第2章 大学生 ⑧年越しもひとり

樹が留学すると聞いて財力と行動力のある美幸なら追いかけていくのではないかと楓は心配していたが、1年上の美幸は就活が始まっていたからだろう。さすがに人生を決める重要な時期にアメリカまで男を追いかけに行くこともできず、その心配は杞憂に終わった。


健夫は相変わらず美幸に体よくつかわれながらも変わらぬ情熱で彼女を追い求め、美幸も最近はまんざらではない様子だった。健夫と一緒にいる美幸は以前よりも楽しそうに見えた。いいなと自然と思えるくらいに。本命は諦めて、猛烈にアタックしてくれた幼馴染と結婚したというおばあちゃんの昔話を思い出した。「楓、女は愛するより愛される方が幸せなのよ」と何度も勝ち誇ったように言っていた。じゃあ男はどうなんだろう。

――ずっと好きでいてくれたら嬉しいけど――樹はあの時、そう言った。ソメイヨシノの樹の下で。本気で言ったのか、今も覚えているのかはわからないけど。


次の週末、楓は樹からの連絡を待たずに自分から電話をすることにした。呼び出し音を聞いて待つ間はいつまでたってもドキドキする。


「もしもし」と樹の声が聞こえたがまだ緊張はとけない。

「今、大丈夫だった?」

「うん。そろそろかけようかと思っていたとこ。この間はユーゴ君としか話してないし」


その言葉を聞いてようやく楓はホッとする。


「ユーゴさん、私のために電話するとか言って、りか子さんの話が出たから速攻私の存在を忘れたらしい」

「彼女ふらふらしてるから心配なんだよ」


楓は『りか子さん』についていろいろ聞きたかったがまた彼女の話で終わるのは嫌だったので話を変えた。


「もうすぐ冬休みだけど帰ってくる?」


アメリカの大学は長期休暇の間は寮も閉まってしまうので、アメリカ人の学生はほとんど帰省する。留学生も一時帰国するか、もしくはほかに泊るところを探さなくてはならない。


「ジェームスの家に泊めてもらうことにした。カリフォルニアは暖かいしジェームスがいろいろ案内してやるって張り切ってるから」

「いいなあ。じゃあUCLAでステンレスボトル買ってきて」

「まじ? なんでみんなステンレスボトルが欲しいわけ?」

「ユーゴさんに対抗して」

「2人ともAmazonで買いなよ」

「売ってるの?」

「さあ」


それから樹は大学の友達や講師や勉強のことなど、楓はユーゴの会社での仕事の話や大学の話などを話して電話を終えた。最後に冬休みは課題がないからちゃんと連絡くれるよね、と念を押そうと思ったが、押しつけがましい感じがしてやめておいた。でも、やっぱり言っておけばよかったとちょっと後悔した。冬休みは課題がない代わりにジェームスとあちこち遊びに行って忙しかったようで、樹が楓に電話をくれたのはクリスマスと正月だけだったからだ。


クリスマスのときはジェームズとファミリーまでが電話に出てきて、メリークリスマス、カエデ!と叫んでくれたが、時差で日本はもう26日の昼すぎで、部屋でぼうっとしていた楓は盛り上がりについていけなかった。


カウントダウンのときにはジェームズの家に集まった友人がかわるがわる画面に登場してカエデー、ハッピーニューイヤー!を連呼した。日本は元旦の夕方で、楓は家族と正月番組をへらへらと見ていたときだったので、やはり電話の向こうの興奮状態とはギャップがあった。樹の後ろから金髪の可愛い女の子が顔をのぞかせて楓はどきりとしたが、彼女はジェームズのガールフレンドだと聞いて安心した。


「楓、今年もよろしくね」


友達と何度も交わした挨拶なのに、樹が発する言葉は特別な色を帯びて楓の心を染めていく。10文字足らずの新年の挨拶だけで、楓は穏やかな気分で正月を過ごすことができた。


冬休みが終わり、久しぶりにキャンパス内のカフェで会った健夫にその話をすると、「日向さんてずいぶん省エネタイプだね。こっちも冬休みだったんだから会いに行けばよかったのに」とさらっと言って、白い湯気がもわもわしている熱そうなココアを健夫はそうっとすすった。


「そんなお金ないもの。それにせっかく向こうの友達と一緒に過ごしているのに邪魔したら悪いし」

「省エネの上に控えめだなあ。美幸さんなんて押しかけようとしてたっていうのに」

「えっ!」やっぱりそうだったのか。

「でもライン送ったら友達のところに行くから駄目だと拒否されたって怒ってた。場所も教えてもらえなかったから押しかけることもできないって。よかったね」

「よかったねって他人事のように言うけど、健夫君だって心配だったでしょ。美幸さんの彼氏でしょ」

「その地位にはまだついてないみたいだよ。まだまだ樹君には勝てないわけだよ。あーあ、樹君、サウジとかアフリカの秘境とか、もっと遠くにもっと長く行っちゃってくれたらよかったのに」

「やめてよ、私はどうなるのよ。そんな他力本願じゃなくて健夫君が美幸さんをがっしり捕まえてよ」

「できるものならしてるってば。彼女に対する俺の努力、知っているでしょ」

知っている。そしていくら懸命に追いかけても相手の心に届かないことがあるということも。追いかける熱量と振り向いてもらえる確率が比例すればいいのだけれど生憎そうはいかない。それどころか追えば追うほど逃げる、なんて無慈悲な恋愛の法則だってある。追えば逃げる――そうか――。


楓は閃く。


「いっそ、そっけなくしてみたらどう?」


手の中にあったカップを下ろし、健夫が上目遣いで楓を見た。


「なんで」

「押してダメなら引いてみろっていうじゃない」


プライドが高い美幸には、意外とこの伝統的な方法が上手くはまるかもしれないと考えたわけだ。


「それうまくいくと思う? リスキーじゃない?」

「どうせ切羽詰まってるんだからノーリスクでしょ。ダメならまた押せばいいじゃない」

「日向さん、他人事だと強気だね」

「うん。他人事はノーリスクだし」


健夫が腕を組み、唇をキュッと結び黙考する。講義中でもめったに見せることのない集中した面持ちだ。近くの席で談笑していた学生のカップルが勢いよく立ち上がる。がたんと大げさな音が響きわたり、それを合図に健夫ばちッと目を見開いて楓を見た。


「ありかもしれない」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る