第5戦【ナルシストな男】
総一郎の朝は早い。数学の宿題に全く手をつけていないことに気づいたのは、昨夜の24時頃だった。
その時は眠気が勝ち、朝起きてからやればいいやとベッドへ身を投げた。そして結局、早起きして問題を解いているのだから、総一郎の根の生真面目さが分かる。
(いや、そもそもなんで俺は必死にこんなことやってんだ? 高校生活より配信が大事だって言って飛び出してきたんだ。学校なんて、明日辞めてやってもいい。それを俺は宿題なんかに真面目に取り組んで……)
配信を選んで高校を辞めたハズが、このざまだ。段々と数学の問題に向き合うのがバカらしくなってきた。残るは数ページ。身支度の時間を逆算しても、まだ余裕はある。
(……また笑い物にされるのも癪だな。一応全部終わらせておくか、分からねえところは空欄だ、仕方ない)
最低限の寝癖を直して、洗面台でコンタクトを入れる。昔からゲームばかりしているせいか、総一郎はかなりの強度近視だ。ネクタイの位置を整えると、リュックに問題集を放り込んで家を飛び出した。
橘高校の正門前。春は桜が並んで綺麗なのだろうが、すっかり緑に染まっている。
生徒の渦に紛れて、見覚えのある顔が1人。
(うげっ、アイツは!)
目を合わせまいと咄嗟に視線を逸らしたのが逆に目立ってしまったのか、相手は小走りで駆け寄ってきた。コンビニの店員改め、橘高校3年、秋月楓だ。
「よっ!こんなところでお姉さんに会うなんて奇遇だねえ?」
「なんだ、あんたもココの生徒かよ。ということは3年か」
「そう、ご名答。偉いね~」
「はぁ……。俺と1つしか歳が違わないのに、よくそこまで過剰にお姉さんぶれるな」
「キミの精神年齢が幼いからね。お姉さんのこと、いっぱい敬うんだぞ~?」
「どの口が言ってるんだか。あんたと喋ってると疲れ……イテッ!」
やれやれ、と総一郎が心底呆れていると、突然楓に頭を小突かれた。
何事かと彼女の方を見ると、頬を膨らませて顔をしかめている。
「あんたって言うの禁止って言ったでしょ?」
「すいません、アキツキさんッ……」
楓と別れた総一郎は2年1組を目指すのだが、どうも今日は校内の様子がおかしい。男子が浮かれているのか、落ち着きがなくどうもやかましい。
喧騒の原因を知るべく探りを入れようとしていたところに、おあつらえ向きに向こうから使者がやってきた。
「やあ、おはよう財津くん。君には感謝しているよ」
突然総一郎に礼を述べたこの男。いかにも胡散臭い、貼り付けたような爽やかな笑顔と咽頭の奥底からひり出してきたようなネットリした声が特徴的だが、悪い奴ではなさそうだ。
「はぁ……。感謝されるようなことをした覚えはないけど。てか、あんた誰だよ」
「おおっと、すまない名乗るのが遅れたね。僕の名は前田 光。この橘高校のベストオブイケメン、またの名を橘のプリンス。財津くんと同じ2年1組だ、よろしく」
「な、なるほど」
東京に越してきてから強烈な個性の人種としか会っていないが、コイツは中でも別格だ。あまりに強すぎる個性に総一郎もたじたじ、を超えてドン引きしている。
「財津くん、君のおかげで涌井さんの顔をまた拝むことができた。なんとお礼を言っていいのか」
「涌井……ああ、あの図々しいゲーム女子か。アイツがどうかしたのか?」
「そうか、君は知らないのか。2年の涌井蓮花、そして3年の秋月楓。この2人は橘高校が誇る美女の双璧だ。特に涌井さんは絶大な人気があるんだが、最近は不登校気味だったんだよ」
(てか、あのコンビニ店員もかよ。確かに顔は整っているがなぁ。しかし美女の双璧の両方と転校初日から関わるなんざ今どきラブコメの小説でもそうないぞ)
総一郎は現在、他の男子生徒からすれば喉から千手観音が出るほど羨ましいポジションだ。だが物欲センサーとは凄いもので、当の彼の優先度は完全に配信>恋愛であるから、仲良くなりたいとか、ましてや付き合いたいなどという感情は全くなかった。
そういえば昨日、確かに彼女が明日は学校に来るというようなことを言っていた、と思いだした。
「アイツ、今日は来てるのか?」
「ああ、来ている。どういう風の吹き回しか理由は分からないがね。だけど昨日、涌井さんと君が並んでゲームしていたという目撃情報を聞いたよ。きっと財津くんがなにか彼女にアドバイスしてくれたんだろう?」
「いや、俺は別になにも」
前田という男と並んで歩いていると、いつの間にか1組の教室まで辿り着いた。
すると教室には既に大勢の男子がひとめ涌井蓮花を拝もうと結集しており、隣のクラスにまでわたる長蛇の列が形成されていた。
それは2年生だけにとどまらず、上級生や下級生も例外ではない。群衆を掻き分けてなんとか自分の席にまで到達したが、その規格外の人気っぷりに総一郎は度肝を抜かれた。
「多分あそこに座っているんだろうけど、男子に囲まれ過ぎてよく見えないね。全く、ガツガツしている男子というのは実にむさくるしいよ。ねえ、財津くん?」
「あんたは想いを伝えに行かなくていいのか?ま、あの様子じゃ声すら届かないか」
「真に女性から好かれるのは余裕のある男だ。騒ぎが落ち着いてひと段落したところで、じっくり愛を伝えるとするよ。疲弊しきった彼女は僕の優しさにイチコロさ」
「はぁ……。その、応援してます」
さてどんな顔で応対しているのかと彼女がいるとされる方向に視線を遣るが、興奮しながら好意を訴え続ける男子しか目に入らない。蓮花は勿論、鉄仮面並びに他の生徒も鬱陶しそうにその男子の群衆を蔑んだ目で見ている。
するといよいよ堪忍袋の緒が切れたのか、ピシャリと落雷のような怒号が響いた。
「本当に鬱陶しいわね!退きなさい、トイレまでついてくるつもり!?いい加減にしなさいよアンタたち!」
蓮花の声は脳内にそのまま入り込んでくるかの如くよく通る。
時が止まったのかと錯覚してしまうほど、一変して沈黙に包まれた教室に、蓮花の声がこだまする。
モーセの神話さながらに男子の群衆は蓮花の為にパッタリ道を開け、彼女はその真ん中を堂々と闊歩する。両脇の男子たちには目もくれず、髪を指で梳かしながら歩く様は女王様よろしく、同性であっても惚れ惚れしてしまう格好良さがあった。
「バカな奴等だよ。アレで涌井さんが気分を害してまた学校に来なくなってしまったらどうしてくれるっていうんだ!」
総一郎の隣で憤慨する前田。彼女はトイレに行くと言って教室を出ていったが、確かに戻ってくるのか心配だ。
「人気者っていうのも大変だな」
ポロッと総一郎の口から出た言葉だが、決して他人事でないことに気付いてからは心持ち穏やかじゃない。
(そうだ、登録者10万人の配信者だってバレた暁には、俺だってタダじゃ済まないだろうな。野次馬に追われる生活なんざ想像するだけでごめんだ、登校したくない気分も分かるぜ)
ホームルームのチャイムが鳴り、集まっていた野次馬の波はサァーッと引き返していく。前田はなぜか謎のウィンクを総一郎に投げかけて、自分の席に戻っていった。彼の席は総一郎とは対極、教室の最前列の1番右だ。ちなみに蓮花の席はちょうど教室の中心に位置する。
総一郎の隣で、瑞樹は先の騒動にも動じることなくスマホの画面に食らいついていた。
総一郎は、数学の宿題を命じられた通りきちんと仕上げてきたことを誰かに伝えたかった。そして褒めてほしかった。勉強とは縁遠い生活を送ってきた彼が、少ない時間を縫って、それも早起きしてまで取り組んできたのだ。彼としては、革命でも成し遂げたような達成感がある。
それを、なにを血迷ったのか隣の鉄仮面に褒めてもらおうとしたのだ。
「おい、これ見てくれよ。ちゃんと数学の宿題やってきたんだぜ」
大袈裟に問題集を開いて瑞樹の気を引く。彼女は横目でチラッと問題集に目をやると、いつもの淡々とした口調で一蹴した。
「宿題はやってくるのが当たり前ですが?」
「言うねぇ。そんなに俺と喧嘩したいか?」
「いいえ、したくありません。時間も体力も、口内の水分さえ無駄です」
彼女は黒髪を揺らしながらブンブンと首を横に振って必死に否定する。
「……ですが、」
「なんだよ」
「真面目な人は好感が持てます」
急に拍子抜けなセリフに呆気に取られていると、瑞樹も照れ臭くなったのか目を合わせてくれなくなった。
「まっ、こっこれからは私に頼らないようにちゃんと授業を聞くことですね!」
「それは心配ご無用。お前に教えてもらうくらいなら、喜んで先生に怒られることにしたわ」
「んなっ!財津くん、あなたには何があっても絶っっっ対に勉強なんて教えてあげません!期末テストで泣きついてきても知りませんからね!」
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