第十二湯 教習所!(学科編)
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
昼下がりの日曜日。外はうだるような暑さで、アブラゼミが悲鳴を上げるように鳴いている。ジメジメとした外気の熱さ加減が窓を通して伝わってくるので、私たちは窓から少し離れて座っていた。
私は喫茶レリーフのソファー席で夏帆と向かい合っている。テーブル下を流れる足湯は、普段よりもヌルく、どちらかというとビニールプールに足を付けている感覚に近い。店内はクーラーが涼しい風を静かに送り出し、シーリングファンがその空気を掻き回していた。
夏帆は自動車免許の教本をテーブルに広げて、大学入試を来週に控えた受験生のように唸りながら問題集を睨みつけている。
その対面に座っている私はパソコンを開いて、繋いだイヤホンで耳を塞いでいる。ブラウザで開かれたYoutubeでは焚き火の動画が流れている。薪の爆ぜる音を聴きながら、たくさんのタブを開いて調べ物をしていた。
調べている内容は、アメリカ横断について。伊豆ドライブの後、自分のやりたいことをいくつか挙げてみた。そのなかで一番壮大な目標として定めたのが『ロードスターでアメリカ横断』だった。
西海岸サンタモニカを出発し、ルート66をドライブしながらシカゴを経由し、その後ゴールのニューヨークを目指す、というルートを考案してみた。
全工程3000マイル。――5000kmくらいだろうか。一日6時間くらい走るとしても9日以上は掛かりそうだ。さらに日本とアメリカの往復を踏まえると、余裕を持って2週間くらいは必要な気がする。そんな長期的な有給休暇を取れるのかと問われたら、はっきり言ってかなり厳しい……。
休みを充分に取れるとして、次に問題となるのはお金である。時期にもよるだろうけれど、日本とアメリカの往復であれば飛行機で20万円はかかるだろう。その他には、食事、ホテル、ガソリン等など。
そして一番の問題は、ロードスターをどうやってアメリカまで運ぶかである。考えられる輸送方法は、エアカーゴと船くらい。エアカードなら短期間で輸送できそうだけれど、3ケタはくだらない。船ならある程度費用は抑えられるけれど、それでも給料3ヶ月分くらい掛かりそうだ。
……頭が痛くなってきた。想像していた以上に時間もお金も掛かるな。やっぱりそう簡単にはいかないか。
壮大な夢であるがゆえ、現実味もなくて諦めに近い気持ちになってしまう。
ちょっと休憩しよう。
腕をググッと伸ばし一呼吸。
コーヒーに口を付けながらYoutubeをいじる。動画横に並ぶサムネイルをスクロールしていると、ロードスターのサムネイルが目に入った。
何の気なしにタップしてみる。ロードスター乗りの女性がアニメや漫画の聖地をドライブする動画らしい。
那須塩原のもみじライン、鹿の湯から1時間ほどの距離にある観光道路。投稿日時から見るに最近撮られた動画のようで、夏の新緑の中を気持ちよさそうに走っていた。安全運転すれば、現実世界では横転するようなことはなさそうだ。
動画の最後には投稿者から「お知らせがあります!」という言葉があり、『スターゲイザーミーティング開催!』というテロップが流れた。
どうやらロードスターのオフ会の名称らしい。しかも女子限定のもの。たしかにオフ会というと出会いを求めて寄ってくるハイエナがいるイメージがある(※個人の見解です)ので、女子一人でも参加しやすそうだ。
ロードスターのオフ会にもいつか行ってみたいけれど、なかなか踏ん切りがつかない。オフ会だろうが女子会だろうが、コミュ症にとっては同じもの。知らない人たちの集まりに参加するのは、かなり勇気のいることなのだ。
このオフ会はどこをドライブするんだろう。
動画に集中していた私のふくらはぎに何かが触れてきた。夏帆の足である。柔らかい感触に驚いて足元で飛沫を上げながら前を向くと、夏帆がビシッと挙手していた。
イヤホンを外しながら「どした?」と問うと、
「サヤ先生! 黄色信号は『急いで通り抜けろ!』って意味ですよね!?」
などと危ない走り屋みたいなことを言い出した。
眼がマジだ。本気で言っているのか!?
「……黄色も赤と一緒。基本的には『止まれ』だよ。急に止まると危ない時、例えば、すでに交差点に入ってるとかなら進んで良いけど」
「そうなの? あの黄色は急かすためにあるんだと思ってたよ」
純粋無垢な顔で問題集に視線を戻した。
……こんな子に免許を取らせて良いのだろうか。
「常に安全に倒すこと。それが運転に必要なことだよ」
「なるほど」
メモメモと夏帆は頷きながらペンを動かし、ピタッと動きを止めた。
「そういえば、教習所でもおんなじようなこと言われたなぁ……」
遠き日の記憶を辿るように瞳を細めた夏帆が続ける。
「あれは初めての学科での出来事──」
なんか夏帆の一人語りがはじまった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
今日は初めて学科教習を受ける日だ。
自転車で教習所に向かい、受付で教室の場所を教えてもらった。教習所に来るのは2回目。最初に来たときに、入校の手続きと適性検査、先行学科をクリアしていた。なので、これからが本番なのです。
ドキドキの気持ちを抑えきれない。一番乗りで教室に入って一番前の真ん中の席に着いた。その後、教習生が入ってきたけど、みんな後ろの方でまばらに座っていた。
あたし、先生との距離が近くないと不安なんだよね。遠くだと黒板見えなかったり、大事なとこ聞き逃しそうだし。
そんな感じで、周りに誰も居なくて寂しいなぁって思ってたら、教習がはじまる直前に一人の女の子が入ってきた。
アッシュグレーのショートカットに赤メッシュ。半袖のTシャツから健康的な褐色の腕を出していた。ちょっとヤンチャな学生さんという雰囲気だ。
その子はあたしの横にやってきて、機嫌の悪そうな表情で八重歯を覗かせてきた。
「姉ちゃん、新人さん?」
関西なまりの口調。めちゃめちゃ上から目線で言ってきた。というか、こっちが座って向こうが立っているから、上から目線はしょうがないんだけど。
教習所にも上下関係ってあるのかな。先に入校した人の方が偉いのかもしれない。郷には郷に従えってやつだね。
「はい! 今日が初めての学科教習です。よろしくお願いします!」
立ち上がってペコリとお辞儀する。顔を上げるとその子が消えた。あれ? と思って視線を下げると不服そうな表情と目が合った。あたしよりもだいぶ身長が低い。こうしてみると中学生くらいにも見える。中学生とかでも免許取りに来るんだなぁと思った。
彼女は横目を流しながらアゴをしゃくった。
「そこ、ウチの特等席なんやけど」
「ぬぬ、そうなんですか? ごめんなさい、初めてなもので!」
机の上に出したテキストと筆記用具を慌ただしく片付け始めると、彼女はフッと吹き出した。
「別にかまへんよ。やる気あるのはええことや。ほな、隣座らせてもらうわ」
そう言って並ぶようにあたしの左側に着席した。どうやら悪い人ではないみたい。
やがてチャイムが鳴って、教官のお姉さんが教室に入ってきた。黒髪のストレートロング、ピシッとしたジャケットとパンツスーツがよく似合ってる。
挨拶が済むと黒板に講習内容を書きはじめた。そして鈴のような涼やかな声で説明しはじめた。
「今回は、学科2番『信号に従うこと』です」
サヤちゃんはもちろん知ってると思うけど、教習所で学ぶ内容は大きく2つあるんだよね。
交通ルールとか運転知識を学ぶ学科教習、教習所内で運転を練習する技能教習。この2つの観点で試験を受けて、合格したら仮免許がもらえる。その後も応急救護とか安全運転の知識を学んだり、路上に出て実践的な運転を練習する。
あたしが受けてるのは仮免許前だから、第一段階の学科だね。
今回は、信号の赤・青・黄の意味、停止線について、などなど。
「では、実際の効果測定で出題された問題で確認してみましょう」
効果測定は、学科教習のまとめテストのこと。マルバツ問題で出題される。
ウグイス嬢のような綺麗な声で、教官のお姉さんは問題文を読み上げる。
「信号機の青色の灯火は『進め』の意味であり、車は必ず交差点に侵入しなければならない。マルかバツか」
教官のお姉さんは教室を見渡した後、最前列のあたしと目を合わせた。
「それでは、一番前のあなた」
あたしが指名された。教習所って学校みたいに指されるんだね。
手を挙げながら元気よく立ち上がる。
「はい! 茅野夏帆と申します。よろしくお願いします!」
教官のお姉さんは一瞬驚いたけど、すぐに微笑みを返してくれた。
「こちらこそよろしくお願いいたします。では茅野さんの解答はどちらでしょう?」
「青信号で前に進まないと後ろの車に迷惑が掛かると思います。なので、答えはマルです!」
だてに20年近く生きてないよ。日常生活で信号を見てきたし、お父さんの車にもよく乗ってきた。これくらいの問題は簡単──
「残念。不正解です」
「えへへ~……って、不正解!?」
なんで!? じゃあどのタイミングで前に進めばいいの!? もしかしてあたしは20年間交通ルールを間違えていたんじゃ……。
雷に打たれたような衝撃を受けていると、左の方で手が挙がった。あの赤メッシュの子だ。
教官のお姉さんが笑顔を向けながら指した。
「はい、雨宮さん。この問題がバツである理由を答えられますか?」
どうやら隣の彼女は、雨宮さんというらしい。
教官のお姉さんに指された雨宮さんは座ったまま腕を組むと、目を瞑って得意げに答えた。
「青信号は『進むことができる』って意味や。前が渋滞して、交差点の中で停止する可能性があるとか、つまり危険に思うときは進んだらアカンわ」
「あぁ、そういうことか」とあたしは手を打つ。
「たしかに歩いてるときでも、信号が青だからって左右を確認しないで渡ったら危ないもんね」
雨宮さんは不敵な笑みをあたしに向ける。
「せや、こないなのは実際の場面を想像して、より安全に倒せる方で答えるのがセオリーや。問題文に『何々しなければならない』とかあれば要注意やな。断定できる状況なんて限られとるからな」
「なるほど。……でも何だか、ひっかけ問題みたいで意地悪だね」
「ほんま、それな」と雨宮さんは目を瞑って頷き、
「大人達はいつやって卑怯な生き物や」
やれやれと首を横に振った。
コホンと咳払いが聞こえて、そちらを見ると教官のお姉さんがジト目になっていた。
「卑怯な大人でごめんなさいね……。でもこれが学科試験ですので、しっかり対策しておいてくださいね」
「「は、はい!」」
二人とも立ち上がってピシッと姿勢よく返事を返した。
こうして一時限目は終わった。
次の時限は『標識・標示などに従うこと』。
標識には本標識と補助標識がある。本標識は、交通規制を示す標識のこと。補足標識は、本標識の意味を補助するためのもの。
本標識には、規制・指示・警戒・案内の種類がある。「標識のベースとなる色がそれぞれ違うので、覚えるときの役に立つ」というのを丁寧に教官のお姉さんが説明してくれた。
赤色の規制標識は、禁止事項や制限事項を示している。『駐車禁止』とか『通行止め』とかの標識だ。
青色の指示標識は、その場所で定められていることを示している。例えば『横断歩道』や『駐車可』みたいなもの。
黄色の警戒標識は、運転中に注意すべき環境を示している。『学校、幼稚園、保育所などあり』という標識があるけど、これが指示標識の『横断歩道』と似ている。歩いている人の様子がまるっきり一緒に見える。これは色と標識の形の違いで覚えるのがよさそうだ。
案内標識は、色とか形が定まっていなくて色んな種類があるみたい。一般道でよくあるのが青色の『国道番号』とか。高速道路なら緑色の『サービスエリア』とか。道路の情報や施設の案内をしてくれる標識だ。
一通りの種類が説明され、再び教官のお姉さんから問題が出された。
「では問題です。こちらの標識の意味は何でしょう?」
黒板に張られたのは、青地に白色でV字が描かれた標識だ。
「分かる人は挙手してください」
今度は早押し形式で出題された。ボタンはどこにもないけど。
ふふふ。大学生をナメてもらっちゃ困るね。こんなの小学生でも答えられるよ!
誰も答えなさそうなので、あたしは自信満々に手を上げた。
「はい!」
「では、茅野さん」
「これは地図記号で『田んぼ』を意味しています。つまり『近くに田んぼがあるから注意』の標識だと思います!」
「…………」
教室がしーんと静まり返った。
その静寂を切り裂くように雨宮さんが口を開いた。
「田んぼの何に注意するんや」
「なんだろう。ぬかるみとか? あ、そういえば、あたし中学の通学中に自転車乗ってたんだけど、よく田んぼの側溝に落ちてたんだよ。あれは危ないから注意しないとダメだよ」
「いや知らんがな! っちゅうか地図記号やったら『畑』やろがい!」
「あれ? そうだっけ? じゃあ『近くに畑があるから注意』の標識だね」
「『じゃあ』ってなんや! 畑の標識でもないわ!」
雨宮さんが手のひらでビシッとあたしを叩いた。
教壇の前では、冒頭30分ほどの説明は無意味だったか……というような悲しみの表情を浮かべる教官のお姉さん。
「青色がベースの標識なので、指示標識か案内標識のなかで悩んでほしかったですね……。正解は『安全地帯』です」
「ぬ? ワインレッドの?」
「心ってな。……ってちゃうわ! あんた何歳やねん!?」
雨宮さんのツッコミもあって2時限目も無事しまった。
その次は『オートマチック車の運転』という講習。
サヤちゃんに教えてもらったように、教官のお姉さんもオートマ車とマニュアル車の違いについて優しく説明してくれた。
お姉さんが板書している中、雨宮さんがコソコソと小声で話しかけてきた。
「そういや姉ちゃんは、オートマとマニュアルどっちの免許とるんや?」
「あたしはマニュアルだよ」
板書をノートに写しながらそう答えると、雨宮さんは頬杖を付きながらニヤニヤした。
「へぇ、姉ちゃんみたいなポンコツでもマニュアル取るんやな」
これには抗議する必要がある。
「ぬ、失礼な! あたしだってカッコいい大人の女性になりたいもん!」
「いや、別に大人とマニュアルは関係ないやろ!」
ケラケラと嘲るように笑う雨宮さん。
むぅっとふくれっ面になっていると、あたしよりも怒りに満ちた表情の教官からお叱りが飛んできた。
「そこ! 騒がしいですよ」
「「ご、ごめんなさい!」」
再び二人して立ち上がり謝罪。
教官のお姉さんは溜め息をつき、腰に手をやって窘めた。
「お二人がマニュアルの免許を取ることは知っています。でもオートマとマニュアルの違いは知っておく必要があります。ちゃんと聞きましょうね」
「「はい……」」
あたしたちは頭を垂れて反省した。
「では雨宮さんに問題です」
教官のお姉さんは教科書をペラペラとめくり、ピタッと手を止めた。
「オートマ車のエンジンを掛けて、ギアをパーキングとニュートラル以外にします。このときアクセルを踏んでいなくても車が進む現象のことを何と言いますか?」
先程までしおらしくしていた雨宮さんは、その問題を聞いた途端気持ちがパッと切り替わり、腕を組んで自信満々に答えた。
「クリープ現象や。マニュアルで言うところの半クラやろ」
くりーぷ? なんだか美味しそうな響き。
「そうですね。オートマ車はクリープ現象があるので発進が楽になります。ただマニュアル車に乗る方々は注意が必要です。特に初心者の方は、坂道でエンストしてしまうケースが多いですね」
教官は黒板に坂道と車の絵を描いた。描かれた車は元気がないみたいだ。フラフラと坂道を後退していく様子が漫画風に表現されている。
その可愛らしいイラストを見る限り、たぶんエンストとは車が止まってしまうことらしい。
「それでは茅野さん。坂道発進で半クラの最中にエンストしてしまう場合、何が足りていないと思いますか?」
は、半クラ? ってなんのこと? 半クラ半クラ半クラクラ、頭がクラクラしてきた……。
車関係で『クラ』から始まる単語……? あっ、それならアレしか(知ら)ない!
「やっぱり、車に対する愛情……じゃないでしょうか?」
「…………」
教室がシーンとなった。
教官のお姉さんは戸惑いながら頷いた。
「た、たしかに車を大切に扱うことは大事ですね。……ちなみに茅野さん、半クラって何の略だと思ってます?」
「クラクションを半分鳴らすことですよね。こう、車を応援する感じで『プッ!』って」
「いや『半分クラクション』ってどういうことや! 応援するんなら『全力クラクション』で鳴らさんかいっ!」
雨宮さんが手のひらでビシッとあたしに全力ツッコミを入れる。
「でも、思いっきり鳴らしたら車も驚いちゃうんじゃない?」
「いやいや、あんたの思考の方が驚きや!」
静かだった教室にドッと笑いが起こった。
ぬぅ、お恥ずかしい……。やっぱり知ったかぶりはよくないね。(ノ≧ڡ≦)テヘペロ
それからは明るい雰囲気が教室を包んで、楽しい学科教習になりました。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「こうして、あたしの輝かしい教習所ストーリーが始まったのです!」
夏帆はコーヒーを啜って、満足そうな顔で一息ついた。
対する私の眉は寄せられていた。
「いや、不穏だな……」
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