第13話 完全に失われた書物
長期にわたる異民族軍掃討戦を行なっていたアンジェント侯爵軍が帝都へ帰参した。
すでに昇格していたわが中隊は、帝都で出迎えるために城門前で花道を作っていた。
手柄といえば名もなき異民族の御首くらいなくせに、多くの兵を無駄に死なせていた。
だから引き際を心得るのが武人としての第一なのだ。
ただ無抵抗なものをいたぶるのが好きな貴族に、兵権など与えるからこういう結果になる。
しかもアンジェント侯爵は命令を聞かず軍を返した私に刺客を放ってきた。
パイアル公爵の計らいでベルナー子爵夫人となった私は、帝都に残っていたアンジェント公爵の縁戚であるアイネ子爵の刺客をすべて捕縛していた。
そしてアイネ子爵は皇帝より謹慎を命じられ、軟禁状態に置かれたのだ。
最初は貴族なんてって思っていたけれど、異世界であれば爵位を持たないとなにかと自由に行動できない。
元の農家の娘では軍に指示を出すなんてことはできないだろう。
まあ貴族になればそれなりに職責もあるのだが、さしあたってパイアル公爵から求められているのは軍事の才能だけである。
この世界の文字にも慣れたし、軍務に関する事務処理も数をこなしていた。
時折パイアル公爵が私を訪ねてきて、軍事に関する知見を問われていた。
味方である以上才能を隠す必要もないので、『孫子の兵法』の知識を惜しみなく話せた。
それにひとつひとつ感嘆する公爵閣下を見ていると、少しでもお役に立てているのかなと安堵する。
せっかく爵位を授かったのに、能力が及ばなければ恥をかくのは私を引き立てた公爵閣下ご自身だ。
「では、味方の国が敵軍に攻められたら、その国に兵を派遣してはならんのだな?」
「はい、閣下。敵はその場にいるので準備万端整っております。その敵に疲弊して空腹のこちらが近寄っていくのは“倒してくれ”と言わんばかりです」
「そのときの最善はどのような策か」
「味方の国を攻めている敵国の首都を急襲するのです」
「それで味方の国が助かる道理がわからんが」
「それはですね、閣下。味方の国を攻撃していた敵国の軍が“首都を落とされる”と混乱に陥り、慌てて首都へ引き返してきます。おそらく夜を徹して一刻でも早く到着しようと急いで寝ずに満足に食べられずの状態になります」
「となれば、単に助けに行くだけとは立場が逆転するわけか」
「さようです、閣下。こちらは敵首都を攻撃する必要はありません。攻撃するぞと見せればよいのです。そしてじゅうぶんに休養をとり、睡眠をとり、食事して腹を満たします。疲弊した軍と満ち足りた軍のどちらが勝つかは自明だと存じます」
「なかなかに興味深い策だな。これはベルナー子爵夫人の独創によるものか?」
パイアル公爵は立派なあごひげを撫でていた。
「いえ、私は古の書物を読んだにすぎません。世の中には人知れず才ある者が隠れ住んでおります。たとえば私のように」
「そなたをわが軍に加えられたのは天命に近いな。これだけの逸材、世をくまなく探してもそうは見つかるまいて。ところで」
公爵の手が止まった。
「その古の書物とはどんな書名か?」
「残念ながら帝国図書館にも置いてはございません。“完全に失われた書物”なのです」
「そなたはその書物を読んだあと、それをどうしたのだ?」
「軍に関する重大な情報だと思い、火にくべて焼失しております」
世にひとつしかない“完全に失われた書物”というものが存在するのだろうか。
おそらく閣下はそう問いたいのだろう。
だから私が独創を遜るために“完全に失われた書物”と称して発言の裏付けに使っていると見られているのかもしれない。
「まあ焼失してしまったのなら致し方ない。そなたはその書物をどれだけそらんじておるのだ?」
「一字一句憶えているわけではございません。その文意をいくつか憶えているにすぎないのです」
「それでは本日から子爵夫人としての公務は別の者に代行させよう。そなたには、その“完全に失われた書物”とやらをできるかぎり思い出し、編纂に努めよ」
これは好機かもしれない。
この国でより高い地位、たとえば軍師となるには軍功がどうしても必要だと思われたが、著作が皇帝に認められれば、戦わずして軍師の座に就ける可能性も出てきた。
「ただし、いくら忙しくても陛下から出兵の命が下ったらそちらを優先せよ。それ以外の時間は書物の編纂だけに集中できるように取り図ろう」
「有り難きお申し出にございます。非才の身ですが、ただちに書物を一節でも多く書き起こしたいと存じます」
パイアル公爵は大きくうなずくと私を執務室から退かせた。
すぐに閣下の補佐役が駆けつけて、私の抱えている仕事を別の貴族へ割り振る準備に取りかかるという。
公爵は私の正体に薄々気づいていらっしゃるのではないか。
なぜかわからないがそんな気がする。
それほど私が受けている恩寵を論理的に説明するのは不可能だろう。
普通一介の農家の娘が志願兵となりあれよあれよと昇進して爵位を得たなどと聞いたら、アンジェント侯爵でなくとも疑問や侮蔑の念が起こらないはずはないのだ。
軍官吏のカイラムがよほど優秀でなければ、私は昇進どころか最初の戦闘での独断専行を問われて処刑されていてもおかしくはない。
だから、どうもこの国の一部の人に私の素性がバレている可能性は否定できなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます