第二章 可視化された歪みとしての虐殺

第一節 クローバー炭鉱火災

 汽笛の音が聞こえた。


 ユーゴニアの炭鉱の多くでは、始業や終業等の合図に汽笛が用いられている。そのため周辺で暮らす人々は、ほぼ毎日間延びする甲高い音を聞いて過ごす。クローバー炭鉱においては、主に早朝と夕方に汽笛が鳴る。この炭鉱では、坑内労働はごとの交代制だからだ。

 その汽笛の音が鳴ったのは丁度夕方で、坑道の人員が入れ替わる時間だった。しかし、ダニエルはその音に違和感を感じた。

 彼とユリシーズは巡回の最中で、丁度炭鉱労働者の子供が通う学校の前を通りかかったところだった。ダニエルは馬上から辺りを見回した。

「今の何です?終業の合図じゃない」

 彼の感じた違和感の正体は、汽笛の音の鳴り方だった。終業の合図は長い音が一度鳴らされるだけなのだが、今日は短い音が三度鳴らされた。ユリシーズは眉間に皺を寄せて、炭鉱の方向を見つめた。

「署に戻るぞ」

 ユリシーズは馬を走らせた。ダニエルもそれに続いた。


 炭鉱の門に繋がる大通りに出ると、まばらに集まった人々がざわめいていた。ダニエルは馬上から彼らの会話に耳を傾けた。

「また事故かい?嫌だねぇ……」

「まったく、ただでさえ先月の業績が悪くて毎日どやされてるってのに……」

 ダニエルの馬は彼らの側を猛スピードで駆け抜けた。人々の姿が遥か後ろへと遠ざかると、乾いた蹄の音だけが響いた。



◇◇◇



 気づくと真っ暗闇の中に横たわっていたので、ヨルカは困惑した。戸惑いながらも身体を起こすと、手のひらに固く冷たい岩や砂が触れる感覚が伝わってきた。ここは彼女の仕事場――坑道らしかった。ランタンの明かりが消えているせいで、目を開けているのに何も見えない。

 ヨルカは、自身が先刻まで原炭を詰め込んだ箱を引っ張って炭車の待機している場所を目指していたことを思い出した。煙たい匂いがし、目には痛みを感じた。恐らく、どこかで炎が上がっているのだろう。爆発事故が起きたのだ。煙のしみた目からじわりと涙が溢れ出てくるのを感じて、ヨルカは目を閉じた。匂いが不快だったので、服の袖を鼻と口に押し付けた。彼女はそのままふらふらと歩き始めた。

 この先を進めば、昇降機のある第四坑道につながる斜坑があるはずだ。ヨルカはどこで爆発が起こったのか分からなかったので、ひとまず一番近いその斜坑を目指すことにした。

 真っ暗闇でのろのろと歩きながらも、彼女は内心ひどく焦っていた。再び爆発が起きれば、次に目が覚めるのは死者の国かもしれない。もっともアンドロ教典によれば、棺に埋葬されることのなかった人間は死者の国にたどり着けず現世を彷徨うことになるという話だったが。


 何かを蹴った感覚がした。それは冷たく硬い地の底には不釣り合いな、柔らかい感触だった。ヨルカはしゃがみこんで地面を手で探り、自身が蹴ったものを探した。何かが右手に当たったので、ヨルカはそれを掴んだ。掴んだそれは短い毛に覆われており、ところどころ毛の生えていない柔らかい皮膚――肉球があった。そしてほのかな暖かさを持っていた。彼女が掴んだのは人の手だった。

「おい!!爆発だ!!逃げるぞ!!」

 彼女はその手を握り締めて思わず叫んだ。そして煙を吸い込んで咳き込んだ。相手は返事をしなかった。

「おい……目を覚ませ……」

 彼女はその腕を引っ張った。すると腕は不自然なほど簡単に引き寄せることができた。とても軽かった。

「………………」

 彼女はすっと腕から手を放して再び立ち上がった。右手の平には握っていた手の体温がまだ残っていた。


 を見つけたことで、ヨルカが目を覚ました地点よりもこの地点の方が爆心地に近いことが分かった。恐らくこの先に待っているのは地上への出口ではなく地獄への入口だ。ちらりと目を開けてみれば、少し遠くで幽かに赤い光が揺らめいているのが見えた。煙のせいでまた涙があふれてきたので、彼女はすぐに目を閉じた。

 ヨルカは頭の中に坑内の地形を思い浮かべた。少し遠くはなるが、自身が目覚めた地点まで戻って反対側にある斜坑を使って上に上がるしかない。

 どおどおと地響きがした。爆発か、それともどこかで岩盤が崩れでもしたのか分からないが、彼女にできることは頭を両手で覆ってその場に留まることだけだった。彼女は身体をバラバラにされそうな揺れと轟音に耐えた。

 気づけば揺れは収まり、彼女の耳元で鳴り響くのは彼女自身の心臓の鼓動のみであった。ヨルカは再び歩き始めた。


 煙と熱さのせいで、まるで喉が焼けるようだった。ヨルカは何度も咳き込んだ。息をしても息をしても胸が苦しかった。頭の中を血がごうごうと流れている感覚がした。彼女はもはや、自分が何のために歩いているのかさえ分からなかった。ただ止まってはいけないような気がして、必死で足を動かしているだけだった。


「おい!誰かいるぞ!」

 誰かがそう叫んでいるのが遠くから聞こえた。ヨルカは一瞬、自分がどこにいるのか分からなかった。身体の前面に感じる硬い地面の感覚に、坑道の中から逃げようとしていたことを思い出した。その途中で倒れてしまったのだ。

「大丈夫か!」

 すぐ近くから声が聞こえた。誰かが彼女の肩を支えて身体を起こした。支えを得てふらふらと立ち上がりながら、ヨルカは目を開けた。ランタンの火に照らされて、自分を支えている男の着ている消防隊の制服が視界に映った。


 消防の隊員たちに連れられて地上へ向かっている間、ヨルカは呆然としていた。まるで夢でも見ているような感覚だった。地上にたどり着いた昇降機に飛び込んでくる夕方の眩しい光に、彼女は思わず目を瞑った。



◇◇◇



 ダニエルとユリシーズは警察署から馬を走らせ、竪坑櫓付近にたどり着いた。二人は先着の警官の元へ向かった。

「今どういう状況だ」

 ユリシーズが警官に訊ねる。

「中から出てきたやつによれば、第六坑道で爆発事故だそうだ。戻ってきた怪我人は病院に移送する準備中。今消防が下で救助に当たってる。とにかく野次馬が邪魔だから退かすのを手伝ってくれ」


 事故が起きたのが丁度夕方だったせいで、夜勤の坑道労働者が集まっていた。ダニエルは彼らと竪坑櫓の間に立った。

「落ち着いてください!退出して下さい!」

 ダニエルは銃を背負ったまま両手を広げ、声を張り上げた。

「お前ら、さっさと家に帰れ!」

 ユリシーズは銃を構えて労働者たちに向けている。

「おい中はどうなってんだよ!」

「同僚が巻き込まれたかもしれねえのに大人しく帰れるか!」

 労働者たちは口々に言い、ダニエルたちに詰め寄った。ダニエルは彼らの剣幕に押されて後ずさった。

「おい、煙が上がってる!」

 誰かが叫んだ。ダニエルは反射的に後ろを見た。立ち並ぶ竪坑櫓の足元から煙がもくもくと上がっている。向こうのほうで消防隊員と警官が、もう消火は無理だ!救助を切り上げて通気孔を封鎖しろ!と叫んでいるのが聞こえた。

「切り上げだと?!まだ人がいるんじゃないのか!」

 喧騒が更に大きくなった。ダニエルは落ち着いてと声を張り上げたが、その声はかき消されてしまった。うねる人の声の中、竪坑櫓から立ち上る煙はただ上へ上へと昇り続けていた。

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