秘めたる想い人 ③

 それは、彩夏が中学一年生の夏休み。

 一人銀杏地蔵の川べりに佇む彩夏は、川のせせらぎを聴きながら太陽の光を集めきらきら輝く水面を見つめていた。人知れず「ふぅ」と大きなため息が零れ出る。


「ミィー……ミィー……」

 どこからか、微かに鳴き声が聞こえてきた。辺りに目を配るがそれらしき姿はどこにも見当たらない。彩夏は耳を澄ませた。

 すると鳴き声は次第に大きくなり、こちらに近づいてくる。

 だが、その姿を確認することはできない。よく見ると川の上流から、段ボール箱が流れてくるのが見えた。鳴き声はその箱の中から聞こえてくるようだった。

「まさか……」

 頑丈に蓋がされているその箱は、既に七割程水に沈みかけていた。

 箱は川の中央寄りを流れているため、川に入らなければ箱には手が届かない。そうしている間にも箱はみるみる浸水していく。

「ミィー!ミィー!!」

 中で溺れているのか、掠れて裏返った鳴き声に変わっていった。

一刻を争う事態だ。

――このままでは死んでしまう

 彩夏は、手にしていたバッグを地面に放り出し、沈みかけたその箱を川べりに沿って追いかけた。箱はもう限界だった。

 制服が濡れることなど気にもせず、彩夏は迷うことなく川の中に入っていった。膝上まで水に浸かるとスカートは、水面に広がるように浮く。水に沈み潰れかけた箱を底からそっと掬いあげ川岸へ戻った。

 彩夏は、ガムテープを剥がし閉じられた箱の蓋を恐る恐る開けると、中から濡れそぼった一匹の子猫が現れた。

 その刹那、彩夏は宝物を見つけた子供のように瞳を輝かせた。

 それはまるで天使のようで。

「わぁ~なんて綺麗な子……」

 見たところ生後1か月くらいのその子猫は、全身真っ白な毛並みで覆われ、頭頂部に三センチ大のグレー模様があり、瞳は空にも海にも似つかぬアクアマリンブルーと春の息吹を感じさせるペリドットグリーンのオッドアイ、鼻と肉球は淡いピンク、真っすぐで真っ白な長い尻尾、それは美しくまさに神秘的な猫だった。

 彩夏はその子猫を天高くかかげた。

 目が覚めるような夏の紺碧の空に、真白な子猫は眩しく映り思わず目を細めた。

 まるで天使が舞い降りてきたかのように感じた瞬間だった。

 彩夏は満面の笑みで子猫にキスをした。

「よかったら私の家で一緒に暮らさない?名前は……」

「ミィーミィー」子猫は泣き続ける。

「ミィ……あなたの名前は……ミィ!」

 彩夏は、早速家に連れて帰り祖母に宝物を見せることにした。

「どうしたの、制服がずぶ濡れじゃない」

 祖母は深刻な顔をしていた。

「ちょっとね……それより、ねえ、見て!」

 彩夏は後ろ手に隠していたミィを祖母の目の前で披露した。

「あら、あら、なんて可愛らしい子かしらねぇ。ちゃんとお世話しなさいね」

「もちろん。だって、この子は私の宝物だもん……」

 彩夏は、濃いブルーの首輪に彩夏のお気に入りの鈴を縫い付けるとミィの首に巻いてあげた。

 ミィの首に巻かれたその鈴の音は、聞いたこともない規則性と突発性、予測性と逸脱性が適度に組み合わさった1/fえふぶんのいちゆらぎ。それは心地よく、聞くものの心に癒しを与える不思議な音色だった。

 ミィは、お手もおかわりもお座りだってできる犬のようにとても利口な猫だった。

 彩夏が椅子に座り膝をポンポンと二回たたくと、ミィは膝に飛び乗る。彩夏が勉強を始めると、ミィはどこからともなくやってきて、テーブルの上にゴロンと寝ながら勉強に付き合ってくれた。お風呂も一緒だ。布団に入ると追いかけるようにやってきて彩夏の布団に潜り込む。そんなミィは、まるで彩夏のボディーガードのようだ。

 彩夏は、学校以外の時間はいつもミィと一緒に過ごした。それが当たり前のようにミィも彩夏の後をついてまわった。

 登校時は、尻尾をピンと立たせ塀伝いに歩くミィは彩夏を見送った。帰宅時間が何時になろうとも、毎日塀の上で彩夏の帰りを待つミィ。いつもの場所で合流すると塀伝いに歩くミィと一緒に帰宅した。そんな毎日だった。

 彩夏とミィはいつも一緒だった。それは、ずっと続くものだと信じていた。

 中学生になった彩夏には友達がいなかった。でも彩夏にはミィがいたからちっとも寂しくなんかなかった。ミィは、殻に閉じこもった彩夏の心を癒してくれた。

 彩夏はミィには何でも話した。本当の自分をさらけ出すことができたのだ。ミィは彩夏の心の支えだった。いつしか彩夏にとってかけがえのない存在となっていった。

「ミィ、あなたを擬人化したらどんなだろうね。きっとイケメンだね。私達はずっと、ずっと一緒だよ」




 月日が流れ、彩夏が高校一年生も間もなく終わるという三月のある日、ミィは忽然と姿を消した。どれだけ探しても、どれだけ待ってもミィは帰ってこなかった。

 心の支えを失ってしまった彩夏は、再び殻に閉じこもり孤独な日々が始まった。学校では存在を消すように静かに過ごすようになっていった。彩夏は、心悟られないように嘘という防護服を身に纏い、見えない壁を作り上げた。

 いつしか笑うことを忘れ、夢も希望も失った彩夏は失望の日々を送っていた。

――ミィ、今どこにいるの?帰る場所が分からなくなってしまったの?会いたい……

 彩夏の永遠に叶うことのない願いだった。




 彩夏と深彗は二人並んで学校の坂道を下っていった。

 深彗は途中、不意に立ち止まる。彩夏も立ち止まり深彗に目を向けた。

 深彗は壁の張り紙に目を奪われているようだった。

「彩夏、良かったらこれ一緒に行かないか」

 それは、銀杏地蔵祭り開催告知の張り紙だった。規模の小さなお祭りだが、彩夏の地元では有名なお祭りだ。彩夏は、お祭りもここ何年か行くことはなかった。

――地元の幼馴染に会うかもしれない

 不安がよぎったが、楽しそうな深彗の顔を見ていたら断れなくなってしまった。

「うん、いいよ」

「本当に?じゃあ、楽しみにしているよ」

「うん」

 言葉少なげな彩夏は、寂しげな表情を浮かべていた。

 

 長い坂道を下っていくと、一匹の猫が二人の目の前を横切った。白、黒、茶の三色の三毛猫だった。二人はその猫に視線を送り道路を無事に渡り終わるのを見守った。

「可愛い女の子だね」

 彩夏はそう言うと、頬を緩ませ三毛猫を柔らかな眼差しで見つめていた。

「彩夏、どうしてメス猫ってわかったの?」

「三毛猫は遺伝子的にメスしか生まれない。まれにオス猫も生まれることもあるけどね。確率的に非常に珍しいことなの」

 一瞬彩夏の瞳が輝きを増したように見えた。

「そうなの?彩夏は詳しいね。ひょっとして猫好き?」

 彩夏は目を伏せ答えた。

「……猫は……」

 深彗にはどこか寂しげに聞こえた。

 今日の深彗は珍しく多弁だった。

「そういえば、文化祭の担当何になった?」

「クラスのイベント案内のポスターを任されたよ」

「へぇ……絵が描けるんだ……君の絵を見てみたい」

「そんな、人に見せられる程のものではないから……」

 彩夏は少しだけ恥ずかしそうにはにかんだ。 

「僕は彩夏のことをもっと知りたい。君のこと、教えてくれないか……」

 深彗は澄んだ瞳で彩夏を見つめている。

 彩夏の心臓がトクンと音をたてた。

 彩夏はなんて答えていいか分からず次に出る言葉が見つからなかった。

 ただ声を発することなく、コクンと頷いて見せた。

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