〇第一章 同い年の妹が旅行に行きたい理由(4)
◇◇◇
「ただいまー」
数日後。
放課後に山梨旅行に必要な物を買って帰宅すると、玄関には先に帰っていた栞がいた。
「「あっ」」
目が合った瞬間、お互いに声を出してしまう。
それから微妙な空気に……。
「……おかえり」
「お、おう。ただいま」
それだけ言葉を交わすと、栞は逃げるように二階に上がっていった。
ここ数日間、こんな風に気まずい状態が続いている。
彼女の頼みを断ってから、最低限のやり取り以外まともな会話ができていないんだけど……毎日これだとさすがにキツイな。世の中の喧嘩した後の兄妹の気持ちが少しわかる気がした。俺と栞は別に喧嘩したわけじゃないけど。
「あら海人さん、おかえりなさい」
頭を悩ませていると、リビングの方から京香さんが出てきた。
「京香さん、ただいまです。民宿はどうしたんですか?」
「今日は休業日にしました。働き詰めは良くないと思いまして」
京香さんの話によると、午前中は夫婦でデートをして、午後はゆっくり休んでいるのだとか。父さんも今は寝室で眠っているらしい。
確かに民宿を始めてから、父さんも京香さんも一度も休んでないからな。
「それよりも、ひょっとして栞が何かしてしまいましたか?」
「えっ、そんなことないですけど……」
「そうですか? ここ最近、海人さんと栞の様子がおかしいから気になってしまって……」
京香さんは心配そうな表情を浮かべる。さすがに気づかれてたか。
このまま京香さんを不安にさせるのは良くないけど、今まで兄妹なんていなかった俺は解決方法がわからないわけで……。
「すみません、海人さん」
「あっ、はい、なんですか?」
「栞に渡してきて欲しいものがあるのですが、あの子の部屋まで届けてくれませんか?」
「……それ、俺が行くべきですか?」
「私は日頃の疲れで今すぐにでも寝ないと倒れちゃうかもしれません。頼めませんか?」
少しいたずらっぽい笑みを浮かべている京香さん。強引に俺と栞の仲を修復させようとしてるって丸わかりだ。……でも、京香さんなりに何とかしようとしてくれているんだろうし、逆らうわけにはいかないよな。
「わかりました。俺が渡してきますよ」
「ありがとうございます。あっ、いくら義理の妹だからといって襲ったりしちゃいけませんよ?」
「っ!? そ、そんなことしませんよ!」
俺が声を大にして主張すると、京香さんはクスクスと笑った。
まったく、こういうやり取りは父さんとしてくれませんかね。
「渡したいものってこれかよ……」
俺は京香さんから頼まれたものを持って、二階の栞の部屋の前に立っている。
それで頼まれたものだが、なぜか大仏のぬいぐるみだった。しかも超ヘンテコな顔をしている。父さんとのデート中に買ってきたらしく、俺の分も渡されて、それは自分の部屋に置いてきた。京香さん曰く、栞は大仏が大好きらしい。
高校生で大仏好きって、随分と渋いなぁ……。
「栞、その……京香さんに頼まれて来たんだけど、ちょっと出てこれるか?」
部屋の前で訊ねる……が、返事はない。
ひょっとして無視されてる?
「おーい、いるか~? 栞さん、いますか~?」
何回か呼んでみるが、やはり何も返ってこない。
もしかして俺、すげぇ嫌われてるのかな? だとしたら、さすがにショックだけど……。
もしくはイヤホンで音楽聞いてるとか、寝ちゃってるとか……。
ズドンッ!
不意に何かが落ちたような音が響いた。栞の部屋からだ。
「おい、いま結構大きな音が聞こえたけど大丈夫か?」
慌てて訊くが、まだ言葉は返ってこない。
おいおい、本当に大丈夫か。けど、女子の部屋に勝手に入るっていうのも……。
いや、もしものことがあったら、そっちの方が大変だろ!
「栞、入るぞ!」
急いで扉を開けて、栞の部屋に入る。
すぐに目に入ってきたのは可愛らしい模様の桃色ベッド、その上には栞が眠っていた。
ついでに彼女の傍には、ヘンテコ顔の大仏のぬいぐるみが仲良く五体座っている。
「……なんだ、寝てたのか」
ひとまず、彼女に大事がなくて安堵する。
さっきは無視してたわけじゃなかったみたいだ。
じゃあさっきの大きな音は……。
辺りを見回すと、床に開かれたままの分厚い本が落ちていた。
結構重そうだし、音の正体はこの本で間違いない。栞の腕がだらんとベッドからはみ出していて、おそらくこの本を読みながら寝落ちしてしまったんだろう。
「こんな分厚い本、あいつ一体何を読んでたんだ?」
落ちていた本を拾ってみると、開きっぱなしのページには綺麗な夜景の写真が貼られていた。加えて、その夜景を見た時の気持ちがぎっしりと書き込まれている。
この夜景、よく観光サイトで見るから知ってるぞ。北海道の函館山の夜景だ。
でも栞って、今まで一度も旅行に行ったことないんじゃ……。
表紙を見てみると、そこには直筆で〝旅日記〟と書かれていて、名前を記載する箇所には〝
もしかしてこの本、栞の父親のものか?
「……ん、んん」
ベッドの方で栞がもぞもぞとし出した。
勝手に部屋に入っているのがバレたら大変だ。それに彼女の父親の旅日記も少し読んじゃってるし……とにかく、さっさと部屋から出ないと!
まず俺は日記をベッドの上に置こうとする。床に置き直すと栞に悪い気がするし、他の場所に置いたら後で誰かが部屋に入ったって疑われそうだしな。
俺はベッドの方に近づいていく。
すると──彼女の瞳からは涙が流れていた。
「っ!?」
予想外の出来事に驚くと、その拍子に俺は何もないところで躓いてしまう。
直後、勢いよく栞の上に倒れそうになる──が、ベッドの上に手を置いてギリギリのところで踏みとどまった。おかげで、俺と彼女の間には数センチくらいしかない。
あ、危ねぇ……。もう少しで大事件になるところだった。
だけど、結果的にはギリギリセーフ。
「か、海人くん、な、なな何してるの……?」
と思っていたけど、目の前には完全に起きちゃってる栞がいた。
……こいつ、なんてタイミングで目を覚ますんだ。
「落ち着け、栞。これは誤解なんだ」
「ご、誤解って、きょ、許可もなく私の部屋に入って……べ、ベッドに潜り込んで……」
「ちょっと待て。潜り込んではないだろ」
何とか弁明をしようとするが、栞は全く聞かず、それどころかどんどん顔が赤くなっていって──。
「……な」
「な? ってなんだ?」
そう訊ねた瞬間、いきなり栞に突き飛ばされた。
「いでっ!?」
そのせいで、俺はベッドから盛大に転げ落ちる。
「なまら恥ずかしいべさ~!」
林檎色の頬に両手を当てながら、栞は部屋から飛び出していった。
……今のって、北海道弁?
「海人さん、いま栞が顔を真っ赤にして出て行ったのですが、ひょっとして本当に襲ってしまったのですか?」
ひょっこりと出てきたのは京香さんだ。
「誤解ですって。ちょっと色々ありましたけど、断じて襲ったりなんかしていません」
「くすっ、冗談ですよ」
小さく笑ったあと、京香さんの視線があるところに止まる。
視線を追ってみると、その先には俺が手に持ったままの旅日記。
「それは栞の部屋に?」
「えっ……は、はい」
「そうですか。……あの子、まだ持っていたのですね」
京香さんは少し困ったような、でも喜んでいるような、そんな表情を浮かべていた。
「これって、栞のお父さんの日記ですよね?」
「えぇ。明人さんは旅がとても好きで旅先から帰ってくると必ず日記を書いていました」
「その……栞のお父さんが旅好きだったことは、栞から聞いています。あとお父さんの影響を受けて彼女が旅行をしたがっていることも」
登別の旅館──『凪の家』に泊まった時に、栞が教えてくれたことだ。
ちなみに、俺と栞が『凪の家』で知り合ったことは京香さんたちに話している。
初めは父さんも京香さんも驚いていたが、それなら新しい家族になっても上手くいきそうだと喜んだ。……全然上手くいってない気がするけどな。
「あら、そうなのですか。……では、日記のことも聞いていますか?」
「? なんのことですか?」
旅好きが書いてる普通の日記じゃないのか?
そんなことを考えていたら、京香さんは丁寧に話してくれた。
「栞は明人さんがどんな場所に行って、どんな景色を見て、どんな気持ちになったのかを知るために──言ってしまうと、実際に明人さんがどんな旅をしてきたのかを知るために、彼の日記に書かれたところに行きたがっているのです」
「自分の父親がどんな旅をしてきたかを知るため……?」
初耳だった。栞が旅行に行きたい理由は、単純に父親の旅の話を聞いて行きたくなったからだと思っていたし『凪の家』で話した時、本人もそう言っていた。
「栞は旅館で働いていた時も、いつもその日記を読んでいました。ですが知っての通り、若女将としてのお仕事が忙しく、とても旅行に行く時間なんてなかったのです」
その後、京香さんは父さんとの再婚が決まると、すぐに『凪の家』の経営を親戚に任せて東京に引っ越してくることに決めたらしい。
それは父さんや俺にわざわざ北国まで来てもらうのは申し訳ないからと、もう一つは栞と一緒に家族旅行に行く時間を作るためだ。
しかし、京香さんが栞に再婚のことを伝えて、これからは一緒に父親の旅日記に書かれている場所を巡ろうと伝えると、栞は「お母さんの夢を叶えて!」と言ってきたらしい。
栞は、京香さんが民宿をやりたがっていて、そのために貯金をしていたことも知っていたみたいだ。
「栞のことを手伝おうとしていたのですが、逆に私の夢を応援されてしまいました」
何度同じことを言っても、栞は「お母さんには夢を叶えて欲しい!」の一点張り。
結局、娘に背中を押された京香さんは、父さんと一緒に民宿を始めることにしたのだ。
「ですから、私はこっちでは栞を働かせないようにしているのです。あの子には自分がやりたいことをして欲しいので」
「何日か前に、栞が働かせてくれないって嘆いてましたね」
「……ほんとおバカさんですね。あの子は」
そう言う京香さんは、穏やかな笑みを浮かべていた。
きっと栞も京香さんも、お互いのことが大好きなんだろうな。
「私としては、栞には好きなように楽しい旅行をして欲しいのですが……」
困ったように呟く京香さん。
栞のやつ、自分のことよりも母親の夢を優先したのか……。全然知らなかった。
俺は手に持っている旅日記に視線を移す。
栞が俺の旅行に連れて行って欲しいって頼んできた時から思っていたことだけど、何となく彼女は俺と一緒に旅行に行くことにこだわっているように感じる。
クラスメイトと一緒に旅行に行っても意味ないとか言ってたし。
この日記を見たら、彼女が俺との旅行にこだわっている理由がわかるんじゃないか。
そして、その理由次第では、俺は一度断った彼女の頼みをもう一度考え直した方がいいのかもしれない。
「あの、京香さんに訊くのも違うと思うんですけど、この日記少し借りてもいいですか?」
「日記を? その……何に使うのですか?」
若干不安そうに訊き返す京香さん。
当然だ。言わば、旅日記は栞の父親の形見みたいなものだからな。
「ちょっと読むだけなんですけどダメですか? 栞が帰ってくる前に必ず戻しておくので」
それに京香さんは顎に指を添えて、少し考える仕草を見せる。
「……わかりました。読むだけならいいですよ」
「ありがとうございます」
感謝したあと、俺は旅日記を持ったまま栞の部屋を出た。
「これすげぇな」
自室の椅子に座って旅日記を読み進めながら、俺は思わず言葉を漏らした。
分厚い本の一ページ一ページに、宝石のように輝くエメラルドグリーンの海や雪化粧された巨大な山々等、日本中どころか世界各地の美しい景色の写真が貼られており、余白の部分には旅先での出来事についてぎっしりと書かれている。
これを読めば、栞の父親がどれだけ旅行が好きだったか一目瞭然だ。
「確かに、この日記を読んだらどこかに旅行したくなるよな」
旅日記には、一つ一つの観光地の魅力が十分に詰まっている。
たぶん栞の父親は、旅の良さを誰かに伝えるのが上手い人なんだと思う。
だからきっと栞も父親の話を聞いて、旅行に行きたくなったんだろう。
……でも、あいつが旅行に行きたい理由はそれだけじゃないんだよな。
先ほど京香さんが言っていたことを思い出す。
栞は今はもういない父親がどんな旅をしてきたかを知るために、旅行に行きたがっている。
栞の頼みを断った時、俺がクラスメイトと旅行に行けばいいって言ったら、彼女はそれだと意味がないと返したけど、その言葉の真意がようやくわかった。
栞の父親の旅日記には、数えきれないくらいの観光地が記されている。
それを全てとまではいかなくても、なるべく多く巡っていくにはかなりのペースで旅行に行く必要があるだろう。友達とたまに旅行に行く程度だと、全然足りない。
それに旅行に慣れていない人より慣れている人と一緒の方が、栞の父親がどんな気持ちで旅をしていたのか、よりわかるかもしれない。
だから栞は旅行の回数が多くて経験値もある俺に、一緒に旅行に行きたいと言ってきたんだ。
「父親の旅を知るために旅をしたい、か」
母さんとの約束を果たすために旅行をしている俺からすると、栞の気持ちはよくわかる。
彼女がどれだけ旅行をしたいと思っているのかも。
「よいしょっと」
俺は立ち上がると、いつも使っている旅行用のリュックから一冊の本を取り出す。
それは放課後に買った山梨県のガイドブックだった。
「富士山はまた今度にするか」
その本を本棚に戻すと、俺はもう少しだけ栞の父親の旅日記を読むことにした。
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