026 知らない世界、知らない怪物


 シューカが目をつけたのは『黒蝕』と呼ばれる初級の闇魔術だった。対象の色を黒に変えるという効果だが、上塗りされたというよりは、本来有していた色を奪われ、結果として黒に置き換わっただけに過ぎない。


 『黒蝕』の術式の本質が『奪う』にあると見抜いたシューカは、古来より伝わるその術式を分解し、再構成させることに挑戦する。もちろん、並の術師では読み解くことすら不可能だが、古代の魔女として前世を生きたシューカだからこそ、成功させることが出来た。


「――『宵闇の抱擁』」


 それは、『黒蝕』の術式を改変し、自己流にアレンジしたシューカの創作闇魔術だ。宵闇は母親のように彼女を愛し、痛みを伴う優しさとともに包んでくれる。蠢く抱擁は、自発的に少女を害するもの残さず平らげ、徹底的に排除する。


「お兄さん、試しに石ころを当ててみて?」


「こうか?」


 言われたとおりに、キッカに小石を投げてみた。弧を描いてシューカの肩に吸い込まれていく小石は、周囲に漂う影に触れた途端、ぼろぼろに朽ち果てた。跡形もなく、瞬時に溶かされたのだ。


「わたしにとって"良くないもの"を、消し去ってくれるの。これに覆われていれば、瘴気領域でも活動できるんじゃないかな」


「……恐ろしいな」


 シューカが創作した術式は、明らかに常軌を逸していた。自動迎撃機能を有した、防衛壁。生半可な相手では、術式を発動させたシューカに触れることすら叶わない。


「そ、それを身に纏ったまま、敵に触れるとどうなるのでしょうか……?」


「それがね、能動的には使えないの。あくまで自動迎撃機能のようなものだから、向けられた悪意にしか反応しなくて……」


 ――やっぱり、神様に呪われているから、と。


 シューカは、わずかに視線を落とした。闇魔術師なのに、敵を呪えない矛盾。彼女の致命的な欠陥だ。


「よし、次は瘴気だね」


 気を取り直したシューカは改めて術式を再構築する。ゆっくりと瘴気領域に近づき、緊張した面持ちで瘴気へと手を伸ばした。


 ――しゅるる、と。


 魔素が唸りをあげて、渦巻いていた。シューカの周囲を覆っていた暗闇が、瘴気を飲み込んでいく。『宵闇の抱擁』は、目の前の瘴気をシューカにとっての"良くないもの"だと判断したようだ。


「……凄ぇな」


 ぽっかりと、瘴気領域に空洞が生まれていた。まっさらな空気が、シューカを歓迎している。人が通るほどの大きさではないが、お試しとしては十分である。


「お兄さん……!」


 振り返ったシューカは、目をきらきらさせて喜んでいた。


「――見事だ」


 力強く頷いて、シューカの頭を撫でる。


「お前は自慢の妹だよ」


「ふふふ、頑張ったかいがあったわね」


 仲睦まじい、ヘイケラー姉妹。だが、やっていることはあまりにも規格外だった。


「行こう、お兄さん! フェリエル!」


 術式の成功を確信したシューカは、『宵闇の抱擁』の効果範囲を周囲二メートルほどまでに広げた。


「……仕方がありませんねえ」


 まさか、本当に瘴気を攻略してしまうとは。


「此処から先は、私が先導します。くれぐれも、無理をなさらないように……」


 放っておけば、世界の彼方まで進んでいってしまいそうな不安があった。だから、自分が先頭に立って、訪れる災いの盾となりたい。


「フェリエルも、冒険者だな」


 キッカが、嬉しそうに笑っていた。


「目が、輝いているぜ。瘴気領域、気になってたんだろ?」


「――っ!」


 うずうずと、肩を震わせるフェリエル。


 誰も知らない場所。

 誰も見たことのない景色。


 死の危険と隣り合わせの、未知の領域。目の前の広がる見えない未来が、たまらなくわくわくさせてくれるのだ。


「……魔素切れには注意してくださいね。シューカ様が倒れたら、全滅ですから」


「もちろんよ。お兄さんとフェリエルを死なせる訳にはいかないもの」


 覚悟を決めた三人は、身体を寄せ合う。暗闇が三人を包み込み、歪な愛情で瘴気から身を守ってくれる。


「行くぞ」


 そして三人は、瘴気領域へと進んでいく。



 ◆


 瘴気領域の中は、とても濃い霧の中を彷徨っているかのようだった。術式の範囲外は何も見えず、手探りのようにゆっくり進むしかなかった。だが、瘴気領域とはいえ、森の中であることに変わりはない。生えている木々等は、キッカたちが知っているものと変わりはなかった。


「……不思議な空間ですね。まるで、時間が止まっているようです」


 いつもは感じられる植物の気配が、まるで感じられない。かといって、息絶えているわけでもなく、常にそこに在る。


「歪んでいる」


 世界のあり方が、根本からねじ曲がっているような感覚だ。真っすぐ歩いているのに、気が付けば曲がっているような気持ち悪さ。自分たちがいる場所は、果たしてどこなのだろう。世界の歪みに迷い込んでしまったような気さえしてくる。


「……お兄さん、何かきます」


「ナイトメアか?」


「おそらくは」


 奥に進んでいる間に何度かナイトメアの襲撃を受けたが、瘴気対策を得た彼女たちの敵ではなかった。すぐさま処理をして、制圧する。人型のナイトメアでなければ、大した脅威ではない。


「……不思議ですね。周囲に気配がしないのに、突然現れました。まるで、たった今、生まれ落ちたような……」


 だが、警戒する彼女たちの想いとは裏腹に、瘴気領域は彼女たちを拒むこともなく、受け入れ続ける。散発的にナイトメアがやってくるものの、それだけだ。正直な感想としては、拍子抜けである。


「……何も、ありませんね」


「ああ……」


 瘴気領域に侵入して、小一時間ほどが経過していた。


「そろそろ引き返した方が良いかもしれません」


 何の収穫も得られないまま、時間だけが過ぎていく。引き返す時間を考えると、このあたりが頃合いだった。


「何かあるはずだが……瘴気領域が広すぎて、探索しきれねえな。視界の悪さが、足を引っ張ってやがる」


「シューカ様、魔素の残量はいかがでしょうか」


「……厳しいかも。思ったよりも、燃費が悪い術式ね……」


 シューカの表情に、疲労が見え隠れし始めていた。


「仕方がねぇ、今日のところは撤収するか」


「……! ま、待って、お兄さん!」


 何かを感じ取ったシューカが、咄嗟に大きな声を上げた。


「瘴気の濃度が、徐々に薄くなっているわ……! ほら、見て……! 視界が、少しずつ広がっていく……!」


「……何だって?」


 シューカの指差す方を見てみると、たしかに瘴気の濃度が薄れている。霧が晴れていくように、視界が広がりつつあった。


「全員、警戒を怠るなよ。そこに、何かがあるはずだ」


 フェリエルは、唾を飲み込みながら剣に手を伸ばす。


「……ますます、瘴気が薄くなっていくわ」


 街灯に群がる蛾のように、瘴気の薄い方へと吸い寄せられていく。無意識のうちに、瘴気領域に導かれているようだと、キッカは感じていた。数分もしないうちに、彼女たちは辿り着いた。瘴気の一切ない、奇妙な空間へ。


「――湖?」


 神話の神様が水浴びをしているような、美しい湖が広がっていた。禍々しい瘴気は、この神々しさに押しやられているのだろうか? 驚くほど透き通った水は、緊張していた心を和らげてくれる。その美しい空間に、三人は我を忘れて見惚れていた。


「……瘴気領域に、こんな場所があるなんて」


 砂漠の中のオアシスのように。

 あるいは、海に浮かぶ小島のように。


 周囲を確認してみたが、ここが瘴気領域の終点というわけではなさそうだ。湖の向こう側はまた瘴気に包まれており、安全なのはここだけらしい。


「生き物は、いなさそうですね」


「ああ……」


 頷きながら、キッカは湖の方へと歩み寄る。水底が見渡せるほど、透明な水。だが、湖に巣食う生物は存在していない。この場所そのものが、明らかに異彩を放っている。


「汚えのもよくねぇが、綺麗すぎるのもまた毒なのかもな」


 その美しさは、生を醜く感じさせる。


「……確かに瘴気はありませんが……逆に、不気味ですね」


「わ、わたしも……ここは、嫌かも。心臓が、ぎゅーっとする」


 咄嗟に、胸を抑えるシューカ。清らかさは、闇を嫌う。瘴気と親和性の高いシューカにとって、ここは相性が悪い場所なのかもしれない。


「……待て」


 奇妙な美しさを意を介さないキッカは、目を細めて湖の中央を指さした。


「あそこに、何かあるぞ。ちょっと、行ってくる」


「え? ご、ご主人様?」


 何もない場所を指さしたキッカは、水を吸って重くなった衣装を破り捨てながら、中央を目指して湖の中を進む。透明な水は、驚くほど冷たかったが、逆に清々しさすら感じさせる。シューカとは正反対に、キッカはそれほどこの空間に居心地の悪さを覚えていなかった。


「な、何かあるのですか!? 私には、何も見えないのですが……!」


 追いかけようかと迷うフェリエル。だが、シューカを放置するべきではないと判断して、呼びかけるに留めた。


「何も見えねぇよ。だが、何かある」


 そう言って、手を伸ばしたキッカを。


 ――ばちっ!


 と。


 稲妻のような光とともに、腕が弾き飛ばされた。


「ご主人様!?」


「大丈夫だ! やはり、何かあるな」


 瘴気とは違う、絶対的な拒絶の意志をキッカは感じていた。


「見えるか、シューカ?」


「……見える」


 キッカの声に応えるように、シューカの瞳が紫黒に輝いていた。深淵の瞳が、そこにあるものを覗き込もうとする。


「何かあるよ! 確かにある! だけど、結界っぽいものが邪魔をしてる! 見えないのも、そのせいよ!」


「そうか」


 ぐっと、力を込めながら、キッカは言う。


「――


「へ?」


 フェリエルは、聞き間違いかと首を傾げた。


「ご、ご主人様? さすがに危険では?」


「ナイトメアは、ここを守るように発生してるんだ。どうせ、ろくなもんじゃねえよ」


 それに。


「――何が起きても、オレが守ってやるよ。だから、安心してな」


 迷いのない瞳が、そこに在るものを捉えた。渾身の力を込めた一撃が、理不尽に振り下ろされる。


 大地が揺れるほどの衝撃が、一帯に響いた。同時に、金属が砕け散るような爆発音が耳を襲う。


「――っ!」


 ばりばりと音をたてながら、空間が歪んでいく。キッカのその一撃によって、封印は解かれたのだ。


「――ァアアアアア!!!!!!」


 雄叫びが、ひび割れた世界の狭間から聞こえてきた。怒り狂うような咆哮だった。キッカがぶっ壊したのは、明らかに"良くないもの"であった。これまで三人が見たことのない生命体が、激情ととともに君臨する。


「……ナイトメア……?」


 瘴気に汚染されていない、三メートル程のサイズの新種の怪物だった。ヤギのような頭に、異常に発達した両肩と太腿。だらしなく垂れた両腕はとても長いが、一方で人間の手のようにも見える。白と茶色に彩られた肌は、大地のように固く肉体を覆っていた。


 特徴的だったのは、背中から生えている漆黒の翼。悪魔のような、天使のような、曖昧な存在にも見える。


「こいつが、ナイトメアの親玉ってわけか」


 何気なく放った、キッカのその言葉。だが、予想外の反応が帰ってくる。


「……親玉、だと?」


 目覚めたばかりの怪物は、驚くべきことに人語を口にしていた。


「この私が、あのナイトメアと……? ククク、ハッハハハハハハ!!!!!」


 禍々しい魔素を漲らせ、高笑いをする。化物が声を震わせる度、空気が怯えていた。ざわざわと、周囲の何かが蠢き始める。


「――馬鹿にするのも程々にせよ、矮小なニンゲン風情が!! 魔人たるこの私を愚弄するつもりか!」


「……魔人?」


 聞き覚えのない言葉に、首を傾げるキッカ。


「魔人って……何だ? 知ってるか、お前ら?」


「知らないわ」


「私も……知りません」


「…………」


 魔人を名乗った怪物は、思った反応が得られないことに感情が凍りついていた。どうやら、恐れ慄くのだと思いこんでいたようだ。


「……お前ら、マジか? 魔人知らんのか? あらゆる生物の頂点に君臨する化物だが?」


「知らねえ。魔物と魔族しか知らん。それじゃねえのか?」


「紛い物と同じにするなよ、ニンゲンが!! 太古より存在する最上位種! 世界を幾度となく滅ぼし渡り歩いた異形の怪物だ! ここがどこの世界だろうと、恐怖の象徴として語り継がれているはずだろうが!!」


「いや、知らんな。少なくとも、グアドスコン王国はお前らに滅ぼされていないぞ?」


「……そうか」


 話が合わないと判断した

 対話を諦めた魔人は、感情を切り替えた。


「ま、構わん。世界、滅ぼしてしまえば同じことよ」


 そして魔人は、その真価を披露する。


「『漆黒炎』」


 複雑怪奇な術式を展開しながら、禍々しい魔素を練り上げる。開かれた口からは真っ黒な炎が渦巻いており、この場に存在する全てを焼き尽くさんとしていた。遅れて三人は、魔人の強さを理解した。


「――喰ライ尽クセ」


 放たれた『漆黒炎』は、かつてキッカが放った『魔弾』と同程度の破壊力を実現させていた。通過するものを塵に変えてしまうほどの、圧倒的なその威力。矮小な人間には、為すすべなどあるはずもない。


 ――だが。


「……は?」


 シューカにとって"良くないもの"は『宵闇の抱擁』が自動で捕食する。放たれた特大の『漆黒炎』は、シューカの周りに渦巻く深淵の影に丸呑みにされてしまった。


「…………」


「…………」


 魔人の渾身の一撃が、一人の少女に平らげられてしまった。その現実を理解することは、なかなか難しいらしい。


「魔人が滅ぼした世界ってのは、御伽噺の世界か?」


「え?」


 呆然とする魔人は、眼前に舞う少女の存在を見ているだけしか出来なかった。少女は、拳を振り上げている。それで一体、何をするつもりだ? 強靭な魔人の身体を殴ろうものなら、自分の拳が砕けるだけだ。いや、それよりも先程の少女を――


「躾の時間だ」


 あらゆる考えを笑い飛ばす、規格外の一撃。


 魔人は、理解していないのだ。


 自分を封印していた術式をぶっ壊したのは、今、目の前に掲げられている少女の拳だということに。


 刹那に垣間見た、走馬灯のようなもの。

 魔人が見たことのないほどの高密度の魔素が、ありったけに練り上げられている。


「!?!??!??!?!?!?」


 明確な死のイメージが、魔人を襲った。彼は、最後まで理解することが出来なかった。自分の攻撃を封殺したシューカも、たった一撃で魔人を叩きのめすキッカも、何もかもが、理解できない。したくもない!


 美しい湖の水底に、叩きつけられていた。湖の水は衝撃によって水柱の如く吹き上がる。大量の水が再び水底を覆おうとする最中、身動きの取れない魔人の上にキッカが馬乗りになっていた。


「安心しろ」


 意識が途切れる刹那、キッカの邪悪な笑みが目に焼き付く。


「せっかく、言葉が通じるんだ。殺しはしねえよ」


「ひ」


「じっくり、話を聞かせてもらうぜ」


「ぼ、暴力反対……」


「うるせえ」


 二度目の拳が振り下ろされる頃には、魔人の意識は彼方へと消えていた。出来ることなら夢であればよかったのにと、刹那に願っていた。

 

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