第一章 ホムスビの娘【2】

 赤の国は黒の国から南方へ行ったところ、火を司る女神カグチを祀る活火山の佐久良さくら山と、朱雀が宿るとされる夏隠湖かいんこを持つ国である。大小さまざまな里からなる連合国で里に首長を戴き、おのおの自治権を持っていた。重要なことだけを女王が占って決め、おわす里は息那賀おきながと呼ばれる。陰陽師たちは陰陽寮おんようりょうから派遣され各里に籍を置いた。あるいは女王の補佐として存在し、黒の国より地位は高くない。現在の女王は銀色の瞳を持つことから名付けられた銀朱女王ぎんしゅにょおうである。

 南国らしい日焼けした浅黒い肌と骨太な身体を持つ人々で、みずからを「火の民」と称し、国は険しい岩肌の山々に囲まれ、その土壌は豊富な鉱脈をもたらす。そしてあまり鉱脈を取りすぎては、傲慢で気性の荒いカグチの怒りに触れると信じられていた。

 苛烈な火の女神を祀っている赤の国の人々を黒の国は野蛮だと揶揄するところがあり、豊かで強大な黒の国は慎ましく素朴な赤の国を取り込もうと十数年に渡り戦を仕掛けていた。

 何度かの停戦と国境付近の小競り合いを繰り返し、数年前から黒の国は容赦のない戦を繰り広げるようになる。ナツハナの父タキジも激化した戦いの中で死んだ。

 そうは言っても、両国間で交易は盛んであったし、人の出入りもあった。黒の国の人々は良質な鋼や玉石を欲して、赤の国は豊富な海産物や自国では育たぬ野菜や繊細な絹製品を求めて、庶民たちは良好な関係を築いているのも事実だ。

「この子はどうなるのですか?」

 ふたたび書簡を持ちながら、ナツハナは心底気になってオジカにたずねる。やっと生き延びることができた少女が、いつまた命の危険にさらされるかわかったものではないからだ。

「大王に献上される。おそらく鉱脈をさがす手段として、手元に置いておきたいのであろう」

「──それだけなら、良いのですけれど」

 大王は噂に名高い好色で、下女だろうが臣下の妻だろうが手篭めにする悪癖があった。クスは心配そうに眉根を下げ、オジカに抱かれる少女を見つめる。オジカはちょっとバツが悪そうに口元を歪めた。

「案ずるな、大王のお好みからはだいぶ外れる娘だ。そなたらも見たであろう。この気性の荒さで、大王の側女がつとまるものか」

「仮にも他国の姫君ですわ。手荒なことはしないで頂きたいものです」

「ああ、俺も交渉の手段として扱いたいと考えているのだ。百戦錬磨の俺からしても、赤の国の軍は粘り強い。武器の精錬技術もそうであるが、気質が勇ましいのだ。我らの軍は数で圧倒できるが、いずれ消耗戦になってしまう。そろそろ条件をつけて休戦に持ち込みたい。大王は併合を焦っておられるが、このままでは我が国も疲弊する。この娘は赤の国でも「神懐姫かむなつひめ」と呼ばれ、銀朱女王ぎんしゅにょおうの姪として次代の女王候補のひとりだという。人質としては上出来だろう」

「……かむなつ、ひめ?」

 ぽつりとつぶやいたナツハナを見留めて、クスは微笑んだ。

「神に愛された人をそう呼ぶことがあるのよ。神から懐かれた、という意味ね。この子は伝承に聞くホムスビよりも、とくに稀なる存在のようです」

「ホムスビ、とはなんなのですか?」

「火の女神の子らである赤の国の民は、ごくたまに「火結びほむすび」の力を持つ者が生まれるのです。人より鼻が良く、鉱脈のにおいがわかるとか。赤の国が建国の折にも、カグチの燃えるような緋色の髪からホムスビが生まれたので、国はたいそう栄えたそうよ。

 わたくしも古い文献で読んだきりで、詳しいことはわからないの。ただ、ホムスビの中には身体から炎が出る者が生まれることがあるらしいわ。その者たちはだいたいが力の制御ができず、子供のうちから早々に死んでしまうとか。この子はだいぶ大きいから、運が良かったのでしょう」

「そんな、この子は平気なのですか!」

 カラカラと古竹の書簡同士がぶつかり合うのもかまわず、ナツハナは声をあげる。クスはちらりと少女の手足を見てから、ため息をついた。

「古い火傷の痕を見るからに、苦労はしているようだわ……」

「肝が座っている娘だ。生き延びるであろうさ」

 ナツハナを安心させるようにオジカが言うと、ちょうど玉の宮の門が見えた。オジカは立ち止まり、くるりとナツハナたちの方を向く。

「さあ、玉の宮だ。ここから先、俺は入ることができぬ。モモソ様にしかとお伝えせよ……ナツハナよ、そなた持てるか?」

「え、でも──」

 急に少女を渡す仕草をされ、ナツハナはたじろく。非力が売りの自分が少女を抱えることができるのだろうか、とおろおろした。

「その書簡はわたくしが持ちましょう。この子を持っておあげ」

 クスからも請われてしまえば、とうとうナツハナは拒否できない。覚悟を決めてクスへ持っていた書簡を渡し、両手を差し出す。その後、ゆっくりとオジカはナツハナの腕へ少女を置いた。

「しっかり抱えてやれ。落としてはならぬぞ」

「は、はい!」

 はじめこそ慣れぬ重さでよろめいたが、膝に力を入れてナツハナは地面を強くふんばった。人を抱きかかえる経験をしたナツハナの心臓は、春の草原ではしゃぐ兎のように跳ね、気恥ずかしさで身体中に血が巡った。少女はしっかりとした体躯に思えたが、抱えてみると柔らかく、そしてとても軽い。同時におのれの中にある何かが少女へ流れ込んでいくような、不思議な感覚を覚える。少女へ触れている肌から、妙な安心感があった。

 去っていくオジカの背を見送りながら、ナツハナは小さく言った。

「……クス殿、女の子って意外と軽いんですね。重たかったら落としちゃうと思って、心配してしまいました」

「ナツハナや、間違ってもこの子の目が覚めた時に言ってはなりませんよ。まったく、こういうのを心の機微がないと言うのかしらね」

 呆れながらクスは言い、「まずは傷を癒やさねばなりませんね。わたくしはモモソ様にお目通りするから、あなたはこの子を空いている部屋に寝かせておあげ。ああ、イヨ殿、ちょうど良いところへ。医師を呼んでくださいませんか?」と通りがかった星の巫女の元へと駆け寄ってしまった。

 少女を抱きかかえたナツハナは、クスのややせっかちなところに苦笑し、よいしょとつぶやきながら慎重に歩く。

「……カグチと同じ髪色なんだね。君の名前はなんていうんだろう」

 女神の燃えるような緋色の髪から、ホムスビは生まれたと言う。少女の髪は今にも炎が上がりそうな緋色だ。答えぬ少女にそっと投げかけ、固く閉じたまぶたを見つめる。影を落とす長いまつ毛の下には萌葱色の鮮やかな瞳があるのだと思うと、ナツハナの心臓はまた不自然に高鳴った。





「ホムスビの娘じゃと……」

 玉の宮の最奥、玉響たまゆらの乙女がおわす水鏡の間へは特別なことがない限り、陰陽助おんようのすけと呼ばれる次官二名だけが入ることを許可される。

 クスは齢八十を超える盲目の巫女であり、玉響たまゆらの乙女のモモソに謁見していた。寒海かんかいの先、青の国で医者の娘として生まれたクスにとって、玉響たまゆらの乙女と言葉を交わすことが許された地位にいるおのれがいまだに信じられないことがある。

 青の国は北方に位置する黒の国から東方にある国で、陰陽師たちが国を強力な結界で守り、王はいるが一切の権限がなく象徴的な扱いだ。北国の黒の国は色白の人間が多いが、青の国の人々は生成色の肌を持つ。

 政治はすべて各陰陽師宗家が執り行い、陰陽道を学ぶのは主に男である。各家の弟子に入れば女も陰陽道を修めることはできたが、宗家に生まれなければ陰陽師になることは難しい。

 みずからを「木の民」と称し、木の女神コノハは光の神テルヌシと闇の神クラヌシが生んだはじめの神とされる。五行の中で唯一の生命である木に人は属するという謂れがあり、青龍が宿る春宵川はるよいがわでコノハは中つ国で最初に青の国を建国したという。

 故郷への想いはあるが、それよりもクスは陰陽道を学び、陰陽師になりたかった。それで広く門戸が開かれ、女の方が陰陽師となり星の巫女と呼ばれる黒の国へと渡ったのだ。それなりの努力をしたつもりだが、あれよあれよと陰陽助おんようのすけになったことは時の運もあろうと思っている。

「さようでございます。首長の娘子だとか。モモソ様は何かご存知でしたか?」

「いいや、聞いておらぬ。八又門やまとに攻め入る日取りを占ったことは覚えていたが、まさかその娘が目当てかえ?」

 顔にいくつも深い皺をたたえたモモソは、小柄でありながら存在感のある出で立ちだ。闇の底から深く染み渡るような威厳のある声で、モモソは静かに言った。

「そこまでは。ただ、オジカ殿は娘についてよく知っておられました。捕えたのち、大王に献上することになっていたようです」

 玉響たまゆらの乙女は中央に翡翠を縫い付けた赤い額布を巻き、清潔な木綿の白い衣をまとっている。貴族たちと同等の扱いを受けている星の巫女たちの装飾は華美になりがちだが、モモソはクスが知る限り、絹や色のついた衣をまとっているところを見たことがない。

「オグト皇子の火傷は、その娘のしわざとな。八又門やまとの方角はしばらくの間、皇子にとって暗剣殺の方位ゆえ、行かぬように進言したのじゃがな」

「……赴けばおのれでは防げぬ厄難が起きるというのに、なぜ急いだのでしょう。結局、モモソ様の見立て通りでございました。皇子はひどく娘を恨んでおります。ふたたび会えば、どんな仕打ちをうけることか」

「娘は利用価値があろうて、殺しはせぬじゃろう。鉱脈を探させるというが、それも疑わしい。おそらく交渉の道具にでも使うつもりで連れて来たのであろうな。もしくは、大王の気まぐれかのう」

「──おっしゃる通りかと」

 クスはそっと顔を上げて、モモソを仰ぎ見た。

「わたくしにあの娘をお預けいただく許可を。オジカ殿には話を通しております。医者の家系に生まれた者として、このまま見過ごすわけには行きません。首長の娘ならば政治の道具にされることも覚悟しておりましょうが、今は傷ついた子鹿も同然なのです」

「……ナツハナはその娘に会ったかえ?」

「……は、はあ。ええ、当然わたくしに付き従っておりましたから」

 脈絡もなく問われたクスは、戸惑いながら答える。モモソともあろう地位の人間が、玉の宮付きの童郎わらしろの名を知っていることに驚いたのだ。

「あの子を玉の宮へ上げるようオジカに請われたのはこのモモソじゃ。わしとてまつりごと以外にも関心がある」

「──これは失礼を。さすがはモモソ様、小さな者にも目を配ってくださいますのね。あの子はとても賢くて良い子です。今日も娘をオグト皇子の剣から庇おうと身を挺したのですよ」

「ほう、勇気のある子じゃな」

 愉快そうにモモソは笑い、その後で「オグト皇子のふるまいにも困ったものじゃ。大王がおのれに見向きもせぬからと、だんだんとお心を失っておる」とため息をついた。

「ええ、傍若無人ぶりは日々に鈴の宮の者たちから聞いております。中には次期大王を任せてはおけぬと、不穏な動きをする一派がいるとか」

「それについてはわしも懸念しておるでな。あのようないでたちでも、大王にとっては亡き后さまの唯一の子であり、世継ぎの御子じゃからのう。クスよ、オグト皇子が大王に即位あそばした時の玉響たまゆらの乙女はそなたぞ。さて、どうする?」

「滅相もない! わたくしには過ぎたお役目でございます。陰陽助おんようのすけは他にサイ殿がいらっしゃるではありませんか」

 モモソからの思いがけない言葉にクスは慌てた。今の地位でさえ身の丈に余るというのに、陰陽頭おんようのかみである玉響たまゆらの乙女になれるなど思ってはいない。クスにとっては陰陽道を学び、その術を国へ活かすことが本望なのだ。次代の玉響たまゆらの乙女は星の巫女たちの中でいちばん長く宮に仕えている陰陽助おんようのすけサイがふさわしいだろう。

「サイは優秀じゃがな、オグト皇子のふるまいに耐える心の臓をしておらぬよ。そなたは虫も殺さぬ風でいて、必要とあらば殺す決断をする。玉響たまゆらの乙女とは、胆力が必要なのじゃ」

「──それはお褒めいただいておりますの?」

「もちろん、褒めておる」

 あくまでたとえ話で、平気な顔で殺生ができる人間と言われているわけではないと理解していても、クスは複雑な心持ちであった。虫は苦手であったし、自分はそこまで割り切った考えができるとは思っていない。

「ありがとうございます。ですが、まだまだ若輩者のクスでございます。今はモモソ様から教えを請うことが喜びですわ」

「わしにいつまで重責を負わせるつもりかのう」と苦笑しつつ、モモソはまんざらでもなさそうに言った。

「……わしでさえ、ホムスビを見たことがない。赤の国にも長らく生まれていなかったと聞いておったが。だいたいが成人を迎えず死んでしまう、神懐姫かむなつひめとは言い得て妙じゃ。おのれの髪から生まれた子ゆえ、カグチが手元に置きたがるのじゃろうて」

「偶然が重なって生き延びたのでしょう。成人したてのように見受けられます。娘の手足には古い火傷の痕がいくつもありました。家族と里を失ってなお、捕虜となってしまうなど。生かして故郷へ帰してあげたいですわ……」

 クスの言葉にモモソは小さく頷く。軍事力が強大な黒の国にあって、モモソは戦に対して慎重な態度を取っている。中つ国の均衡は四つの国々が「四神相応」であるから保たれているのであり、赤の国を支配する危険をつねづね大王に説いていたのだ。各国が二つ名に四神の名を持つ理由は、北に玄武が宿る冬薙山ふゆなぎやま、南に朱雀が宿る夏隠湖かいんこ、東に青龍の宿る春宵川はるよいがわ、西に白虎が宿る秋息大道しゅうそくたいどうをそれぞれ有しているからなのである。本来ならば他国に干渉することはご法度なのだ。有史以来、各国はその掟を守りながら暮らして来たはずなのである。

 しかしこの数年、大王は取り憑かれたように赤の国の併合を急いでいる。クスの目から見ても、焦っていると言ってよかった。なにか理由があるのか、あるいは本当に心を失ってしまったのか。他国に干渉をしない青の国も、民の半数近くが半獣人であり百年近く国を閉ざしている白の国も、この状況にだんまりである。

 即位時に賢狼大王けんろうのおおきみと号を授かった王は、かつてはその名の通り堅牢で強く自信に満ちていた。しかし、今やただの色に溺れた狂愚王と呼ばれている。せめて次代の大王に託せれば良かったものを、世継ぎの皇子はあのように蛮骨だ。星の巫女として黒の国を支えている誇りがあるからこそ、クスはこの国の未来を憂いている。今年数えで二十八歳になるクスは十二の頃に黒の国へ渡った。試験を受け、陰陽生おんようせいとして学び、こうして星の巫女となったのだ。

「我が国はどうなるのでしょう。わたくしは青の国の者ですが、陰陽生おんようせいになるために十二の時から黒の国におります。もう第二の故郷なのです」

「……クスよ、わしとて何も考えておらぬではない。まだ言えぬがな」

「──なんと?」

 眉根を寄せてクスが問えば、モモソはきっぱりと「今はきくでない」と遮った。モモソはつねに威厳に満ちた人物だが、少し様子がおかしいように感じる。しかし言えぬとはよほどの事情があろうとクスは判断し、「かしこまりました」と頭を下げる。

「娘を匿うこと、ご了承くださいますか?」

「言うまでもない。あの歳まで生きながらえたホムスビじゃ、殺めてはカグチと朱雀に申し開きがなかろうて」

「……翠流すいりゅうの君におかれましては、八又門やまとの首長と世継ぎの御子を殺害してしまうなど、愚かしいことを」

「大王のご命令じゃ、皇子も期待には応えねばならん。そなたも口が過ぎることがある」

「──ご容赦を」

 クスは深々と礼をしその場を去ろうとしたが、モモソは穏やかに笑ってその背に言った。

「そなたは揺るぎない信念と善悪を見極める力を持っている。星の巫女は弱き者、民のためにあるのじゃ。ナツハナにもよくよく教えておあげ」

 モモソからそう評され、クスは驚きつつ光栄に思う。

「そのつもりでございます。わたくしもあの子には期待しておりますの」と大きく頷いた。クスが星の巫女として誇らしいことは、モモソが玉響たまゆらの乙女であることである。清廉潔白で厳かな陰陽頭おんようのかみがいるからこそ、クスは黒の国で陰陽師としてありたいのだ。

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