第3章 ⑩すれ違い

翌日は灰色の雲が隙間なく空を覆う曇天だった。

分厚い雲に指を突き刺せば、そこから一気に水がもれそうだった。

まるで私みたいじゃないかと楓は恨めし気に空を睨む。

樹とは日比谷駅近くのカフェで待ち合わせをしている。

ランチをして映画を観るという、これまで何度となく繰り返してきたデートのパターンだが楓は緊張していた。


約束した時間5分前に店に入ると樹はすでに窓際の席に座ってぼんやり外を見ていた。楽しそうでもつまらなそうでもない。本当にただ外に視線を向けているだけという感じだった。楓がテーブルの前に立っても樹は気づかず、名前を呼ぶとようやく顔を上げた。


「待った?」


樹は笑みを浮かべて軽く首を振った。


楓はパスタセットを樹はBLTセットをオーダーし、いつものように仕事のこととか気になったニュースとか、とりとめなく話す。3週間ぶりのデートで話はたくさんあるはずなのに話ははずまない。楓は美幸から送られてきた写真が引っかかっていたせいだが、樹もいつもと違う。無口だし何かに気をとられているのがわかる。あの彼女のことを考えていて、楓と過ごすこの時間がもう面倒なのだろうか。そんな風に考えると食欲も萎え、どうしてこんなガサガサして食べにくいものを頼んでしまったのだろうと楓は後悔する。


どうしたのだろうと樹のことを考えていたら「どうしたの?」と逆に聞かれて驚く。


「えっ?」

「あまり楽しそうじゃないから。映画、キャンセルする?」


これから見る予定の映画はすでにシートを予約している。樹の口調がいつものようなトーンなら気にならないが、今日はどこかひんやりしていて楓は怖かった。


「そんなことないよ。樹の方こそなんか疲れているみたいだけど」


樹は昨晩、ユーゴの手料理を食べすぎたのと飲み過ぎたのと、そしてユーゴから思いもよらない告白を聞いて、胃腸も心もぐったりもったり疲れていた。しかしそんな様子を見せているとは気づいていなかったので「そうか、ごめん。ちょっと疲れてるかも」と素直に謝った。


「今日はやめとく?」と、楓の方から心の中ではそうならないで欲しいと願いながら聞いてみた。


「キャンセルしたいの?」


問いが元に戻る。私がキャンセルしたいわけがないじゃない。樹の屈託のない、カンの悪い再びの問いかけに楓は少しイラっとしつつ「私は見たいけど、樹が行きたくないのなら」と、珍しく強い口調になった。すると以外にも樹はあっさり「僕も行きたい」というので拍子抜けした。


「よかった」


楓はこの日初めて笑みがこぼれた。


映画は話題になっていた通りの大どんでん返しが見事なサスペンス映画で、スリリングな展開に最後までドキドキしながら楓は見入った。映画が終わって館内が明るくなると樹が面白かったねとシートから腰を上げ、楓もうんと頷きながら後に続いた。恋愛映画じゃなくてよかったと楓は思う。


出口に向かうとチケット売り場に並ぶ人たちは皆傘を持っていて、ガラスの扉の向こうを見れば気が滅入るような鼠色でさわさわと雨が降っていた。

霧雨よりはしっかりした雨。天気が良ければ日比谷公園あたりをぶらつけたのにと楓はがっかりする。


時間は5時前でデートを終了するにはまだ早く、かといって雨の中外に出るのも億劫で、2人は同じシネコンでもう1本映画を見ることにした。


2本目の映画は100人で踊るダンスシーンが圧巻と評判のミュージカル映画で見終わると時刻は8時を過ぎていた。


シネコンを出て言葉もないまま樹と並んで歩く。

雨は傘がいらないくらいの小さな水滴になっていて、きっと間もなく止むだろう。濡れた歩道を行き交う人も傘をさしたりささなかったりまちまちだ。楓と樹も傘を開かなかった。


樹が無言で楓の前を早足で行く。樹には映画を見る前の違和感が戻っていて、いつもなら楓は前を行く樹に追いついて腕に飛びつくのだけど、そんなことをできる雰囲気ではなかった。


2人の間にスパッと降りてきたような壁におびえながらも、楓は気づかない振りをしていたかった。理由を聞いたらそこで終わってしまうかもしれない、その心の準備が追い付かない。気づかない振りでやりすごせるなら、まだそうしていたかった。


不自然さにいたたまれなくなった楓が「映画のはしご、久しぶり。どっちも面白かったね」と明るく声をかけてみるが樹からは「うん」と短い返事が返ってきただけで会話はすぐに途切れた。


「ご飯、食べる?」と聞かれて、楓はとまどう。

「ご飯、食べる?」ではなく「なに食べる?」のはずなのに。

食べずに帰る選択肢が設けられたことなどこれまでなかった。12年間もくりかえしてきたのだ。楓が樹の変化に気づくのには十分だった。


もちろん楓は樹とご飯を食べたかったし、いつも通り食事をするつもりでいた。

うんと返事をして「樹は帰りたい?」と顔色をうかがいながら遠慮がちにたずねる。さっきと同じようにそうならないで欲しいと本心では願いながら。


「いや、話しがあるし」


「いや」でほっとして緩んだ心臓の筋肉が、次の「話しがある」ですぐにぎゅっと収縮した。やっぱり本命登場の話かと楓は雨で黒く塗れたアスファルトに視線を落とした。ずっと考え事をしているかのような樹はそんな楓に気が付かず、楓が視線を上げたときには数メートル先を歩いていた。

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