急に決まったことなんだけどと前置きされて、お蓉が月臣に告げられたのは、薄雲一座の解散の話であった。

「皆さんはどこへ……」

「さあな。皆、好きなところに落ち着くだろう。俺も影も、どこに行くのかは、決めていない。で、あんたはどうする?」

 このままでは江戸で一人、放り出されることになる。かといって、江戸を離れたいとも、離れたくないとも思えない。

わずらわしいことは考えずに、新しい自分として生きていきたいなら、俺たちについてくるといい。でも、江戸に残りたいなら残れ。後悔しないようにお前が決めるんだ」

 旅一座にいたお蓉が、江戸に頼れる人がいるわけもない。かといって、記憶を失くしたままでは、月臣たちを頼れる人とも言い難い。でも記憶をなくす前は知人であったのだから、月臣を頼ればいいとも思えるが、いつ子と環游は江戸を離れないと聞いて、寂しいとも感じてしまう。

 すぐには、結論の出ない選択だった。

「悪いけど影を呼んできてくれ。話があるんだ」

「はい」

 お蓉は言われた通り影臣を探したのだが、楽屋にはいなかった。外出してしまったのかもしれないと思いながら、再び舞台裏に戻り、影臣の名前を呼んでみると……

「こっちだ」

 影臣の声が聞こえた。が、辺りをよく見ても、どこにもいない。

「上だ、上」

 あ、とうたが見上げた先は、公演のときに月臣と影臣が軽業を披露しながら飛び降りる、高台である。

 影臣はずっと高台にいたのだが、お蓉が探していたのは自分の背の高さのところまでで、上には意識が届いていなかった。

「登ってこいよ」

 てっきり嫌われていると思っていたが、影臣が自分の元に来いと言う。それが揶揄からかう調子でもなかったので、意外だった。

 しかし、用があるのはお蓉の方である。だが、影臣が降りてくる様子もなさそうなのと、高台に登ってみたいという好奇心から、お蓉は梯子はしごに手をかけた。

「…………」

 登り終えて影臣の近くに行くと、想像以上の恐怖に言葉が出なくなる。

 影臣に恐いのかと問われて、お蓉は素直にうなずいた。

「俺もはじめは恐かった。だけど兄貴が一緒に飛んでくれたから」

 復讐に囚われた巫女に呪いの言葉をかけられ、ここから落下したのは影臣である。そんな芸当をする影臣でさえ恐怖があったのだ。

 少しでも体制を崩してしまえば、落ちやしないかとお蓉は冷や冷やしながら言った。

「座長が呼んでいます。お話があるとか……」

「そう……」

 気乗りしない様子で、影臣は答えた。

「食う?」

 そう言って影臣がお蓉に差し出したのは、よもぎ餅だった。

 何と高台には小さい引き出しが備え付けられていて、その中によもぎ餅が数個入っている。前屈みになって引き出しを開ける様は、お蓉から見れば心臓が止まりそうな思いがした。

「いただきます」

 やはり影臣は今日に限って、よほど気分がいいのだろうか。普段なら、よもぎ餅をくれるところなど、想像もできない。

 素直によもぎ餅をもらったことはうれしかったが、お蓉は高所で恐怖を味わいながら、食べる気持ちにはなれなかった。お蓉はよもぎ餅を片手に、ぽつりとつぶやく。

「私は……影臣さんのことも、座長のことも覚えていない。でも江戸には頼れる人がいないから、一緒に付いて行くと言ったら、影臣さんは嫌じゃありませんか?」

「お前が本当に江戸を離れてもいいと思うなら、俺は嫌じゃないよ」

 影臣もまた、お蓉本人に判断をゆだねようとした。影臣に身のふりを決めてほしかったわけではないが、決断は出ないままである。

「……今まで辛く当たって悪かったな。やっと、兄貴の気持ちがわかったんだ」

「…………」

 影臣が何を考えているのかはわからない。けれど、謝意は本物であった。

「兄貴が呼んでるんだろ。戻ろうぜ」

 ゆっくりでいいからよと言われ、お蓉は慎重に梯子までの位置に戻ることに集中した。慣れている影臣にしたらもどかしい時間なのだろう。梯子まで着いて、お蓉が一息をついたときだった。

 何かが落ちたような、すさまじい音がした。それも近くで。

 お蓉は振り返って、影臣に尋ねようとした。

「……影臣さん?」

 高台から梯子までは一方通行で、影臣が先に戻ったとは考えられない。

 もしかしたら、影臣はお蓉の遅い動きに耐えかねて、舞台のときのように、ここから飛び降りたのではないかと考える。だが、舞台のときには落下する箇所に落ちても大丈夫なようにと、皆が支えていた敷布はすでに片付けてしまったはずだ。

 まさかと思いながら、お蓉が下を覗き込むと、暗がりで良くは見えないが人が倒れているのが見えた。

「影臣さん!」

 お蓉は急いで梯子を下りた。

「影……!しっかりしろ!影!」

 衝撃音に気づいてだろう、お蓉よりも先に、幾人かが倒れている人物の元に集まっている。

 嘘だと言ってほしい。だって影臣は先ほどまで、一緒に話していたのだ。

「影……!!」

 涙の混じった月臣の叫びが、影臣の末路を物語っていた。


 環游が月臣と話す兵馬と須磨、それに織本を見張っていると、何かが叩きつけられたような大きい音が聞こえた。月臣たちも気づいて、駆けてみると……

「影が誤って転落するはずはない!」

 影臣は頭を床に叩きつけられ、即死のようだ。遺体は部屋に運び出されて安置されているが、影臣が転落した場所には、生々しく血痕が飛び散っている。

 落下する直前まで影臣と話していたというお蓉が顔を覆って泣くのを、環游がなだめていた。

(早く、旦那を呼ばないと……)

 環游がこそりとその場を抜け出そうとすれば……

「まだここにいてもらいますよ」

 完全に背中を向けているはずの兵馬が鋭い声で言った。

 彼も町方同心だが、須磨とつるんでいるような怪しい人物に、指図はされたくない。けれど、正直に仁助が近くにいるからとも言えず、環游は留まるほかなかった。

「では、落下する直前の状況を話してもらいましょうか」

 兵馬がお蓉に向き直って言った。まだ涙の止まらないお蓉に、思いやりのない人だと、環游は軽く兵馬をにらむ。

「わかりません……一緒に話していて、戻ろうとしたら、影臣さんは落ちていたんです」

「ということは、落ちたところは見ていなかった」

 兵馬は少し考え込む素振りをして、冷徹に言い放った。

「ならば犯人は、お蓉しかあり得ませんね」

「あんた、何言って……」

「影臣が事故で転落するはずはないとは、貴方が言ったことでしょう。日頃、影臣はお蓉に辛く当たっているとも、前に言っていましたよね」

「だけど……」

 月臣の声など聞かず、兵馬はお蓉の手をつかんで、捕らえようとした。

「日頃から影臣を恨んでいた貴方が、彼が好物を食べている隙にといったところでしょうか」

 影臣のことを恨んでなどいなかったという反論はできなかった。腕をつかまれる兵馬の力が強く、へし折られそうな痛みに耐えるのが精一杯だ。

 見かねた環游が入るよりも、織本の方が早かった。

 無言で兵馬の手を離し、今にも殺しそうなほどの敵意を向ける織本は恐ろしいが、兵馬はいたって冷静である。

「私としては事故でも構わない。ただし、それでは月臣が納得しないでしょう」

「俺は無実の人間を捕まえてほしいとは思っていない」

「ならばあと一日だけ、お蓉を捕まえるのを待ってあげます。それまでに真犯人を見つけることですね。本当にいればの話ですが……」

 幸いに月臣がお蓉の無実を信じていても、町方の兵馬がお蓉を捕まえる気があるのでは、かなりの窮地である。影臣が落下したとき、近くにはお蓉しかいなかった。事故でなければ、お蓉が犯人と思われても、おかしくはないのだ。

 その後、兵馬と須磨、織本は芝居小屋を後にして、残された一座の者は、影臣の死をいたみながら捜索にあたった。

 いつ子も環游も、お蓉が犯人呼ばわりされたことに立腹していて、あとから来た仁助もまた、とんだことになったと兵馬への腹立たしさもあったが、気になることもあった。

(西崎さんの推量にしては穴が多い……)

 状況からはお蓉の疑いは晴れないが、犯人という決め手はない。徹底して犯人を追い詰める敏腕の同心にしては、浅はかだとも感じいた。

 とにもかくにも、まずはお蓉と影臣がいた高台を捜索しようと、仁助が舞台に向かうと、今まさに梯子を登っているお蓉の姿が見えた。

 仁助は思わず、

「うた!」

 と叫んでしまい、声に反応したお蓉は、足をすべらせた。

 三分の一を登った程度、お蓉が下に落ちそうになって、迷わず仁助は駆けた。

 お蓉は落ちる瞬間、椿の花を見た。

 どんと、影臣が落下したときほどではないが、激しい音を立ててお蓉は落下した。彼女が無傷だったのは、仁助が下敷きになったからである。

「…………っ」

 背中から落ちたお蓉は、わずかな痛みは感じたものの、自分が無事だということがすぐにわかった。大量の椿の花と共に落ちてゆくのを感じたはずなのに、起き上がって見ても、どこにも椿なぞは落ちていなかった。そもそも今の季節の花ではない。

 幻覚、だったのだろうか……

 半ば呆然ぼうぜんと座り込んでいると、微かなうめき声が聞こえた。

 後ろを見て、お蓉は今さらながら、誰かが下敷きになってくれたことを理解した。

「ごめんなさい……!大丈夫ですか?」

 下敷きになってくれた人物は、以前、いつ子たちと一座にやって来て、お蓉をうたと間違えた役人である。彼はまだ間違っているようで、うたと呼んでいるが、お蓉が反応したのも事実だ。

「……て」

「……?」

「どいてくれ……」

「あっ……」

 お蓉は俊敏しゅんびんな動きで、仁助にまたがっていた足をどけた。衝撃を支えてくれたうえに、重くしかかってしまったことをお蓉は申し訳ないと思っているが、仁助はお蓉がぶつかったときは痛かったものの、どけと言ったのは、お蓉が懸念しているような理由ではない。

 久しぶりに間近で彼女を見て、離れていた分もあってか、とても心が平静ではいられなかったのだ。

「どうして登ろうと思ったんだ」

 黙っていれば彼女のことばかり考えてしまうと、居住まいを正した仁助が尋ねてみたのだが……

「…………」

 お蓉は話そうとはしてくれなかった。

 先ほどまで高鳴っていた胸は、彼女に心を閉ざされているのを知って、急速にしぼんでいった。

「辛いだろうが、影臣と話していたときのことを教えてくれ」

「…………」

 これにもお蓉はだんまりであった。

 仁助が聞いたのは人伝ひとづての内容だったので、直接お蓉から聞きたかったのだが、どうも話してはくれないようだ。無理に尋ねたところで、余計に心を閉ざされるだけと、仁助はあきらめる。

 一緒に事件の捜査をしたことがあったなど、夢幻のようだ。

かれ、か……」

 築き上げた関係性が、他人に戻ってしまったことを痛感する。

 そうだとしても、仁助の気持ちに変わりはない。事は一刻を争う事態だ。お蓉から何も話が聞けなかった仁助は、高台に登り、一通り調べてから月臣の元に向かったのだが……

「どこに行ったんだ……」

 弟の側を離れてまで月臣が外出したことが気になり、仁助は彼を追ったのだった。


 お蓉という名前らしい。けれど、仁助にうたと呼ばれて、身体が反応してしまった。

 それだけではない。仁助の近くにいると、何かを思い出せそうなもどかしさに駆られる。

 お蓉は仁助がいなくなった後で、高台に登るための梯子に手をかけた。高台を目指したのは、影臣との記憶にひたりたかったわけではない。高台に、がいるのを見たからだ。

「影臣さん……」

 彼は死んだはず……ならば高台に座る彼は、何者なのだろうか。

 何も思い出せないまま、さよならも言えなかった人。二度と会えないはずの彼を前にして、お蓉は自身の目に映る存在を理解した。

「よもぎ餅は食うなよ」

 彼はそれだけを言って、煙のように消えてしまった。

(早く、伝えなきゃ……)

 ふと高台を見たら、死んだはずの影臣が見えて高台に登ろうとしたとは、仁助に尋ねられたときに言えなかった。そもそも信じてはくれないだろうし、信じてくれたとして、気味が悪いと恐れられるのではないかと、怖くて言えなかった。彼に嫌われることを、ひどく恐れてしまったのだ。

 でも今なら、何も怖くない。

 うたはすぐに、仁助の後を追った。

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