第二章『ふらここ』





生まれつき、彼女の名前は諷古という。

彼女の背中の翼の付け根にはそれはそれは小さな逆さ鱗があって、そこにその諷古という文字が記されていた。だから、諷古。その逆さ鱗は私が手で触れて見つけた。彼女の背中なのに彼女の手も届かない場所にあるから触ったことがあるのも私だけ。いつか彼女は毟ってくれと言ったのだけれど私はこれも彼女の一部であるのだから大切にしてあげたいと思ったことを覚えている。この諷古という文字が本当に名前なのかどうかも知るすべは無いのだけど、多分何かしらの贈り物に違いないと私が彼女を説得して私達は彼女の名前をそういう風に定めることとした。だからそれ以来彼女の名前は、諷古。

私の名前は、りり。

私は言わば何処にだって居る、つまり替えの効く火の粉。私は彼女が羨ましかった。生まれつき待っているものなんて、私には何も無かったから。彼女には鱗も牙も鉤爪もぎょろぎょろ光る目玉もあって、それに加えて名前まで持っていた。だから私は彼女と初めて目を合わせた時から彼女のことが羨ましくって仕方がなかった。けれど妬ましかったわけではない。諷古は諷古、私は私。仕方がないことなのだ。りり、という名前は諷古が付けてくれた。ちりちり細々と燃えていたから、りり。諷古は桃、だとか笹、だとか、おんなじ響きが二回続くことを好む。でも本人は気が付いていないから私だけの秘密。

今日は珍しくいつもはもっと上流の方に住んでいる大山椒魚のおじいさんが遊びに来ていた。私達が生まれるずっと前からこの川の上流に住んでいると昔語って聞かせてくれた。その時はまだこの世界の命も少なくて、随分と様々なものが混沌としていて、本来ならこの世界に肌が合わないものだってぐにゃぐにゃに色んなものと絡み合って暮らしていたという。

それを、主様が整理整頓、治めたのだと。

「やあ、久しぶりだな」

おじいさんはするりと水から上がって手を振りながらそう言った。

「おじいさん!」私が踊り駆け寄ると、

「おお、火花。今日も元気そうだな」と、ぴとぴと四本指と頭を撫でてくれた。

「水竜も」

そう諷古に声をかけると氷みたいに冷たい、

「ええ、そうね」

おじいさん曰く、シンシノタシナミであるらしいシルクハットとステッキを小さくお辞儀しながら諷古に手渡す。諷古がこれでもかとめんどくさそうな顔をしながら梅の木に立て掛けていたのが面白かった。諷古のこんな顔やそんな声を見聞きできることは少ない。だから私はおじいさんがたまにここにやって来て、そうやって諷古に関わるのを見るのが好きだった。

「何しに来たの、傘無」

おじいさんの名前は、サンム、という。カサナシでも良いと言っていた。私は、私の中のおじいさん像と山椒魚のおじいさんがとてもぴったり当てはまったから出会った時からおじいさんと呼んでいる。つまるところなんでも良いらしい。

「そうしかめっ面をするな、水竜」

おじいさんは諷古のことを水竜と呼ぶ。諷古は小さな竜で、竜にもいくつか種類があって、特に水と仲が良いと諷古もそう言っていた。諷古が川を泳ぐとゆらゆらも静かに水面が揺れる。翼を広げて水面近くを泳ぐ姿はとても綺麗だ。

諷古とおじいさんはどちらも水と仲が良いからか、昔はよく諷古がひとりでおじいさんの棲家へ訪ねていたこともあった。それに私が付いて行ったことは一度たりともない。どうしてだかは覚えていない。今ではもうほとんどそういった交流もなく、ごくたまにおじいさんが私達の元へ訪ねて来るのがもっぱらとなっている。

おじいさんが古ぼけた鞄から大きなイーゼルとカンバスに固定された画用紙、焦茶色のパステル、その他ごちゃごちゃした絵の具やパレットを取り出した。私はわあっと声を上げ楽しくなる。今度は燃やしちゃわないように、慎重にあんまり近付かないでおく。おじいさんは私が知るただひとりの絵描きなのだ。

「色がいっぱい!凄いねおじいさん!」

「ああ。ついこの間、藍と萌黄を新調してな」

「綺麗だね。今日は何の絵を描きに来たの?」

「何だと思う?当ててごらん、火花」

うーん、と私は辺りを見渡して、あ!

「もしかして、滝?」

私達の棲家に流れる小さな滝は空の色に反射して滝壺の奥は深い藍色をしている。その周りを覆う新緑はまだ緑とは呼べない甘ったるそうな黄。

「ご名答。手頃な滝はこの辺にしかないからな」

「そうだと思った!りりもあの滝はお気に入りなの。危ないからあんまり近寄っちゃ駄目だってふうからは言われちゃうんだけどね」

そう一息に言うと、

「だって」とふうが口を挟む。珍しい。

少し声を抑えて、

「…だって、危ないもの」

りりが水に濡れたら、困るもの、私。

「少しくらい平気だよ」

「消えちゃったら、どうするの?」

諷古は水のものだから火の粉が消えるということ自体よく分かっていないのだ。多少消えても私は平気、枯葉やまつやにがあれば更に楽勝。

「まあまあこの辺にしておけ、水竜。火花が言った通り今日は滝を描きに来ただけだからそう怖い顔をしてくれるなよ」

何もお前さん方の巣穴を荒らしに来たわけじゃないさ。

「怖い顔なんてしてないわ」

好きなだけ描いたら良い。

諷古が水を引っ掛けるように答えるから私は可笑しくなる。すると突然私の方を向いた。

「りり」

「なあに?」

「私、少し泳いで来てもいい?」

「うん、もちろんいいよ」

「ここを、少しの間任せても良いかしら」

「うん。大丈夫だよ、心配しないで」

傘無のことも、いい?

分かってる、大丈夫だから。私は手を振る。

「いってらっしゃい、ふう」

「いってきます、りり」

そう言い残して深い滝壺に潜って行ってしまった。大方、大きな魚を数匹捕らえて水底で数刻昼寝をしたらさっぱりした無表情で上がって来るんだろうな、なんて思う。

耳打ちなんてする必要ないのだけど私は小声でおじいさんに言う。

「ふうはね、いつもはこんなんじゃないの。普段はもっと優しいし可愛いの」

だけどね、

「外のものが来ると途端に駄目になるの。多分だけど、荒らされるのが怖いみたい。だからごめんね、おじいさん」

ふうのこと、許してくれる?

「ああ、もちろん分かっとるよ」

もう二千年の付き合いじゃあないか。おじいさんはにっかり笑って言った。

「相も変わらず、火花は優しいな」

おじいさんは私のことを火花と呼ぶ。初めておじいさんと会った時は夜だった、諷古と私とおじいさん、三人でここに横たわっていたのを覚えている。いぼいぼ頭に大きな口、濡れた岩みたいな長い尾っぽ!全身に纏うただならぬ湿度に私はとてつもなく圧倒された。そんな私に向かって、お前はぱちぱち光って弾けて綺麗だな!と言った。だからお前のことは火花と呼ぼう!なんて会って早々叫ばれた。諷古はいつもの表情で、りりが嫌じゃないなら、なんて言った。渾名を付けてもらえるのは仲良くなりたいことの表れだ。つまりはこれからもよろしくねという名誉の証。私はその時からこの渾名が大好きになったのだ。

多分だけどね、と私はこしょこしょ話を続ける。

「前もってお手紙とかトショバトがあればあんな風にはならなかったと思うの」

「そうだろうな。突然来たのが悪かった」

そう言いながらも悪びれた様子は一切なくおじいさんは大きな口でワハハと笑った。

「ただまあ一応最低限の信用はされとるようで良かったよ」

「信用?」

「大切なものを少しの間だけでも、他人に任せて水浴びしに行けるくらいには、ってことさ」

「大切なものってりりのこと?」

「そうさ。他に誰がいる」

よく分からなかったから適当に頷いて私は黙った。分かるけれど分からない。大切なものなら傍に置いておけば良いのに。肌身離さず身につけておけば失くしたりなんかしないのに。おじいさんは優しくて穏やかで好きだけれど時々難しいことを言うのだった。

「まあ奴はなんて言ったって水竜なんだ、なわばりはかなり気にする。あんなんでも獣の血が流れてるから多少は仕方ない」

許してやれ。そう言われた。

「許すも許さないも、りり、怒ってなんかいないよ」

「ああ、確かにそうだな。今怒るべきなのは儂の獣である部分であろうか」

「山椒魚の獣の部分?」

おじいさんは笑って、そうかもなあと言った。

また難しいことを言う。多分私が分からないのを楽しんでいるのだ、けれど私は気にしたりしない。

獣。私は獣をよく知らない。獣達は基本的に私のことが好きではないからだ。獣と呼べるもので私のことを好いてくれているのはおじいさんくらいしか思い付かない。なのにおじいさんは諷古を獣の類だと言う。

「ふうは獣なの?」

「さあなあ。半分半分じゃあないか」

半分半分なら何故諷古の半分の獣の部分は私と共にいるのだろうか。私のことが怖くないのだろうか。私にしてみれば、獣と諷古はとても遠い、真反対なもののように思えた。だって諷古は獣のように牙を剥き出して肉を剥ぎ取って怒り狂ったりしない。

一度だけ、そんな姿を見たことがあるけれど、本当にその一回きりだった。私を庇い守るためだった。けれど私はそんな諷古を怖いなんて思わなかった。本当の姿はなんて綺麗で美しいんだろうと思ったのだ。

それに獣達はみんなほとんど火が嫌いだ。昔、火はこの庭のものではないと言われたこともある。魔界へいけ、お前は魔界の住人だと追い払われそうになったこともある。それを唯一獣になってまで庇ってくれたのが諷古だった。ここに住もうと言ってくれたのも諷古だった。

獣達のなわばりについて少し考えた。私にとってのなわばりは酷く曖昧でぼんやりとした淡い円のようなものだ。誰が入って来ようと誰が抜け出ようと構わない、鍵など掛けない、柵すら立てない庭のようなもの。でも確かに諷古は違うようだ。諷古はここをあまり離れたがらない。食事の用意は魚に琵琶に木通に野苺に、私が好きな乾いたくぬぎに、よく干した魚の開きに、なんでもきっちり用意する。けれどそれ以外は私が連れ出さないと滅多にここを離れようとしない。

「ふうはここが好きなんだと思う」

そう私は私なりに結論づけて言った。すると、

「ここが好きなだけじゃないさ」

そうおじいさんが答えられた。固定された三脚のカンバスにがりがりと諷古が沈んでいった滝の絵を描いている。

「どういうこと?」そう聞き返すと、

「ここと、お前さんが好きなのさ」と返ってきた。私は少し考えて、

「なわばりと、りりが好き」

私はぼんやりと繰り返した。

そうさ。

「あの水竜はお前さんのためならなんだってやるだろうさ。それ以外にあるか?」

またワハハと飲み込まれそうな大きな口で笑った。






絵描きである山椒魚のおじいさんはいつもは川の上流の静かな岩場の影に住んでいるが、思い立ったら何処までもカンバスを引き摺って絵を描きに行くんだと昔聞いたことがある。

それなら一つのところに住んでいないで何処までも旅して回ったら良いんじゃないかと、私はその時聞いたのだ。すると、それも魅力的なんだがなあと答えて、だけどなあ。

「絵はここでだって描けるんだ。絵なんていうのは大概何処でも描ける」

「じゃあ、どうして?」

「水性なんだよ、絵の具がさ」

描いた絵を、カンバスを、置いておくに相応しいとびっきりの岩場が必要なんだ。木陰で風が良く通る適度に乾いた場所が。水に浸けてしまったら最後、色彩達はさらさらと流れて消えていってしまうから。

「だからこの世の多く、ほとんど全てがどうとでもなるものなのさ。拘るから不自由になる」

そんなことをぼんやりとおじいさんの隣で思い出していた。いつのことだっただろう。多分百年か二百年か、それくらい前のことだったと思う。

「おじいさん」

「なんだい、火花」

「りりの絵は描いてくれないの」

突然の思いつきだった。いつも言われる。りりは思いつき、ひらめきの子。だって考えたこと全て喉が言葉にしてしまう。私の心は間に合わない。

「お前さんはなあ」

おじいさんは困ったようにいぼいぼの頭を掻きむしった。

「なあに?」

「じっとしておられんだろう。いつも踊り狂って欠片を散らしておるからなあ」

儂は動いてるものを描くのは苦手なんだ。

「煌めきが眩し過ぎる」

そう言ってまたがりがりとカンバスに向かった。

「じゃあふうは?ふうは描かないの?」

私は性懲りも無く聞いた。おじいさんがめんどくさそうに顔を上げる。

「あいつもなぁ…」

「うん」

「あいつはじっとしておりすぎるだろう。動きが無さすぎる。それも考えものなんだ」

また困ったように先ほどよりも強くぼりぼりと頭を掻きむしった。

「いつまでも水底で丸まってるようじゃあ、駄目なんだよ」

諷古が竜の姿のまま、滝壺の深く底で尻尾まで丸めて目を閉じている姿を思い浮かべた。死んでいるかのように動かない。時折口から小さな気泡が漏れる。それ以外何の動きもない。魚も、水の流れも、滝の音も、何も無い。滝壺の抉れた深い水底で彼女はひたすらに目を閉じて何かを守っているのだ。それは多分私だとか、このなわばりだとか、私達を包む小さなもの全て。

「ふうん」と私は答えた。

諷古が居ないと全然面白くないなと思った。私は煌めいて眩し過ぎるなんて言われてしまうし。全然ちっとも嬉しくない。もし諷古も同じように思っていたらどうしよう。煌めいて眩し過ぎる私を守らなくてはならないと思い込んでいる無自覚で盲信的な水の竜。

嫌だな、とはっきりと思った。こういう、嫌だとか嫌いだとか、そういう悲しくてめげそうになる感情をはっきりと感じることは少ない。この前てふてふが死んだ時、強く強く、嫌だなと思った。悲しいと思った。でも諷古が居たから大丈夫だったし、何より命は巡るものだからまた何処かで会えると信じることができた。だから踊っていられた。涙を流すことができた。

「涙を流すことができるのは幸せなことだよね」

そう私はおじいさんに言った。

りりは幸せ者なんだ。

「だって本当に悲しい時はきっと涙も出ないに決まっているもの。体の中に溜まってしまった何処にもいけない涙が、巡り巡って悲しくなって新しい涙を生むんだもの」

そしていずれその涙に溺れて死んでしまう。それ以上に悲しいことってあるだろうか。

「お前さんは悲しいのかい」

そう問われた。分からない。あの日以来、私の中で様々なものが渦巻いている。諷古を無理に連れ出したこと、きのこ達の戦争を目にしたこと、てふてふを見つけて、そして私達の目の前で死んでしまったこと。

いや、元を辿れば私と諷古が初めて出会ったあの日から私の中で何かが渦巻き、とぐろを巻き始めたのだ。

「どうしてみんな、戦うの?」

どうしてみんな、戦って死んでしまうの?それを手に取り選んでしまうの?私は誰かを傷つけたりはしないのに、どうしてみんな離れていってしまうのだろう。

「みんな、お前さんのようにはいかないんだよ」

水竜だってそうだ。

「お前さんとここを守るので精一杯なんだ」

「りりは、守ってもらうほど弱くなんてないよ」

分かっているさ、勿論。そんなことは儂よりもあの水竜が一番よく知っている。けれどね、

「そうありたいと願ってしまうものなんだよ」

分からない、分からなかった。私は泣き出したくなった。私は子供だ。ずっと子供だから。

「りりが水に、足を浸せないのがいけないの?りりが、火の粉だからいけないのかな」

私と諷古が違うのがいけないのかもしれない。諷古が私を抱きしめられないのがいけないのかもしれない。あの日に出会ったきのこ達を思った。きのこ達は同じ種族なのにどうしてか戦争をして傷つき奪い合い泣いていた。てふてふを思い返した。てふてふは主様の元へかえると言っていた。同じ翅を持つ主様の元へと。そして最期は死んでしまった。私も、連れて行って欲しかった。この森を、変えて欲しかった。主様に、そう頼みたかった。

「さあ、どうだろうな」

おじいさんはカンバスから目を離さない。私は珍しく今日は膝を抱えたまま、おじいさんの隣で諷古が帰ってくるのを待っている。早く帰ってきて欲しいなんて思う。いつもは木の上でお昼寝したりどんぐりを取って来て火の粉で炒って遊んだりできるのに。

「りりとふうは、どうして違うの?」

そうおじいさんに聞くと、

「そんなことは、ないさ」

「そうなの?」

ああ、違わない。

「儂は昔、耳の大きな鮎と恋仲になったことがあるぞ。それはそれは目がぱっちりとしていて長い睫毛が愛らしくてな。狐のような耳がとても扇情的だった。本当に湖の底から愛していたんだ、番にまでなろうとした」

「うん」

私は息を呑んで話に聞き入った。

「だがな」

「うん」

「食っちまった!結婚式の前日にな」

ワハハと豪快に笑う。呆気に取られて私は何も言えなくなる、

「耳の軟骨は今でも残してあるぞ。今でも宝物だ。残した理由?ああ、消化に悪いからな」

儂は胃袋が弱いんだ。ワハハと笑い続けている。私は訳が分からなくなる。

「思い出したり、しないの?」

おじいさんは笑いながら、するさと答えた。

「たまに思い出しては絵を描くんだ。だがなあ、どうにも上手く描けないんだ」

耳の形だとか、ヒレの動き方だとか、左右の腹の模様だとか。

「儂はきっと、逆流に逆らって泳ぐあの姿が好きだったんだな」

わたしはぽかんとした。食べたくなるほど愛していたのか。なら食べなければ良かったのに。けれど私はおじいさんが好きだから諷古を食べることについて少しだけ考えてみた。

「諷古は、美味しくなさそうだよ。鱗は硬そうだし、何よりりりは、しっけたものはあんまり好きじゃないし」

「なら食べなければ良い。何も相手を食べることが愛すること全てではない」

火花よ。おじいさんが顔を上げて私の目を見て言った。

「お前はお前の愛し方で、水竜を愛せば良いのだよ」

私の愛し方。愛ってなんだろう。私は踊るのが好きだ、それを諷古に見てもらうのが好きだ。いつしかそれが日課になって当たり前になって日々に組み込まれていって、私はいつだって踊るようになっていた。そういうことなんだろうか。

私は諷古が思っているほど何も知らないわけじゃない。何も知らない子供じゃない。諷古が思っているほど弱くもないし良い子でもないし明るくて元気でもない。だからといって諷古の前で取り繕っているわけじゃない。けれどそれが全ておおやけになるのは少しだけ怖い気がする。

どうして諷古は私を守ろうとするんだろう。私を守らなくたって私はそこかしこに存在している。私はこの森で、この庭で、あまり好かれない存在で、けれど必ず息吹き続ける存在なのに。どうしてそこまでして諷古は私を、生かし続けようとするんだろう。どうしてよりによって私なのだろう。私は私のことがよく分かる、けれど諷古のことはよく分からない。もう二千年も一緒に居るのに何一つ彼女のことを知らない。

そんなことを思う時、私と諷古、共に居ても良いのか少しだけ悩む時がある。

「ほら」

おじいさんが短い指で滝壺を指差す。

「もうじき上がってくるぞ」

おじいさんが今度はくつくつと口元だけで笑った途端、ざばりと水の中から諷古が帰ってきた。手には三尾の鮭を抱えていた。なんだかんだと言いながら私の分と諷古の分と、それからおじいさんの分、それで三尾なのだ。諷古はとても優しいのだ。彼女の姿を見た瞬間、私の胸は晴れ渡って途端に嬉しくなってひゅんと舞い踊った。迎えに行く、濡れている彼女は私に触れるのを躊躇うだろう、それでも良い。多少火が消えたって別に良い。それくらい、彼女に会えて今日はなんだかとても嬉しい。

私は諷古の側に駆け寄って彼女の手を取って大きな声で笑った。

「おかえり!ふう!」

ああ。手を握り返されて、少し困ったように、そして少し照れ臭そうに、

「ただいま、りり」

そう笑って彼女も言った。






じうじうと私の分の魚からやっと油が滴り落ちてきた。油が滴り落ちるたびそれが焚き火と跳ねてぱちんぱちんと音を立てる。私はそれが好きでじっと飽きることなく眺めている。

諷古はそれが苦手だからいつもより少しだけ体が引いてしまっている。おじいさんは特に気にした風もなく、「ひい、ふう、みい、よお…」と知らない言葉で魚の鱗を数えているが途中で見失ってしまってまた初めからを先ほどから何度も何度も繰り返している。

「焼き上がったよ!」

私が声高に言うと、

「ではいただこうか」

「はい、頂きます」

私と諷古のふたり以外で食事を共にするなどいつぶりだろう。それも成り行きの行きずりではなく、きちんとお膳立てされているもの。誰かが狩ってきた命を誰かが起こした火を囲んでみんなで、いっせーのせで食べる。そんなことはいつぶりだろうか。

「それにしてもまだ居たのね、傘無」

ちゃんと三尾捕まえてきたのにそんなことを言う。私とおじいさんはにんまりと目配せをする。

そんなことにも全く気付かず諷古が薬指の爪で魚の腹を開いた。どろりとした血が溢れ出てくるから、それも溢さないよう彼女は最後の一滴まで飲み干す。

やれやれ。

「お前さんが居ない間、暇してた火花の相手をしていたのは誰だと思っているんだか」

全く…とおじいさんが首を振る。ついでに魚の尾っぽを持って左右に振る。

「りりはおじいさんと話せて楽しかったよ」

そう言うと諷古は驚いたように顔を上げて、

「そう。なら良かった」と少し微笑んだ。

私はそこまで子供じゃないのになあと、いびいびした気持ちが芽を出す。なんなら諷古、私達は同じ時に生まれたじゃない。双子のようなものじゃない。なのに貴女は。なのに貴女は、いつまでも。

「どんなことを話したの?」

「えっとねー、色んなこと話したよ。例えば…」

顎に手を当てて思い出しているとおじいさんが口を挟む。

「そりゃあもう色々さ」

「色々って?」

「色々は色々。なあ、火花」

私はまあいいかという気持ちになって、

「うん、色々」と誤魔化した。

「私はりりに聞いているのだけれど」

諷古は終始不満そうだ。少しだけ面白い。諷古は普段気持ちを滅多に表に出さない。気持ちというものがあるのかすら疑わしくなることだってある。なのに私と諷古の間におじいさんが入った途端、ほんの少しだけ眉と眉の間に皺が寄る。多分本人も気付いていない。多分この世界で、私とおじいさんしか気付いていない。つまり私とおじいさんだけの秘密だ。私は秘密が好き。ぱちぱち口の中で弾けて美味しい。

「まあそう怒るなよ水竜」

おじいさんが口角を上げて嗜めると、

「怒る?」

途端に皺は解けて諷古が呟く。

「怒るって一体なんなの?」

目をぱちくりさせて聞くものだからおじいさんはワハハと今日一番の大笑いをした。生白い、薄い桃色の口腔が見えた。そうか、この口にかつておじいさんの恋人だった鮎は一飲みにされてしまったのか。こんな愛じゃ、そりゃあ逃げられるはずもない。

諷古は一瞬呆気に取られて、そしてすぐにむうっと顔中に皺を寄せた。初めて見る表情だ。私はぱりぱりに焼けた魚にかぶりつきながらことの流れを見守っている。

「こりゃ傑作だな火花!優しく丁寧に教えてやれよ?」

諷古の柔らかい薄青い瞳がこちらを向く。少しだけ、あの日死んだてふてふの鱗粉の色に似ている。

「りりは知っているの?」

怒るってなんなのか。うーんと私は考えた。

「今のふうみたいなことかな…?」

私が困ってそう答えると諷古も困ったような顔をした。私が困ってしまったからそれが諷古にも移ってしまったのかも知れなかった。

「知らないことだらけね、私は」

諷古は丁寧に裂いた魚の腹から内臓を摘み取りながらそう言った。諷古は水のものだから魚も木の実も焼いたりしない。水分を多く含んだものをよく食べる。特に魚は内臓を好んでよく食べる、骨も肉も残してしまうくらいに。なのに、私の食べ物が充分に焼き上がるまで決して自分のものには手をつけず必ず私を待ってくれる。どうしてかは、考えないようにしている。

「りりも、知らないことだらけだよ。ふう」

私は思わずそう言っていた。諷古の困った顔に耐えられなかった。諷古は顔を上げずに、

「りりはりりのままでいいのよ。りりは、何も知らなくても良いの」

そう言った。その言葉が私の奥の核の辺りにぐっさりと突き刺さった気がした。魚を頭から食らうか尾っぽから食らうか、ずっとぺたぺた四本指で悩んでいたおじいさんがやっと頭から飲み込んだのが目の端に映った。私は何も言えなかった。諷古は優しくて穏やかで、私にしか見せない笑顔はとても可愛らしくて、それでいて少しだけ可哀想。私に囚われてばかりで、私に拘ってばかりで、それでいてこんな私に振り回されてばかりで可哀想。彼女はなんて不自由なのだろう。それに何の不満も、不安も、惨めさも、感じない。怒りも、悲しみも、挙げ句の果てには喜びも。そうすることが自分の生きる意味だと思っている。いや、そうとすら自覚していないかもしれない。私は気付いてしまった。気付かぬようにしていたことに気付いてしまい、そして、

「諷古は、かわいそう」

そう一言、私は彼女に向かってその言葉を放った。私は言ってしまってから、その、事の大きさに核を何か更に大きな杭で打たれたようになってしまった。動けなくなって焼いた魚は飲み込めなくなって、なのに轟々と体全体が燃え滾った。酷いことを、言った。私は諷古の瞳から目を離せなかった。なんて酷いことを言ってしまったんだろう。かわいそう、だなんて。なんて、無礼な言葉を。でも確かに諷古は可哀想で、何より私がそう諷古に対して思ってしまって、けれどそれを諷古に向かって何の葉っぱにもくるまずに投げつけてしまうのは違う。絶対に、違うのに。

これじゃあ紛れもない争いだ。私の嫌いな争い。私の知る狭い全ての世界で、一番嫌いな戦争だ。

諷古の瞳が水面のように揺れた。私はそれをただ見ていた。諷古の唇が湖面のように震えた。私はそれをただ、見ていた。ぱちぱちと、焚き火が唸った。三人で居るのに、まるで私達ふたりだけ世界に切り取られて、私達ふたりだけ時が止まってしまったみたいだった。永遠に感じられた時間が少しだけ動いて、諷古は少しだけ微笑んで、言った。

ねえ、りり。

「かわいそうって、なんなの?」

全身の炎が鎮火していくようだった。

ああ、馬鹿だった。私はなんて馬鹿なのだろう。どうして、どうして私は、彼女がまともに傷つくことができるだろうなんて、そんなことを頭から信じ切っていたんだろう。

吐息が、火の粉になってすぐに夜に消えた。







翌日の朝、目覚めるとおじいさんはもう居なかった。昨晩私と諷古はいつもと変わらず、彼女は水流に足をつけて、私はそれに寄り添うようにして乾いた干し草の上で眠りについた。おじいさんは寝心地の良い岩穴を見つけていたはずだが、このままだと絵が濡れると寝る前になって騒いでいたのを思い出す。

私は、まだ眠っている諷古の隣で昨日のことを思い返していた。諷古に可哀想だと言ったのだ。それが悪いことなのかは分からない。けれど私の核は痛んだ。きっと、可哀想を知らないひとに、可哀想をぶつけたことが私の炎を軋ませているのだと思った。こちらは石の重さを知っているのに、それを知らないひとに対して高いところから石を落とすような行い。そして諷古はその石をなんとも思わない。むしろ私から発せられた新しい美しい言葉だと思うだろう。なんて酷い行い。あまりにも残酷な行いだ。これはもはや争いなどではない。これは一方的な暴力だ。私は諷古に暴力を振るったのだ。

いつもより、目覚めるのにはまだ幾分か早かった。寝息を立てている彼女を起こさぬよう、私はそっと立ち上がった。私達が昨晩食事をした辺りに大きなカンバスが立て掛けてあった。そのカンバスには私達の棲家の小さな滝と、そこで遊ぶ私と、優しげに笑む諷古が描かれてあった。あろうことかその絵の中の私は水の中に入って踊っていた。深い藍色の中に膝より深く足を浸して、それを仄かに甘い萌黄が見守っている。笑い合い手を取り合う私達を中心にこの棲家が私達を守っている。おじいさんから見た私はきっとこういう風に見えているのだと思った。諷古と共に水に入って、足をもつれさせながら水の中でも遊び踊って、例え水流がわざと私の足を掬ってもちかちかと笑ってみせるような私なのだ。私は絵なんて描けない、持ったペンはぼろぼろと焼け焦げてしまう。だから私は絵のことなんて分からない。けれど私はこの絵がとても好きだと思った。なんて優しい、叶うことのない夢物語。叶わないからこそ、カンバスの私達は決して消えたりしない私達なのだった。

「りり?」

寝起きの声が後ろからした。諷古の声、何度聞いても落ち着く、気持ちが和らぐ、そんな声だ。私は振り返って答える。

「ふう、おはよう」

今日は早いね。

うん、りり。

「おはよう」

目を擦りながらにこりと笑ってそう言った。

「何してるの?」

「絵をね、見てるの」

おじいさんが、描いていった絵。

そう。

「じゃあもう傘無は居ないのね」

「うん。そうみたい」

「爺さんは早起きだものね」

欠伸をしながら諷古が茶化すようなことを言うので、

「仲良しだよね、ふうとおじいさんって」

笑いながらそう返すと次の瞬間、諷古の顔には全くもって心外だと書いてあった。私は思わず吹き出しそうになる。

「仲良しなんかじゃ、ないわ」

そう言いながら近寄って来て私の隣に腰を下ろす。

「でもりりには仲良しに見えるよ」

そう繰り返すと、仲良しなんかじゃ、ない、と彼女もまたそう繰り返して、

「私より、遥かにものを知っている。それだけのことよ」と、ムキになってそう言った。

私達が生まれた時、諷古は同じ水のものであったおじいさんに知らないこと、分からないことをたくさんたくさん聞きに赴いていた。魚の捕らえ方、毒きのこの見分け方、それから水のものと火のものが共に暮らしていく上で必要なたくさんのこと。それら全て、彼女がこれからを生きていくために頭に詰め込まなければならなかった事柄だったのだと今になってはそう思う。理由はたったひとつ。私という存在を守り、私とずっと一緒に居るため。あの頃から、あの日私達が出会ってからずっと、諷古は私にかかずらい続けているのだ。

「それに、」と唐突に彼女から言葉を続けられて私は少し驚いた。彼女はそんなに言葉数が多くないから。一度終わってしまった会話をもう一度結び直すようなことはしないから。けれど私はこの言葉の続きが分かってしまった。悲しい、悔しいことに。

「私が仲良しでいたいと思うのは、この世でりりしかいないもの」

微笑んで言う彼女に対して私はまたしても、可哀想という気持ちがふわりと浮き上がってきてしまった。やっぱり、可哀想なひと。可哀想で、なんて無知のひと。

「これ、傘無が描いたの?」そう問う彼女から目が離せない。

「うん、そうみたい」となんとか答える。

少し笑んで、「良い絵ね」

「どうして?」

「だって、ほら見て」

「うん」

「りりが笑っているもの」

彼女の顔を見ながら少しずつ呼吸が浅くなっていくのが分かった。

このひとは例え、どんな素晴らしい絵画にどんな素晴らしい自分が描かれてあっとしてもきっとなんの気持ちも浮かばないのだ。その絵の中に微かでも良いから私の破片を見つけてきっと柔らかく、この絵の中の彼女のように微笑むのだ。

りりがいる。ねえ見て、りりがいるよ。指差してそんなことを言うのだろう。こんなに嬉しいことってないわ、ととびきりの笑顔で。

「ねえ、ふう」

「なあに、りり」

私はおじいさんの絵を前にして、ふたりしてぺたりとしゃがみこんで、何処に飾ろうかななんて呑気なことを考えていた。木のうろはしっけちゃいそうだし、かといって干し草の上は日に焼けちゃいそうだしな。この世界のほとんどのことは、ちょうど良いところは見つからない。そういうふうにできているのだ。

「ふう、あのね」

「うん、りり」

微笑む彼女の顔を見つめていた。

その笑顔に、私も少しだけ微笑んだ。

「りり達ね」

「うん」

「私達、ね」

「うん」

目を離してはいけないと思った。ちょうど良いところなど見つからなくて、多分今までだって私達、騙し騙しやってきただけなのだ。彼女はここが好きで、私は外に行ってみたくて、だから彼女は何処までも一緒に行こうと言う。

彼女は青いてふてふなどどうでもよくて、私は主様に会ってみたくて、だから彼女は何処までも、地の果てまで行くと言うのだろう。何か欲しいものはないかと聞いてもきょとんとした目で大真面目に、りりがいれば何もいらないなんて言う。彼女は、水のものだとか火のものだとか、私が忌み嫌われていることだとか、何にも、何にも気にしていないのだ。本当に、純粋に、私さえ居れば良いのだ。だから私達は、駄目なのだ。

貴女は安息のこの地に留まりたくて、けれど私に天国はいらない。ここにはいない神様に歩いて会いに行きたいから。

だから。

「もう私達、ずっと一緒には居られない」

その言葉を彼女に手渡した途端、はっきりとした拒絶のような押し返しを感じた。その瞬間、はたりと諷古の瞳から雫が落ちた。それが涙だと気付くまで私はものすごく時間がかかった。

「泣いているの?ふう」

泣いているの?こんな私のために?

その雫はあまりにも綺麗で朝露のように見えた。私は彼女の全てを見た。気持ちの表出、くしゃくしゃの表情と震える唇と固く握られた拳。牡丹のように次々と滴り落ちる涙と下唇を噛み締める牙、薄っすらと滲む紅。全てが私に彼女の全てを訴えかけた。それを私は受け止めた。そうすることしか、今の私にはできなかった。

「どうして」

絞り出すような声で彼女は言った。

「どうしてなの、りり」

こんな時でも彼女は私の名を呼ぶのだった。

「ごめん。ごめんなさい、ふう」

ごめんね。

私は繰り返しそう言った。てふてふの時もそうだった、私は謝ってばかりだった。あの時も無力でただひたすらに自分のためだけに泣いていた。今はなんの涙も出てこない。

「りり、私は、りりのことずっと…、りりと一緒に、ずっと…」

言葉にならないものは涙になって体を巡って瞳から溢れる。溢れることが少ないひとほど洪水のようにどしゃぶりになる。

「傍に居るって言ったのに、どんな時も、

…外に行く時も」

ねえ、主様を探すんでしょう、りり。

「ずっと傍に居るって、約束したのに、」

どれだけ涙を流しても彼女はそれを拭おうともせず、彼女はただ私を見つめていた。薄青い瞳で私のことを見つめていた。その優しい瞳で私を離さないまま、彼女の両手は骨張った竜に戻り、その鋭利な鉤爪を容赦なくカンバスを突き立てた。

「ふう!」

止めようとした時にはもう既に遅くて、おじいさんの絵は彼女の鉤爪でいとも簡単に破られた。私達の笑顔は、ずたずたに引き裂かれていた。他でもない、私のせいで。

「嘘つき」

ぐさり、朝の匂い。

焚き火の跡と、忘れていった絵筆がひとつ。

諷古の顔はくしゃくしゃに丸めた画用紙みたいで、涙の跡は火傷したように爛れていた。

諷古は水とは仲が良いけれど、塩の水とは仲が良くない。そう言っていたのに、ちゃんと知っていたのに、私は諷古を泣かせたのだ。

こんな顔も、こんなケロイドも、こんな鉤爪も、ぜんぶぜんぶ初めて見た。

獣なのだと私は思った。二千年もの間、大事に大事に仕舞い込まれていた彼女の中の半分だけの獣がとうとう今日顔を出したのだ。他でもない私が、彼女をそうさせたのだ。

「りりの、嘘つき」

ざばりと水中に消え去った彼女、いとも簡単に私は置いていかれた。こんなことは初めてだった。いつだって彼女は私を待ってくれて、置いていくのは私だった。彼女を待ってあげたことが、一度だってあっただろうか。私は水流を眺めながらそう思った。追いかけたかった、けれどそんな資格なんて無かった。

溺れないでね、なんて他人事のように思った。どうか溺れたりしないでねと私は密かにいつも、水に入っていく彼女を見るたびそう思っていた。ずっと今でも言えないままでいた。

手を足の前で組んで私は静かに丸まった。ああ。どうしてこんなに胸の中心が痛む。彼女の笑顔ばかりが脳裏に浮かぶ。彼女の背中の逆さ鱗を思った。これから誰が彼女を諷古と呼ぶんだろう。背中に名前が書いてあるからこれからも、たくさんたくさん、みんなからそう呼ばれるんだろうな。そうあって欲しいと心の底から思った。ほんの少しだけ、それが寂しいと思ったけれどすぐに火の粉で灰にした。

ああ、そうか。明日からはひとりで何もかもをやらなければならないな。ああ、そうだ。その前におじいさんに、絵を破いてしまったこと、ちゃんと謝らないといけないな。昨日たくさん話をしてくれたこと、一緒にご飯を食べてくれたこと、ありがとうってちゃんと言わないといけないな。そして三人でご飯を食べるのはあれが最後になりました、とちゃんと声に出さないといけない。

ああ。破けたあの絵はつぎはぎにでもしたらどうにか元のままに戻るだろうか。元通りになったとして私達がまた共に笑い合える日など来るだろうか。

来ない、来ないな。永遠に。そうさせたのは、この私だ。

ああ。ぼやけた空気にくるまって思った。もう少しだけで良いのです。もう少しだけ、このままで居させてください。

「これで良かった」

私はひとりごちた。これで良かったのだよね、これが良かったのだよね。これが私の愛なのだとそう信じた。こんな身勝手な愛は他に無いだろうな。なんて言ったって私は嫌われ者なのだから。緑と水のこの森で最も嫌われる火の粉なのだから。だから仕方がないのだよね。

ねえ、おじいさん。

ねえ、きのこ達。

ねえ、争いごとよ。

かつて私を追い出そうした全ての命のもの達よ。

教えて、私の主様。私が生まれた意味を。

「ねえ、諷古」

お願い、応えて。私の声に、どうか応えて。

涙がじわりと蒸発して、ああもういっそ殺してやりたい、涙も流せない憎い体よ。

良かったじゃない、りり。そう、水流に映る歪んだ私が言った。

良かったじゃない、りり。喪う前に喪わずに済んだんだから。だから良かったじゃない。りり。

そうだ、そうだよ。永遠なんて一瞬さ。泣けなくて悔しくて散々ひどい顔になっても、それでも明日を生きていけるさ。どんなに声が聞きたくたって、一度突き放したものならば二度と私の元へ帰ってくることはないさ。

さらばネイビー、私だけの貴女。

さらば薄花、私だけの瞳。

「りりはいつも、りりのことばかりね」











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