第1話 ただ、知りたい。

 桜の花が咲く四月中旬の晩、里で双子の鳥が生まれた。


 壁が震えんばかりに産声をあげる赤子の肌と髪には血がべっとりと付いている。傍で出産を見守っていた父親は、自分の手が血で汚れるのも厭わずに我が子を抱き上げた。


「二人となると少し重いな。どれ、祝福のまじないをしてやろう」


 それは産まれてすぐ行わなければ効果を成さない術。子に託す願い──名前の由来──を囁きながら妖気を練り、幼い身体に注ぐと願いを成就させることができると里で信じられていた。父親は今も尚泣き続ける我が子ににこりと微笑みながら告げる。


 どんな敵であろうと怯まず、折れぬ牙を持つ王者となるように。雄の雛鳥は「帝牙たいが」と名付けられた。


 身も心も美しく、民に慕われる帝のような存在になれるように。雌の雛鳥は「帝麗ていれい」と名付けられた。


 帝牙と帝麗は穏やかで優しい父と父の弟子、そして親戚に可愛がられて何不自由なく過ごす。里の中でも特別な血筋のもとに生まれた双子は、他の鳥からすれば喉から手が出るほど羨ましい境遇だ。


 しかし双子の片割れ、妹の帝麗は己の世界に満足できずにいた。小さい頃からずっと同じ疑問を抱いている。


 それは、母が傍に居ないこと。


 自分を産んでくれた母は屋敷にも里にも居ない。父や親戚に何度尋ねてもはぐらかされるばかりで、祖父に至っては余りにもしつこくて苛立ったのか「答えを聞きたきゃ俺を倒してみろ」と容赦ない殺気を飛ばされたこともある。帝麗が腰を抜かしたのは勿論、父が大慌てで駆け付けて何度も土下座しているのを目にした時はさすがに申し訳なさでいっぱいになった。


 そして自ずと気付く。どうやら母のことは実子といえど簡単に立ち入っていいものではないらしい。軽々と教えてもらえる内容ではない、とも。


 母様はどんな鳥だったのかしら。


 何も考えることがない時。空を見上げている時。家族連れを見かけた時。帝麗はいつも自分の母親について思いを馳せ、見つからぬ答えについて思いを巡らせる。


 母に関して帝麗が知っていることといえば名前と家族関係くらいだ。母の声も、指の感触も、何ひとつ覚えていない。否、それを覚えていられるほどの交流があったのかさえ怪しい。


 どうして里に居ないの?

 私を産んで、人里へ行ってしまったの?

 私を、私達を、父様を愛していなかったの?


 そんな疑念を持つことは極々自然な流れであった。


 父ならば知っている筈だ。誰よりも母を理解している筈だ。母を覚えている筈だ。母と心を通わせ、身体を重ねたからこそ今の私が在るのだから。


 帝麗はきっかけが欲しかった。


 問うことが難しいなら、打ち明けてもらうしかない。言わざるを得ないような好機が欲しい。だが焦ってはいけない。己の中で渦巻く疑問の炎を必死で抑え込み、時期を見誤ってはいけないと本能が告げていた。


 そうして耐えてきた帝麗はこの春に三十歳を迎えることとなった。


 鳥の里では三十歳の誕生日を迎えると同時に元服の儀が執り行われ、一人前の鳥として扱われる。この日を境に生まれ育った実家を出て、師匠の屋敷で生活するのが慣習となっていた。


 元服の儀を一ヵ月後に控えたある夜、部屋に呼び出された帝麗は父の言葉を耳にして衝撃を受けることになる。


「元服の儀を迎える祝いに、何か一つ願いを聞いてやろう。欲しいものを考えておきなさい」



  *  *  *



 帝麗は双子の兄である帝牙を自室に招くと、座椅子に座るよう目線で促した。帝牙はゆったりとした動きで座椅子に腰掛けて脚を組み、静かに尋ねる。


「お前は……母さんのことを訊くつもりか」


 何を分かり切ったことを、とでも言うように帝麗は呆れた表情を浮かべる。


「勿論。これ以上の機会は無いもの」


 ようやく悲願が達成されようとしているのだ。気分が高揚するとともに声色が弾んでしまうのも無理はない。


「よくもまぁそこまで気にかけていられるよな。御祖父様に殺されそうになったくせに」


 帝牙は妹の心境をまったく理解できないでいる。母が居ないからといって不便な思いをしたこともないので、執着できるほうが凄いと思ってしまうほどだ。


「兄様は気にならないの?」

「うん。どうでもいい」

「どんな鳥だったのか、どんな術が得意だったのか、知りたくないの?」

「知ったところで何になる。産んでくれた母さんには感謝してるけど、それ以上の感情は無いよ」


 あくまでも無関心を貫く兄が不満なのか、帝麗は声に真剣さを滲ませながら話す。


「私達は華氏かしの血を引く一族よ。確認できるかぎりのご先祖様や親戚の名前、どんな功績を残されたのかも全部叩き込まれる。なのに何故母様のことだけ教えられないの? どう考えても変でしょう」


 華氏とは二人より五代前の先祖にあたる雄の鳥の名だ。そして、鳥の里において華氏の一族は名家と謳われる血筋である。ほぼ全員が鳥同士で子を成す純血であり、高確率で見目麗しい鳥が誕生している。艶やかで深い紺色の髪と、菜の花色の瞳はこの一族の特徴として挙げられるほどだ。他の一族ではまずこの色は生まれない。


 無論、帝麗と帝牙もこの一族の血を色濃く受け継ぎ、美しい容貌をしている。


「それは否定しないよ。何て言ったって母さんはあの華月かげつ様の第一子だからね」

「私は……母様に会いたいとは思わないの。ただ、知りたいのよ。一回だけでいいからきちんと真実を教えてほしい」


 もう子供ではない。


 元服の儀を迎えれば一人前の鳥として扱われる。師匠のもとで学びながららんとしての生き方を身に付け、里の繁栄に貢献しなければならない。


 幼少からの荷物を背負い続けるつもりはない。気持ちを切り替えるためにも、答えを得る必要がある。


「父さんが答えてくれると思うか?」

「父様はご自分の言葉に責任を持てる方だから大丈夫よ」


 元服の儀は里でも重要な儀式だ。その儀式を口実にした約束ならば反故にすることはないだろうと帝麗は踏んでいる。


 これを逃せばしばらくはまた口を噤む日々が再開するだろう。次に訪れる機会としては自分の婚儀か出産か。いずれにせよ先が長過ぎる。


「そういえば兄様は何をお願いするつもりなの?」


 帝麗の質問に、帝牙は指を口元に当てながら「特に考えてない」と小さく答える。帝麗が深いため息をつくと、帝牙は両手を大袈裟に広げた。


「無欲ね。そういう時はとりあえずお金って言っておけばいいのよ。あって困るものでもないんだし」

「金か。それは良いな。師匠にお渡しすることもできる」

「なんで師匠に渡しちゃうのよ。師匠から給金が支払われるわけでもなし、自分の財産にすればいいじゃない」

「修行をつけてもらうだけでなく屋敷にも住まわせてもらうんだぞ。謝礼は払うのは悪いことじゃないだろう」

「……私、今やっと分かったわ。双子だからといって同じ方向に進む必要は無いわよね」


 帝麗が動ならば帝牙は静。


 帝麗が太陽ならば帝牙は月。


 そのくらいに気質が違い、心の奥底で流れている情熱にも温度差が生じている。


 だからこそうまく付き合えているのかもしれないが。



  *  *  *



 一ヵ月後、帝牙と帝麗は桜が舞う時期に三十歳の誕生日を迎えた。幹部同席のもと元服の儀が執り行われ、親族を中心に招いた宴も終えた。


 就寝前に父の部屋に向かった二人はそれぞれ願いを口にする。


 帝牙は、自分は何も望みは無い。だが、どうしてもというなら妹の願いを叶えてやってほしいと申し出た。気の毒な妹を助けてやりたいと少しばかりの兄心が働いたためだ。


 帝麗は兄の言葉をしっかりと受け止めながら、母のことを教えてほしいと申し出た。


 二人の父・帝一ていいちは、二人の願いに対してあからさまに眉をしかめた。不快というよりは困惑気味と表現したほうが正しいか。言いにくそうな雰囲気を隠すことが出来ず、かといって無下にすることも出来ず。


 だが負けじと帝麗は父の動向を見守り続ける。ここで根気負けしたらお終いだ。


「父様。ここで話せないのは何か事情があるのですか。私達の母様は……里に緘口令を敷かねばならぬほどの罪を犯した方なのですか」


 俯きながらもしっかりとした口調で続ける。


「小さい頃からずっと不思議でした。華氏の血を重んじる家系でありながら誰もお母さまのことに触れません」

「昔から、か」

「母が恋しいのではありません。たとえ人里に母が居るのだとしても会いたいとは思いません。ただ知りたいだけなのです」


 畳に両手をつき、恭しく姿勢を低くして額を畳につける。生半可な気持ちで知りたいのではないことを土下座で示した。


 帝麗の真摯な姿に、父は重たい口を開く。


「帝麗。顔を上げなさい」


 顔を上げた帝麗の視線の先に、優しい父は居ない。壱の幹部として里のために尽くす雄の、迫力に満ちた姿であった。自然と背筋が伸びる。


「お前達の母……魅月みづきについて今、この場で俺が話すことは何も無い。俺はこの件に関して説明する権利を与えられていないんだ」

「どういう意味ですか」

「この件の説明を受けられるのは、弐の幹部以上と掟で定められている」


 帝麗は驚愕の表情を浮かべる。


 弐の幹部といえば、少なくとも百歳を超えていなければ辿り着けない幹部の階級だ。


「本来ならば元服の儀を迎えた程度のお前が聞けるような代物ではない。長老もそう在るべきだと認めておられる」


 鳥の里には確固たる序列が存在する。トップは長老、その下に複数の幹部組織が続く。


 長老の次に里を動かす権力と圧倒的な戦闘力、濃い妖力を持つのが五羽貴ごうきだ。その名のとおり五人の鳥によって構成され、里の繁栄と維持、教育といった政治も取り仕切る。強い鳥ほど長寿のため全員が齢三百をゆうに超えている。


 その次は壱の幹部。主に里の警護及び長老の屋敷の警備を担当している。縄張りに侵入した他の妖怪と戦闘する可能性が高いため、戦闘力の高い鳥が選ばれる。


 そのまた次が弐の幹部。長老の身の回りの世話を担当する組織だ。戦闘力が高いのは言うまでもないが、細やかな気配りができる鳥が選ばれる傾向にある。


 幹部としては一番格下であっても、弐の幹部に昇格することは非常に難しい。三十年しか生きていない鳥なんぞ話にもならないのである。


「そして、この件について話ができるのは華月様だけだ」


 華月とは帝麗の大叔父、つまりは祖父の兄にあたる鳥の名だ。先述した五羽貴の一員であるため、親族といえど帝麗が軽々しく話しかけるのは抵抗がある程度には位が高い。


「まずは俺から華月様に打診してみる。もしかしたら魅月の実子という立場に免じて話してくださるかもしれない。だが華月様が駄目だと言ったら諦めるんだ。弐の幹部に昇格できるよう死ぬ気で励むしかない。分かったな?」


 これ以上の譲歩はできないと父の顔は告げていた。煮え湯を飲まされ続けた帝麗も、無言で頷くことしかできない。


 ここで我が儘を言うような鳥なら数年しないうちに命を落とす愚か者と成り果てるだろう。華氏の血を汚す鳥としても罵られるだろう。分別を弁えねばならないことを帝麗は察した。


 祈るしかない。


 母、魅月の実父である華月が情けをかけてくれることを。

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