第10話、愚痴
アデリーナがオルステッド帝国に来て早数か月。結婚して数か月。喫茶店を開いて数か月が経過していた。あっという間の数か月だが……アデリーナは未だに、夫であるルクシオン公爵の顔を見ていないし、ろくに挨拶もしてない。
領地の視察で屋敷を空けたり、王城に泊まり込んだりと忙しい。たまに屋敷に帰ってくれば、アデリーナが留守でいなかったりと、どこまでも間が悪かった。
そんな間の悪いアデリーナは、今日も喫茶店でコーヒー淹れている。
相手はもちろん、常連客のカルセインだ。
「うまい」
「ありがと」
微笑むカルセインに、微笑みで返すアデリーナ。
カルセインにコーヒーを淹れた後は、自分のコーヒーを淹れてカルセインの前に。カウンター越しにする会話も、数か月でかなり馴染んだ。
会話の内容も、決まっている。
「はぁ~……ねぇ聞いてよ。昨日も旦那が帰ってこなくてさ……帰ってこないのは忙しいからなんだけど、あたしはろくに挨拶もしてないのよ? 少しは気にならないのかしら」
「忙しいのだろう? どんな仕事をしているんだ?」
「えーと……ナイショ」
「なんだそれは? まぁいい。その……旦那が気に入らないのか?」
「そんなことないわ。こうして喫茶店でコーヒー淹れることができるのも、旦那のおかげだしね。向こうが離縁するって言ったらどうにもならないけどねぇ」
現在、喫茶店の維持はアデリーナが公爵夫人として動かせるお金で賄っている部分が多い。仮に離縁したら、店を維持することは困難だろう。
ササライ王国にある実家からの支援も不可能に近く、アデリーナに帰る場所はこの店しかないので、喫茶店を閉めて町で働く方がよっぽど現実的だ。
「美味いコーヒーが飲めなくなるのは困る。いつでも力になるから、頼って構わないぞ」
「なにそれ? ふふ、勘違いしちゃうかもよ?」
「……こほん」
カルセインの頬と耳が、ほんの少し赤くなる。
つられて、アデリーナの顔も赤くなる……自分のセリフで照れてしまった。
お互いに、既婚者。そのことは理解している。
アデリーナは、カルセインとの会話が一日の楽しみだった。
カルセインもまた、アデリーナと話すのが楽しみだった。
「「…………」」
互いに、無言でコーヒーを啜る。
少しばかり、妙な空気。
するとカルセインはコーヒーを飲み欲し、立ち上がった。
「あー……その、仕事に戻る。また来る」
「え。ええ……い、いってらっしゃい」
「……ああ」
いってらっしゃい。
そう見送られ、カルセインは胸が温かくなるのを感じていた。
◇◇◇◇◇
アデリーナは、店の掃除をしながらため息を吐いた。
「あ~……ヤバいかも」
「好きになってますね。彼を」
「うん……って、エリ!? ななな、何言って!?」
「わかりますよ」
エレンことエリが、ホウキを片手にアデリーナの傍へ。
こほんと咳払いをして、少し厳しい顔で言う。
「駄目ですよ、アディ……アデリーナお嬢様は、ルクシオン公爵夫人なんですから」
「……わかってるわよ。でも、彼と話すの、楽しいんだもん」
「……恋を知らずに結婚したお嬢様にとって、彼は初めて心を許せる異性になった、ということですね。気持ちはわかります。でも……ルクシオン公爵家に嫁いだおかげで、あの方に出会えたのですから、皮肉な話ですね」
「……そう、ね」
公爵家に嫁がなければ、この喫茶店を買うことはできなかった。
結婚しなければ、喫茶店のマスターになれなかった。
そこで誰と出会い、恋をしても……もう、その恋は叶わない。
喫茶店のマスター、アディは既婚者。ルクシオン公爵のアデリーナ夫人なのだ。
「……お嬢様。それに、彼も既婚者です。どちらも決して、幸せには」
「わかってる!! ああもう、言わないでよ!!」
「……申し訳ございません」
「あー……あはは、けっこうキツイわね、これ」
アデリーナは、ホウキを置いて椅子に座った。
すると、エリはアデリーナにコーヒーを淹れる。
「砂糖、ミルクたっぷりです。落ち着きますよ」
「ん、甘い……甘すぎ」
「甘いの、好きじゃないですか」
「まぁね。最近は、彼に合わせて苦いの飲んでたから……」
「……大人になったんですね」
「大人、かぁ……」
コーヒーを飲み、アデリーナはため息を吐いた。
結婚して数か月経つのに、未だに顔も見せず挨拶もしていない旦那様と、喫茶店で優しい笑みを浮かべ、アデリーナの淹れる苦いコーヒーを好きだという青年。どちらが好きかと言われれば、答えなんて聞くまでもない。
「あ~~~……離縁したい」
「お嬢様」
「わかってる。わかってるってば……もう、辛いわぁ」
アデリーナは、自覚した。
アデリーナは、『彼』が好きになってしまった。
また、コーヒーを飲みに来てほしい。また料理を食べて欲しい。
カウンター越しに、いろんな話をしたい。
でも……客とマスターとしてのラインは、決して越えられない。
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