第二節 歴史の幽霊

 ダニエルは黒い霊柩馬車から父の遺体の納められた棺が運び出されるのを、真新しい墓石のすぐそばで眺めていた。


 ダニエルの父親はサフラン市警の警部であった。数日前の朝、彼はうっすらと笑顔を浮かべた顔で「行ってきます」と言って家を出た。そしてそれきり帰ってこなかった。どうやら何らかの捜査のために珍しく現場に出ていたらしいのだが、まだ解決していない事件の詳細についてダニエルらが知ることは何も無かった。

 母や妹のすすり泣き、それから墓地を囲む赤や黄色の葉を持つ樹の枝に隠れているであろう小鳥の愛らしい鳴き声のみが辺りを満たしていた。

 ダニエルと、一番下の弟であるジョンは泣いていなかった。ジョンはダニエルやその妹であるルシアとは年が離れており、まだ5歳と幼い。彼はダニエルの服の裾を掴んで辺りをきょろきょろと見回していた。

 ダニエルはジョンの小さな手を取って服から手を離させた。

「男ならしゃんとしなさい」

 ダニエルはささやき声でジョンを優しく叱った。小さな手を空中に放り出されたジョンは、自分のズボンの裾をぎゅっと掴み、顎を引いて墓をじっと睨みつけた。拒絶されたのだと思って拗ねてしまったのかもしれない。ダニエルはそれを見てこっそり笑った。棺は墓石の前にぽっかり開いた穴のすぐ側まで運ばれてきて、中に納められた。


 ユーゴニア人口のおよそ八割を占めるアンドロ教徒の間では、棺は死者の国への門であると考えられている。死者は門をくぐると死者の国の王であり原初の人であるアンドロという男に迎えられる。アンドロは死者の皮を剥いで新しい皮に取り替えてやる。死者は、次の人生ではその新しい姿で生きることになるのだ。

 来世の身支度をアンドロに整えてもらった死者は、死ぬ前に生きた分の年月だけ「死者の国」を旅する。死者の国では時間は逆方向に流れるので、時が過ぎればすぎるほど、死者は若返ってゆくという。逆転する時間の旅を終えると、死者は再び地上へと生まれてくると信じられていた。



◇◇◇



 壁のようにそびえる建物は空を覆い隠さんとしている。その下に広がる道路は馬車と人々でごった返していた。

  ダニエルがサフランの街の雑踏を歩いていると、彼のすぐ側を自動車が通り過ぎた。彼はなんとはなしにその姿を眼で追った。屋根のない黒い車に乗る数人の男女の着ているスーツやドレスは、質の良い布でできているのが素人目にも分かった。

 ダニエルは交差点で道を曲がり、様々な店が軒を連ねる区画を歩いていった。彼は視界を流れてゆく店の外観をぼんやりと眺めた。そうしていると、女性用の毛皮のコートが飾られたショーウインドウと、喫茶店のレンガ造りの壁に挟まれた路地に、誰かが座り込んでいるのがちらりと見えた。ダニエルは立ち止まってそちらを見た。薄暗い路地に敷かれた新聞紙の上で男が項垂れていた。ドラコの男だった。ダニエルはしばしの間、冷淡な目で男を見つめた。人影に気づいたその男が顔を上げようとするのを横目に見ながら、彼は心なしか早足でその場を立ち去った。


「ダニエル!」

 再び街中を歩いていると、ダニエルを呼び止める声がした。振り返ると、恰幅の良いドラコの男が彼に向けて軽く手を振っていた。

「ムーンライトさん」

 彼は自分を呼び止めた男――ムーンライトに歩み寄った。

 ムーンライトはダニエルの通う大学の近くに建つレストランの店主である。彼は以前、ダニエルの友人に家を下宿先として提供していた。二人が知り合ったのもその友人がきっかけであった。

「お父さんのことは残念だったね。私も近頃は知り合いが立て続けに亡くなって悲しいよ。イマニュエルも一昨年に亡くなったから……」

 ムーンライトはため息をついた。

「ルフェリの伯父さんですよね。とても残念でした。彼が亡くなってあいつは大学を辞めてしまったし」

「イマニュエルとは同級生でね。昔はよく、もう一人の友人と一緒につるんだものだった。危篤の知らせを聞いて帰る直前、ルフェリはひどく動揺してほとんど喋らなかったよ。イマニュエルはあの子を自分の子供と差別せず大事にしていたから、懐いていたんだろうな。君も大事な人が亡くなって辛いだろう。何かあれば相談に乗るからな」

「ありがとうございます。実は……」

 ダニエルは石畳を横目に見やった。

「大学を辞めて仕事を探そうかと思っているんです。今日は手続きの準備のために大学へ顔を出すつもりで」

 ムーンライトは身を乗り出した。

「本当か?お母さんには相談したのか」

「それはもちろんしましたよ。お互い納得した上です」

 ムーンライトはしばしの沈黙の後、ため息をついた。

「そうか……。君は家族思いだな」

「そうでしょうか」

 ダニエルは表情を曇らせながら俯いた。

「仕事のあてはあるのか?」

「いえ、まだ」

「なら、俺の知り合いが――さっき言ったもう一人の友人というのがそいつなんだが、確か以前人手が足りてないと言っていた。良かったら紹介しようか?」



◇◇◇



 人工的な明かりが食卓の上に並べられた料理の表面を照らしている。ダニエルはムーンライトの自宅で、彼と向かい合って座っていた。人手を欲しているという友人に宛てた手紙の返事が来たため、ムーンライトの家で夕食がてら詳しい話をしようという話になったのだ。

 口の中のものを飲み込んだムーンライトが話し始めた。

「俺の大学時代の友人――ラースロー・ライムライトというんだが、そいつは炭鉱の所長をやっていてね。炭鉱警察/coal-mining policeの警官を募集しているのだそうだ」

「警察?」

 ダニエルはぽつりと口にした。

「炭鉱警察というのは、炭鉱とその周辺の街を管轄する警察組織だそうだ。銃を持つような仕事だから、体力のある男は大歓迎だと言っていた。ダニエルは上背もあるしスポーツも得意だからきっと大丈夫だろう。給料は月300オロだ」

「300オロ?」

「なかなか好待遇だろう?これから家族を養っていかなくちゃならない君には良い仕事だと思うんだが。ただ、家族と離れて暮らすことになってしまうが」

「それは構いません。是非お願いしたいです」

「分かった。明日また手紙を出しておくよ」

「ところで、場所はどこなんですか?」

「エーデルワイス州のアルストロメリア郡というところだ」

「そこって」ダニエルはやけに耳になじむ単語に首をかしげ、それから何かに思い当たったようにムーンライトの顔を見た。「ルフェリの故郷ですよね」


 ムーンライトに別れの挨拶をしたダニエルは、夜の街を歩いて自宅へ向かった。自宅のドアの前に立った彼は、既に眠っているかもしれない家族に配慮してゆっくりと扉を開けた。

「ただいま」

 彼は小さな声でそう言った。返事は返って来なかった。やはり皆眠っているようだった。だがダニエルは自分の部屋に向かう途中で立ち止まった。電灯の光が居間から漏れ出ていたからだ。ダニエルは一人首をかしげ、居間につながるドアを開けた。

「ルシア?どうしたんだ、こんな時間に」

「に、兄さん」

 妹のルシアがテーブルに本やノートを広げて座っていた。彼女の隣にはほとんどうつらうつらとしているジョンが座っている。ルシアはダニエルを見て本とノートを慌てて閉じた。

「勉強か?珍しいな。どうしたんだ」

「ええっと、ちょっと苦手な科目があって、テストが不安で……。でももう寝る」

「そうか。おいジョン、お前ベッドで寝ろ」

「んん」

 ダニエルは舟をこいでいるジョンを優しくゆすった。ダニエルは椅子から降りたジョンの手を引いて廊下に繋がる扉に手をかけた。

「ルシア、おやすみ」

「うん。おやすみ」

 ダニエルは居間のドアを閉めた。ダニエルが自室の前に立っても、ルシアが居間を去る気配は無かった。



 寝支度が済むとダニエルはベッドに入った。彼がサイドチェストのランプを消すと、タールのような暗闇が部屋を満たした。隣のベッドにいるジョンの幼い顔が、月の光によって幽かに浮かび上がっている。

 暗闇の中で子供の目に月光がきらりと反射して、隣のダニエルを見た。

「兄ちゃん寝た?」

 ジョンがダニエルに声をかけた。

「起きてるよ」

 ダニエルは目を開けて、ジョンのほうに顔を向けた。

「そっか」

「眠れないなら背中ぽんぽんしてやろうか、昔みたいに……」

 それを聞いてジョンは唇を尖らせた。ダニエルは笑い声を漏らして、天井に目をやった。

「どうしたんだ。何かあった?」

「そういうわけじゃないよ」

 しばらく沈黙が落ちたあと、ダニエルが静かに口を開いた。

「なあジョン、お前勉強は好きか」

「嫌いだよ。知ってるでしょ」

「そうだな」

 ダニエルはジョンの顔を見た。

「それでも、お前は大きくなったら大学に行けよ」

 そのとき、寝室の外からほんの僅かに廊下の軋む音が聞こえたが、ダニエルは気づかなかった。

「うん」

 ジョンが小さく返事をした。ダニエルはジョンのほうに手を伸ばした。そしてジョンの頭をぐしゃぐしゃと雑に撫でまわした。ジョンがやめてよとクスクス笑ったので、ダニエルも笑った。



◇◇◇



 汽車が到着したらしく、人がどっと吐き出されるように流れ出てきて、まるで駅という鉄骨製の怪物が大きなため息をついているようだった。

「じゃあ、行ってくる」

 大きな鞄を肩にかけたダニエルは改札の前で振り向き、家族の顔を見た。今日、ダニエルはサフランの街を去って、エーデルワイスに行く。家族とはしばしの別れになる。

「体に気を付けてね」

 母は心配そうにしていた。ダニエルは彼女を安心させようとするかのように、笑って頷いた。

「頑張ってね、兄さん」

 ルシアは明るい声で言った。

「ああ、お前も母さんのこと支えてやってくれ」

「うん……」

 彼女は少し表情を曇らせた。彼がどうしたんだと声をかける前に、ルシアの隣にいたジョンがダニエルのほうへ一歩踏み出した。

「兄ちゃん、いってらっしゃい!」

 ジョンは朝散々泣き腫らしたので、目がまだ少し赤かった。

「ああ、行ってきます」

 ダニエルはしゃがみこみ、ジョンと抱擁を交わした。



◇◇◇



 秋の透明で冷たい空気が肺を満たしたので、ダニエルは自分でも気づかぬうちに深呼吸をしていた。

 彼が列車を降りたのは、クローバーという名前の駅だった。客を乗せる列車以外にも石炭を出荷する貨物列車が運行するこの駅の正面には、山際の緩やかな斜面に沿って炭鉱街が広がっていた。そして街と山とに挟まれるようにして、青く霞んで見える大きな工場のような建物や鉄骨製の建造物、煙突がそびえ立っていた。

「ダニエル」

 ふと彼の名を呼ぶ声がした。ダニエルは駅舎の正面に佇む男に目を向けた。

「ルフェリ!久しぶりだなぁ」

 彼は男の元へと歩み寄った。


 ルフェリ・ホワイトアウトは猫のように大きな左右色違いの眼をした男だった。顔立ちはユーゴニア先住種族であるガタのそれだったが、混血である彼は一本の角を持ち、その手は鱗に覆われている。白いたてがみはドラコの男がするように長く伸ばして、三つ編みにしていた。大学を辞めた後エーデルワイス州民兵隊に入った彼は、少年のような顔立ちをしている割にしなやかな筋肉を纏う前腕をシャツの袖からのぞかせていた。今は丁度休暇の最中らしく、こうやってダニエルを出迎えに来てくれたのだった。

「お父さんのことは残念だったな。お前、俺の分まで勉強して立派な生物学者になってやると言ってくれたのに」

「約束を果たせなくて悪かったよ」

 ダニエルは肩をすくめて、困ったように笑った。

「別に責めたくて言ったんじゃないさ。ただ悲しいと思っただけで」


 ダニエルはルフェリが兵士になったのを、手紙のやり取りの中で知った。各州の保有する民兵隊/militiaは、州内の治安維持を担う軍隊である。ルフェリは現在一等兵――エーデルワイス州民兵においては伍長の下の階級――であった。士官学校を出て士官として入隊するのならまだしも、裕福な家の出である彼が兵卒になった理由を、ダニエルは詳しくは聞いていない。

「このあとすぐ署に顔を出すんだったな。頑張れよ」

 ダニエルはその言葉に笑顔を返した。

「ああ。また一緒に飯でも食おう」

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