藤壺屋で代替わりの宴があった翌日、巴屋には江戸から来た南町奉行所同心の神山仁助と御用聞きの伝吉が訪れていた。

 巴屋は先代、京太郎の父が興した醬油問屋である。家族は他に、京太郎の一人息子の万太郎のみ、妻は万太郎を産んですぐに亡くなっているそうだ。

 番頭の門次が殺害されたことは、すでに巴屋の主人である京太郎に知らせが届いている。旅籠はたごの主人が言っていたように、京太郎には微かな動揺はありつつも、嘆き哀しんでいるという様子ではなかった。

「江戸をつ前日は、門次と別れた後は浅草でお寺社に詣でたり、芝居を観に行っておりました。旅籠に帰ってきたのは、夕餉ゆうげを食べてからで……」

 京太郎の答えは、旅籠の主人の証言と齟齬そごはないようだ。

 参詣客やらで賑わっている浅草にいたとなれば、その日に京太郎がいたことを証明するのは難しいだろう。夕餉を食べたという料理屋も、覚えているかどうかだ。

「門次が殺される心当たりは……」

「さあ……門次は佐原生まれで、江戸に行ったのもこの前が初めてでございます。江戸に知り合いがいようはずもありませんし、物取りの仕業ではないでしょうか」

「それはない。門次の財布は盗まれていなかった」

「左様で……」

「ところで、どうしてお前は先に帰ったんだ。奉公人がいなくなったのに、随分と冷たいようだが……」

 意外にも京太郎は、弁明しようとはしなかった。

「薄情と思われても仕方ございません。門次は今までにも、同じようなことがございまして……」

 門次は丁稚でっちの頃から巴屋に奉公し、真面目に働いて番頭にまでなったが、彼は番頭になってから人が変わってしまったのだという。住み込みだったのが通い奉公になり、多少自由になったのをいいことに、仕事の時間に遅れて来たり、熱心さを欠くようになっていたそうだ。主人として京太郎は何度も注意したが、そのときだけで改善することはなかった。仕事を辞めさせるというほどでもなく、どうしたものかと思っていた矢先に、門次は殺されてしまった。

「失礼だが、そんな奴を供に選んだのか?」

「もともとは違う番頭と行く予定だったのですが、直前にその番頭が体調を崩しまして、代わりに門次に行ってもらうことにしたのです。江戸行きが、門次を変えてくれるかもと思いましたもので……」

 と京太郎は言っているが、もしかしたらていよく門次を江戸に追い払うつもりだったのではなかったのだろうか。たまたま行く予定だった番頭が体調を悪くして、そう考えたのかもしれない。

 番頭になって気が緩んでしまったのか、仕事をおろそかにするようになったくらいで、殺したいとまでは思わないだろうし、仮に殺害を計画していたのであれば、物取りに見せかければ疑いは薄くなるはずである。

 だが、京太郎の疑いが晴れたわけではない。

「江戸に来たときに、道中脇差は持っていたのか?」

「……はい」

 ここではじめて、わかりやすく京太郎が狼狽うろたえた。

 門次は刃物で刺されて殺されている。傷口をじかに見た仁助は、凶器は匕首あいくちや脇差ではないかと検討していた。

 武士ならば脇差を持っているだろうが、町人が犯人だった場合、凶器はどこかで調達するしかない。しかし、町人でも帯刀を許されるのは、例えば旅に出るときで、護身用として道中脇差を所持する者もいる。大店の主ならば、必ず持っているといっていい代物だ。

「見せてほしいのだが」

「……実は旅先で失くしましてございます」

「護身用の刀を失くしたのか」

「情けないお話で……どこかで盗まれたのかもしれません」

 いつの間にかないことに気づいたと、頼りない返事だった。

「最後に一つ聞きたい。椿にゆかりはあるか?」 

 京太郎は一度、何かを思いついたような顔をしたが……

「いえ、ございません」


「やっぱり京太郎が犯人ですよ。門次は怠け癖があったって言ってましたが、他に殺したいほどの理由があって、道中脇差でぐさりと……」

 息巻く伝吉に、他に理由があるかもしれないというところは、一理あると仁助は思った。殺したい理由があったとして、それを仁助たちに打ち明けるはずもない。

 道中脇差の話をしたときの狼狽ろうばいぶりも怪しいところだ。

「あの椿は……」

「憎いとはいえ、長年店に勤めてくれた奉公人を殺しちまって、可哀想だと思って添えたんじゃ……」

 状況から言えば、京太郎は怪しすぎるのが疑問だった。

 門次の江戸行きは急に決まったことで、杜撰ずさんな犯行をしてしまったのか。それとも予期せぬ咄嗟とっさの犯行だったのか。

 仁助が一番に気になるのは、門次の死体付近に置いてあった、椿の花だ。

(その意味がわかれば……)

 事件のあれこれを話しているうちに、二人は藤壺屋に着いていた。

 少し面映おもはゆい気持ちもありながら、うたに会いに来たのだが、真っ先に会ったのは、機嫌がすこぶる悪そうな兎之介だった。

「てめぇは女のケツを追って、佐原まで来やがるのか」

 良い顔は絶対にされないと腹をくくっていたが、やはり兎之介は恐い。今まで猫をかぶっていたのか、藤壺屋の若旦那がびっくりした顔で、兎之介を見ている。

「俺たちはお役目で来たんだよ。あんたらも佐原にいるっていうから、こうして顔を出してあげたんじゃねぇか」

 伝吉はあきれたように言ってみせた。

 しかし今日の兎之介は、相当な様子で……

「兎之介さん、毒を以て毒を制す、ですよ」

 奥から姿を現したのは、京斎環游だった。

「お前も来てたのか」

「旅道中とかの絵が描きたくて、うたさんにお願いしたんです。で、うたさんが兎之介さんに言ってくれて、この人は妹に甘いですから」

「うたがどうしてもって言うからな……」

「で、毒とは何のことだ?」

「早くうたちゃんに会いに行った方がいいですよ。じゃないと……」

 環游の意図がよくわからないが、兎之介の機嫌の悪さはそこにあるらしい。

「あれほど二人っきりにするなって言ったじゃねぇか」

「どうもお邪魔みたいで……」

 うたは誰かと一緒にいるのか。

 とにかく、ではと言って仁助と伝吉は、うたのいる部屋に案内された。

「まあ、いつこちらに」

 兄とは違って、うたは仁助たちの来訪に相好を崩して迎えた。これでやっと人心地のついた二人である。

「今日着いたところだ。ひとまずお役目が終わって、顔を出したところなんだが……」

 佐原に着いた仁助たちがはじめに向かったのは、代官所である。江戸で起きた事件の捜査で、南町奉行所から同心とその配下の御用聞きが来ると、代官所にはしかるべき手続きを踏んでいた。代官所からは存分にご吟味くださいと手厚くされて、宿まで手配をしてくれていた。

 代官所を出た後は、先ほどまでの巴屋での吟味である。吟味が終わればすでに日が傾いてきそうだったので、今日はとりあえず宿で事件を整理することにして、その前に藤壺屋に寄ったという経緯である。

 仁助はうたの真向いに座っている男に目を向けた。

「万太郎さん、この方たちは江戸でお上の御用を勤めているじ……神山様と伝吉さんです」

 他人の前で武士のことを、下の名前で呼ぶのをはばかったうたは、かろうじて訂正した。

 万太郎と呼ばれた青年こそ、うたの先客であったらしい。なるほど、兎之介が気を揉む理由がわかったが、それよりも仁助は、彼の名前にぴんときた。向こうも心当たりがあるようで……

「では貴方方は、門次の件で……」

 巴屋の若旦那の名前は万太郎で、彼がその人であった。

「そうなるな。つい今しがたまで巴屋で、父上から話を聞いていたところだ」

「この度はとんだお手数をおかけしまして……」

 万太郎は丁寧に、仁助と伝吉に頭を下げた。

「実は私、はるばるお江戸から来てくださったうたさんたちをおもてなししようと、夕餉の膳に、この近くにある料亭で一献いかがかとお誘いに来たのですが、神山様と伝吉さんもぜひ、いかがでしょう」

 歳もそう自分とは違わないだろうに、なかなかの好青年だと、またしても仁助は暢気のんきなことを考えていた。

(旦那……何かわかるかもしれませんから、行きましょうぜ)

 真面目なのか、ご馳走が食べたいだけなのか、伝吉がそっと仁助に耳打ちした。

「では、お言葉に甘えて……」


 佐原は水の町である。利根川から流れる水郷地帯が水運を発達させ、香取神宮に続く街道もあり、交通の要の場として、商業都市が完成した。その繁栄ぶりは当時、

 お江戸見たけりゃ佐原へござれ 佐原本町 江戸優り

 とうたわれるほどたったという。

 さてそんな町だから、柳の木が生い茂る小川沿いが望める、見晴らしの良い料亭に一行は招かれた。

 部屋の入り口から見て左側、一番奥には仁助、その手前にうた、続いて伝吉が座っている。右側には万太郎、続いて兎之介、環游ですべてだった。兎之介は隣にうたを座らせようとしたのだが、伝吉が機転を働かせるほうが早く、うたを仁助の隣に導いたという攻防があったが、当の本人たちは何一つわからないままだった。

 つつがなく食事も進んで……

「この海老しんじょのお吸い物、とっても美味しい」

 ぷりぷりした身を細かく刻んだかたまりは、優しい味の出汁だしに包まれて、口の中ではじけてゆく。ただでさえ海老が大好物なうたにとっては、この上ない料理だった。

「そんなに美味しいのなら、俺のをやろう。まだ手をつけていないからな」

 仁助はうたの好物を承知していて、厚意で言ったのである。

 だが、正面から二人のやり取りを見ていた万太郎は、胸にすっと嫌な気持ちが走った。

 察するに仁助は、うたの好物を知っている。つまり好物を知り得るほどの仲なのだと、好青年はどす黒いものを抱えてしまったのだ。

「わざわざ自分の分をあげずとも、おかわりを頼めばいいじゃありませんか」

 と穏やかに言って、手際よく万太郎は店の者を呼んだ。

「それもそうだな」

 仁助の方はまったく気に留めず、海老しんじょに手をつける。

 何事もないようなこの会話に、周囲の方がどきりとしていた。

 酒を注ぐ体で仁助のもとに来た伝吉は、忠誠心でそっと言ってみせる。

「旦那、暢気に敵に奢ってもらった料理を食べている場合じゃありませんで。横取りされたら、たまったもんじゃありませんよ」

「お前は何を言っているんだ?さては、もう酔ったのか」

 気持ちよさそうにぐっと酒をあおった仁助に、伝吉は危機感と共に呆れも混じってしまった。

「くそ、また新しい虫が……」

 兎之介は万太郎に聞こえないようにつぶやく。環游もその横で、兎之介を労わるように言った。

「けっこう押しが強そうですね」

 そんなこんなもあったが、その後は周囲が感じ取った緊張感も消えて、食後のゆったりとした雰囲気に包まれる。

 代替わりの宴のときといい、佐原に来てから食べ物を堪能してばかりで、本来の目的がおろそかになっていたことを、うたは思い出した。

「万太郎さん、この近くに椿が見れるところはありませんか?」

 祖母は椿の花が好きだった。うたが祖母からもらったくしにも、椿の絵が描かれている。

 蔵の中で見たとき以来、祖母の姿を見ていなかったが、きっと一緒に佐原に来ているはずだ。それが祖母の願いだったのだから。

 祖母の好きな花を見に行こうと尋ねてみたのだが、万太郎は少し暗い表情をした。

「……うたさん、怖い話は苦手ですか?」

「いえ……」

 霊視の能力のあるうたは、思わずそう答えた。

 冷えてしまいますねと言って、万太郎は障子戸を閉めると、この地に伝わる怪談話を語り始めた。

 むかしむかしの話である。佐原におせんという女がいた。おせんには将来を誓い合った男がいたが、いざ祝言の日を前にして、その男は別の女といい仲になり、おせんを捨てて佐原を出て行ってしまった。失意のどん底に落ちたおせんは、自ら命を絶ってしまう。しかし、恨み辛みを募らせたおせんは成仏できずに、怨霊と化して、自分を裏切った男を探して、夜な夜な男ばかりを呪い殺してしまうのだった。

「おせんの幽霊に魅入られたら、呪い殺されてしまう。そしておせんは呪い殺した男に、おせんの好きだった椿の花を添えるのだとか……なんともありきたりな怪談です。花椿の怪談と、このあたりの人たちは言っています」

「椿の花って、旦那……」

 殺した男に手向ける椿の花。それと似たような状況で、門次は殺されている。

「まさか……いや、門次の死体の側にも、椿の花があったんだ」

「門次の……」

 今はじめて知ったと言わんばかりに、万太郎は驚いている様子だ。

「私の店の番頭が、江戸で殺されてしまったんです」

「俺たちはその事件を調べるために、ここに来たんだ」

 二人に説明されて、うたたちも状況が呑み込めた。

 祖母のために尋ねた質問は、どうやら事件に関わることを引き出してしまったらしい。

「門次は、おせんに呪い殺されたのでしょうか……」

「わざわざ江戸まで来てくれる幽霊がいるなら面白いが、門次は花椿の怪談になぞらえて殺された……もしそうだとすれば、花椿の怪談を知っているのは……」

「佐原の人間、ということになりますでしょうか」

 ならば門次殺害の犯人も、そういうことになる。一番疑いのある万太郎の父、京太郎も佐原の人間だ。

「やはり夜に怪談話などするものではありませんでしたね。そろそろお開きといたしましょう」

 寒さがやけに染み入るのは、怖い話を聞いたからだろうか。海老しんじょの温かさも抜けてしまって、店を出たうたが白い息を吐いていると、万太郎に話しかけられた。

「さっきは怖い話をしてすまなかったね」

「いえ、私が聞いたことですから」

「お詫びと言っては何だけど、明日、佐原の町を案内してあげますよ」

「いいんですか?」

「気楽な若旦那の身分だから暇なんだ。じゃあ明日、迎えに行くからね」

 会話の内容は聞き取れなかったが、楽し気に話している二人の姿を見て、また一人、心に影が差したのは仁助だった。


 翌日は約束通り、うたは万太郎に佐原の町を案内された。だが、お目付け役として環游がいるのは、妹のことが心配でたまらない兄の差配である。

 優雅に佐原の象徴ともいえる川下りをしたり、江戸の天下祭りと並ぶほどだという佐原の大祭で使われる山車だしを見せてもらったりと、どれもうたと環游を楽しませた。

(おばあさま、成仏できたかな……)

 懐かしい故郷に帰り、祖母の思い残すところはなくなっただろうか。だけど、うたは最後に一目でいいから、祖母に会いたい。本来ならばもう見ることの叶わない祖母に、今までのありがとうを言いたい。

 うたは挿しているくしに触れてみた。

 先を歩く万太郎と環游は、うたが立ち止まったことに気づいていない。うたは少しだけ祖母に思いをせるつもりだった。すぐに二人に追いつこうとしていたのだが、うたの足はその場に縫い付けられたように動かなかった。

 すれ違ったのは、同じ年頃の少女である。少女は飛び跳ねるように、どこかへと向かっていた。

 なぜあんなにもうれしそうにしているのか。気になったうたは、少女の後を追ってゆく。うたの頭の中は、少女で支配されていた。

 細い小径こみちを抜けると、御神殿があるだけの小さい神社があった。額には椿神社と書かれているが、それもかろうじて読めるくらいに色せている。境内けいだいの手入れが行き届いている深萩神社を見慣れていたうたには、この神社が寂しく感じた。

 その中で少女は、陽光のように明るかった。

 少女は御神殿の階段に腰掛けて、うたがいることには気づいていない様子である。

「早く来ないかな」

 誰かを待っているのだ。では自分がここにいたら邪魔になってしまうと思ったところで、うたは後ろから声をかけられた。

「うたさん!」

 はっと、うたは我に返って振り向く。

 走ってきたのだろう、息を切らした万太郎と環游が、心配気に自分を見ている。

「急にいなくなったから、心配して……」

「ごめんなさい……!あの人について行って……」

 と、うたが再び御神殿の方を向くと、すでに少女はいなかった。

 神社に入る道はうたの辿たどってきた小径しかない。つまり少女が小径を抜けたのならば、誰かは気づいていたはずが、不思議にも少女は誰にも知られずに姿を消している。

 神社の背後は樹木が生い茂っていて、その間を行ってしまったのか。しかし、万太郎と環游には、そんな姿は見えなかったようだ。

「狐につままれちゃったんですよ。ここには幽霊もいるみたいですし、狐がいたって不思議じゃありませんからね」

 と環游が言ったのは、うたのためである。

 もしかしたらうたは幽霊を見てしまったのかもしれない。霊視の能力については実の親からも、散々気味が悪いと言われてきたうたは、せっかく仲良くなった万太郎には知られたくないに違いない。

 うたの顔がかげったのは、まさしく環游の考えと同じだったのだ。

「狐ならいいですが……花椿の幽霊だったら、恐ろしい目に合ってしまうかもしれませんからね。あ、でもおせんは男しかたたらないんでしたっけ」

「気をつけた方がいいのは、色男の万太郎さんの方ですよ」

 万太郎は不審に思っていないから大丈夫だと、環游はうたに目配せをした。

 うたはほっと、安堵あんどの息を漏らす。

「椿が……」

 夢から覚めたようなうたが神社を見ると、境内には御神殿を囲むように、椿が咲いていた。

「ここは椿神社といって、あの花椿の怪談に出てくるおせんの幽霊を鎮めるためにできた神社だとか……」

 椿が見れるところはないかと聞かれていたが、怪談話にまつわる神社を紹介する気にはなれなかったと、万太郎は正直に吐露とろした。

「お願いです、万太郎さん。この神社の文献があれば、調べてみたいのですけど……」

 花椿の怪談にまつわる神社と聞いて、うたは真っ先に、仁助が調べている事件の手がかりになるのではと思った。

「管理をしている人に言えば、見せてくれるかもしれませんが……」

 万太郎は昨日、うたが親しそうに仁助と話している場面を思い出していた。

 うたは仁助のために文献を調べようとしているのではないかと、勘ぐった。

「私も、絵の勉強に拝見したいですね」

 環游も仁助が扱う捕物に協力してきた一人である。うたの考えは読めたし、自分も同じ気持ちだった。

「わかりました。名主さんにおうかがいすればわかるでしょうから、さっそく行ってみましょう」

 仁助は父を疑っている。ならばうたと文献を調べて、無実を証明することができれば、鼻を明かせると、万太郎は秘かに願いを込めた。

 その頃、巴屋では第二の事件が起きていようとは、まだ知らなかった。

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