第2章 大学生 ⑮とりあえず免許をとろう
「就職おめでとう! 乾杯!」
今春から社会人になった美幸が音頭をとり、ビールグラスを皆で掲げる。4人掛けのテーブルに美幸と健夫、その正面に楓と樹が並んで座る。土曜の7時に集まった店は、初めて4人で会ったダイナーだった。ほとんどの客が中ジョッキを飲んでいて、そのほとんどのテーブルにフライドポテトやフライドチキンが乗っている。塩気濃いめの揚げ物を苦みのきいたビールの炭酸で流し込む。やめられない、とまらない、痩せられないの三拍子。そのせいかたまたまなのか、店内にいる食欲旺盛なグループ客はみな腹回りが太い。
「久しぶりね」
美幸はまず楓に笑いかけ、樹君には少し前に会ったけどねと付け加えた。
「私、営業部門で顧客開拓を担当してるの。それでウエブで効果的に広告展開する方法はないか樹君に相談したの」
樹が入社するIT関連会社は確かに多くのオンライン広告を扱う代理店のような業務も行っている。楓は「ああ、そうなんですか」と納得はした。したけど話してくれてもいいのにという気持ちも湧く。もやっする。
「なんで話してくれないのさ」と声に出したのは健夫だ。美幸と樹が2人で会っているだろうと予測し、それを仕方がないと受け入れながらもやはり気にはなるのだ。
楓も樹を見て目で尋ねたが、樹は意図を察してはくれず、楓を見つめ2回瞬きしてから正面の2人に視線を戻した。
「だってまだ就活中で忙しそうだったから」
美幸だけではなく樹にしてもいつ誰に会って何をしたかなんてことは自分から話さない。そんな必要はないと思っている人たちにどうして? と問い詰めても話がかみ合うわけもなく、楓は「仕事は面白いですか?」とたいていの人が社会人の先輩に尋ねるありきたりな質問を美幸に投げかけやりすごすことにした。
「まあね。大変だけどやりがいはあるわね」と、こちらも新米社員のデフォルト的な答えが返ってきた。しかしそう言ってグラスに視線を落とした美幸の表情はつかの間曇り、やりがいに満ちたルーキーらしさは感じられなかった。
この日の美幸はビールを飲むピッチが速く、途中からハイボールに変えて何度もお代わりをした。最初は健夫や楓の面接での失敗談や企業の感想などで盛り上がっていたが次第に美幸の仕事の話になり、そのうち愚痴になっていた。気づけば美幸はめずらしくかなり酔っていて、健夫が「もう帰ろう、送っていくよ」と言うと、「じゃあ樹君もおいれよ」と怪しい呂律で誘う。楓が「美幸さん、私は?」と聞くと、とろんと忘却の眼差しで首を傾げた。
タクシーに乗って帰っていく健夫と美幸を見送って、楓と樹は歩き出した。途中コンビニで缶ビールを買って、前と同じように少し歩いたところのモスグリーンの歩道橋を上り、橋の真ん中でビールを飲みながら下を走る車を眺めた。片側にはテールランプの赤い光が、反対側には白や黄色のヘッドライトの光が続いている。
ビールを半分くらい飲んだところで、日本ではあまり見かけない水色の大きなキャンピングカーが見えた。
「あの大きな車で一緒にどこか行くならどこがいい?」
楓は腕を伸ばして走ってくるキャンピングカーを指した。うーんと樹が考えている間にキャンピングカーは橋の下を通り過ぎていった。
「モニュメントバレーとか」
「あ、いいね」
テレビや写真でしか見たことがないけれど、突き抜けるような青空と、ごつごつとした錆色の大地に囲まれたまっすぐな道。季節は夏がいい。強烈な日差しに焼かれた皮膚を、髪を、からからに乾いた風がさらっていく。ヒリヒリした感覚が腕を撫でたような気がして楓は自分の腕に手を当てた。
「楓」と呼ばれてアメリカの広大な大地にさまよっていた意識が東京の、品川区の、歩道橋の上に戻り、楓は樹に振り向く。
「とりあえず免許を取りに行こう」
楓は笑って頷いた。
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