第一章 ホムスビの娘【4】
ナツハナは日々かいがいしくアヤの世話を焼き、クスの煎じた薬湯を飲ませるのはすっかり彼の仕事になった。
アヤはクスたちの献身的な看病によって、みるみると回復していく。あれだけひどかった火傷の痕が薄くなっていく姿は、ナツハナにホムスビがまことに稀なる存在であることを思わせた。アヤにとって痕に残りはするが、火傷は日常茶飯事らしい。
「……苦いよね」
「そうだな」
ナツハナはことクスが煎じた薬湯が苦いのではないかと思っている。おのれが風邪をひいた時に飲ませてもらった薬湯も、かつて龍町の医者から与えられたものより苦かったのだ。
「クス殿は苦ければ苦いほど良薬だって持論なんだ。青の国ではそうなんだって。はい、すももだよ」
とにかくアヤが自分と話してくれることが嬉しいナツハナは、いちばん熟れたすももを見つけて渡すことを日課にしていた。すももは夏の果物で今がちょうどおいしい。魔除けの意味もあり、玉の宮でも鬼門の方角に桃と一緒に植わっているので、
「……お前は──その、嫌ではないのか? わたしは敵国の者だし、
おずおずとナツハナからすももを受け取ったアヤは怪訝そうに言う。ナツハナはどきりとして、首を大きく横にふった。
「嫌じゃない、ほんとだよ!」
本来ならナツハナはクスの下で雑用をこなし、空いた時間で勉学に励まねばならないのだ。無理を言ってアヤの看病をさせてもらっている。もちろん学びを怠ってはいけないという条件付きだ。
クスは理解があるので目をつむってくれたが、普通ならば許されないだろう。他の
ナツハナにとって、アヤは美しかった。浅黒い肌と緋色の髪が鮮やかで、萌葱の瞳がさらに引き立っている。森で気高く生きる牝鹿のようだ。出会った時はその苛烈さに驚いたが、普段のアヤは物静かで無口な少女だった。ナツハナの方が、アヤの関心を引きたくてよく喋るのだ。
「アヤに元気になってほしいんだ。僕、できることはなんでもしたくて……その、えっと」
前のめりになって必死にナツハナが弁明するので、アヤは小さく笑う。
「ああ、わかった。お前の気持ちはありがたいと思っている」
「……うん」
「信じられないくらい穏やかだから、まだ夢を見ているのじゃないかと思うんだ。目覚めるたびに、ここが根の国かと勘違いしそうになる。おそらく処刑されるだろうと思っていたし、大王に差し出されるくらいなら自死するつもりだったから」
その言葉にぐしゃりと顔が歪んだナツハナを見て、アヤは今度こそ大きな声で笑う。
「すまない。もう言わないよ」
「……僕はアヤが傷ついたり悲しい気持ちになるのが嫌なんだ」
「変な奴。なんでわたしなんかにかまうんだ?」
初恋、とクスから指摘されたことを思い出してナツハナは下を向く。アヤを慕う気持ちにまだ名前などつけられないが、ただ喜んでほしいのだ。
「……きみが元気になって、赤の国へ帰れるようになってほしいだけ。ここにいてもつらいでしょう」
アヤが回復するということは、すなわち別れの時であることをナツハナも理解している。黒の国へいつまでもいては命が危ないし、何よりも凡庸な生まれの自分と違い、アヤは他国の姫君でカグチの恩恵を受けた特別な娘なのだ。元気になってほしい気持ちと、今しばらくそばにいたい気持ちが綯い交ぜとなり、ナツハナは複雑だった。
「────わたしは、まだここを離れるわけにはいかないんだ」
かたくなに張り詰めた表情でアヤが言うので、ナツハナは顔を上げる。
「……どうして? ここはアヤにとっては危ないところだよ」
アヤはナツハナの問いかけに応えず、眉を寄せて黙っていた。事情はわからないが、なにか懸念していることがあるらしい。ナツハナはまだ信用されていないことに残念な思いを抱いたが、責める気持ちにはならなかった。まだ半人前の自分にできることは限られている。
「もしアヤが言いたくなったら、クス殿に相談して。あの方は本当にきみを心配しているし、絶対に守ってくれるよ。親のない僕のこともずっと気にかけてくださって、姉上がいるならああいう感じかなっていつも思ってる」
「ナツハナは、親がいないのか?」
驚いた表情でアヤが問うので、ナツハナは微笑んで頷いた。
「うん、母上は僕を産んですぐに死んだ。父上は武人だったから、三年前に赤の国との戦いで……首がない身体で帰ってきたんだ。大きな部隊を率いていたから、みんなが慕って担いで家まで届けてくれた。僕は首なしの死体をはじめて見たけど──おかしいよね、すぐ父上だってわかったよ。僕は武芸がとても苦手で、父上をがっかりさせていると思ってた。父上は勉強ができることをすごく喜んでくれたけれど、一度くらい真剣に剣を教わればよかったって、後悔しているんだ」
そうか、とつぶやいたアヤは手に持ったすももをぎゅっと握る。
「お前の父を殺したのは、わたしの国の者か」
「きみの父上と兄上を殺したのは僕の国、オグト皇子たちだよ。黒の国と赤の国の均衡を崩しては厄災が起こるってクス殿はいつも心配してる」
庶民だったナツハナも父親が武官でなければ、両国がここまで激しい戦を繰り広げていることを知らなかっただろう。人々は何食わぬ顔で交易をしていたし、人の出入りもあった。龍町には黒の国の者しか住んでいなかったけれど、虎町には各国の人々が市で商売をしている。宮にも多くはないが、外つ国の人間が仕えているのだ。
しかしそれも黒の国であるからこそだ。侵略をされている赤の国は、よほど恐ろしい思いをして来たことだろう。交易をしなければ生活が成り立たぬから、いろいろな思いを抱えて黒の国へ参っているに違いない。
「……
アヤはすももを少しずつ齧り、ゆっくり咀嚼した。無表情が少し柔らかくなるので、果物が好きなのだろう。赤の国にもすももはなるのであろうか、とナツハナは考えた。
「わたしの母も、わたしと兄が幼い頃にクラヌシのおわす根の国へ旅立った。母さまは女王の姉だったし、わたしはちょっと特殊だろう。里のみんなは女王の後継者になると思っていたけれど、わたしは呪術がとんと向いてなくて。霊力はあるくせに上手く扱えないんだ。伯母さま……女王もそれを察して
「狩りができるの!」
南国の森で快活に狩りをするアヤがありありと想像でき、ナツハナは嬉しくなった。北国の森とはまた違った獲物がいるのだろうか。
「ああ、得意だ。獣の肉もさばける」
すごい!と声をあげたナツハナに、アヤは少しばかり恥ずかしそうに微笑んだ。アヤなりに心を開いてくれる様を感じ、ナツハナはそっと「きみとこうして話せて嬉しい」とつぶやく。
「はじめて会った時から、きみのこと……」
きれいだと思っていた、と言いそうになり、慌てて口を抑えた。自分でも驚いてしまい、目を見開いて大げさにまばたきをする。
ナツハナも未婚の女性へ不用意に美辞麗句を述べてはならぬことを知っている。たとえ自分が成人前の少年であってもだ。しかも相手はアヤである。うっかり発言で距離を取られるのは避けたい。
「……お前はやはり変な奴だな」
口が滑ってしまわぬよう、ナツハナは慎重に答える。
「僕、そうなんだ、変なんだよ。他の
ナツハナは真面目で優等生だが、時折の行動や発言が突拍子もない時があった。クスからは「口は災の元ですよ」とよく言われている。核心を突くことに気付いて述べるのは良いが、場面は選べとも。
「だからこそ、お前はわたしを庇ってくれた。変わっている人間がこの世には必要なんだ。兄様がいつも言ってくれた」
静かに言ったアヤの顔を見つめ、ナツハナは高揚した。やはりアヤは特別だ、と感じる。はじめて会った不思議な気をまとった少女。きっと触れた時に流れた感覚は偶然ではないのだ。
「これから墨の宮へ行かないといけないんだ。安静にして、寝ていてね」
葉月で雨がふらず
ナツハナは立ち上がり、元気よく戸を開けたかと思えば、くるりとアヤの方を向く。
「また夕餉の時間に来るね!」
くすりとしてアヤはその様を見守る。素直な良い少年だと思う。はじめて見た時こそ、少女のように華奢で頼りなげだったが、アヤを庇ってくれたと聞いて意外に思ったのだ。その後すぐ、ナツハナはとても責任感の強いまっすぐな男の子であることがわかった。黒の国には良い思いを抱いていないが、クスとナツハナには恩を感じている。
アヤはしばらく戸の方を見つめ、ちらりと庭に目をやった。
「……お前なのか、マノト」
茂みの中からがさりと音がし、紙で作られた人の形を模している
これは陰陽師が扱う呪術のひとつで、
「姫様、よくわかりましたね。本当にご無事で何よりです!」
こもった風に聞こえる男の声は幼い頃にアヤの付き人で遊び相手であったマノトである。身分は違えど幼馴染と言ってよいマノトをアヤも信頼し、対等に話すことができた。
十五歳で成人してから故郷の
「お前の気がにおったんだ。いつの間に
アヤは周囲に悟られないよう、ごく小さい声で答えた。さっきからかすかにマノトのにおいがしていて、もしやと思っていたのだ。おそらく死んだものとみなされているだろうと思っていたので、アヤは内心とても驚いた。しかも霊力がないマノトが
「そりゃ、
「あの男は本当に器用なのだな」
人の良さそうなぼさぼさの眉毛と、よく日に焼けた力強い腕を思い出す。きょうだいがたくさんいて、確か妹のひとりは黒の国へ出稼ぎに出ているはずだ。
「姫様の気がわずかに残っていると陰陽師が見立てましてね、一縷の望みにかけて
マノトはやや興奮しているような声で言った。自分の生存を信じてはるばる危険を犯してやって来てくれたことに、アヤは胸が詰まりそうになる。たったひとり、黒の国で不安に押しつぶされそうになっていた。死を覚悟して気丈に振る舞っていても、孤独を感じていたのだ。ナツハナたちは親切にしてくれたけれど、それもどうなるかわからない。彼らはあくまでも黒の国に仕える人間だ。
「
眉根を寄せて、アヤは尋ねる。あまり聞きたくはないけれど、聞いておかねばならぬからだ。
「俺たちが駆けつけた時は壊滅状態でした。けれど姫様が時間を稼いでくれたおかげで、民たちはだいぶ生き残っています。田畑も作り直して、一年もあれば再興できるでしょう。俺の家族も無事でした、お礼申し上げます」
「……いいんだ。民が無事ならば」
アヤは心から安堵した。民を救えたのなら、せめてよかった。
「民たちが口々に姫様の安否を尋ねるんですよ。本当に良かった……みんな感謝しています」
うん、とアヤは答える。
黒の国の軍勢がやって来た時、まずおのれの身を犠牲にしたのは首長であるアヤの父と世継ぎの御子である兄だった。
火の民はすべてが女神カグチの子であるとされ、各里の陰陽師が結界を張った一角へは他国生まれの人間は立ち入ることができない。民たちが逃げおおせるまで、なんとか耐えねばと皇子へ立ち向かった。
ここで殺されても悔いはないと思ったのだ。どうせ愛する家族はみな根の国へ旅立ってしまった。皇子の顔に火傷を負わせることはできたけれど、殺すことはできなかったことが悔いと言えば悔いだ。
アヤは目を閉じ、ゆっくりと息を吐いた。マノトたちは自分を逃がすための算段を伝えに来たのだろう。しかし、これからアヤはその申し出を断らねばならない。
「マノトは様子を見に来てくれたのだろうが、わたしは逃げおおせるにはまだ十分に走れないぞ」
「ええ、俺たちも玉の宮について調べたんですよ。クスという
まどろっこしいやり方より、素早くお連れ申し上げます。歩けるようになるまで回復なさった時、また参りますよ。火傷も薄くなっておられるし、一週間のうちには。いろいろと手立てを考えているんですがね」
「そのことだが、わたしはまだ──」
思っていたよりも早くマノトたちが行動するつもりだと悟り、アヤは慌てる。事情を話せばわかってもらえるだろうと言葉を継ごうとしたが、
「ああ、時間切れだ、所詮はイワヒコ殿の術なんでご容赦を! 姫様、どうか気をつけて!」
マノトの声が先細って小さくなり、やがて完全に動かなくなってしまう。霊力の低いイワヒコは長い時間、
ありがとう、とつぶやくとアヤは
「……ここにはいない。やはり鈴の宮か」
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