に踏ん張って意地を張るのが和花だ。
なんで度胸もないくせに中途半端に挑んでくるわけ?
俺はそれを予測できないから、立ててた予定が見事に覆って、追いつめるみたいに抱いてしまう。
俺が最初から最後まで優しいだけで終われないのは、和花のせいだ。
「部屋風呂・・見た?」
すっかり冷えてしまった掌に、和花の肌は心地よい熱を与えてくれる。
「・・・う、ん・・・っぁ」
さっきより赤くなった頬を味見するように舐めたら、和花の指が布団の上を滑った。
その手を捕まえて指を絡める。
今更なのに、ぎゅうぎゅう握りしめて来るところが最高に可愛い。
安心させるように握った手の甲にキスをした。
和花の好きなおとぎ話の1シーンのようだ。
和花がお姫様なら、いつまで経ってもハッピーエンドに辿り着け無さそうだけど。
俺も王子様って柄じゃないから、ちょうど良いのかもしれない。
「・・・後で入る?」
「朝は・・嫌ぁ・・」
外湯だから明るくなるのが恥ずかしいのだろう。
涙目で訴えた和花の額にキスを落とす。
「いいよ」
それ位は譲歩するのが筋だろう。
だってこの後の事には一切保証何て出来ない。
慧が身体を起こして、濡れて震える唇を親指で撫でた。
和花が潤んだ瞳を向けて来る。
「わーか」
呼んだら、酷く甘ったれた声になった。
自分の余裕のなさが露見したようで恥ずかしくなる。
もう、何を言っても今更だけど。
「こんなフルーツのいい匂いさせて俺のところに来たんだから、綺麗に剥いてもいいよな?」
元よりそのつもりでここに来たわけだし。
理想は、穏やかにそうなる事だったけれど、今となっては仕方ない。
散々待ちくたびれたし、和花がぐずって泣き始める前に仕掛けないと困る。
とにかく和花に泣かれると弱い。
軽く引っ張って緩めた帯を、今度は綺麗に解いてしまう。
しゅるりと衣擦れの音がして、和花が狼狽えるように目を伏せた。
「・・・和花」
耳たぶにキスをしてもう一度名前を呼ぶ。
確かめるように握った指先を、和花がぎゅっぎゅと握り返した。
「髪・・・洗って」
控えめすぎる了承に口角が上がる。
唇を啄んで、慧がくすりと微笑んだ。
「いいよ。約束する、だから・・・いい?」
「・・うん」
今度は視線を合わせて、和花が小さく頷いた。
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