第4話、お仕事
ルクシオン公爵家に来て、一か月が経過した。
公爵邸にも慣れ、公爵夫人用の執務室にも慣れた。柔らかな椅子は座り心地がよく、書類が積み重ねられたテーブルも広々としている。
アデリーナは、積み重ねられた書類の上に、一枚の書類を置いた。
「はい、今日の執務は終わり……はぁ、まだ午前中なのに終わっちゃったわ」
「おじょ、奥様。今日も行かれますね?」」
「当然」
エレンの問いに、力強く答えた。
アデリーナはエミリオを呼ぶ。
「お呼びでしょうか、奥様」
「仕事が終わったから、今日も出かけるわ」
「かしこまりました。では、お準備を」
「エレンに任せるから大丈夫よ。それと、帰りは夜になるから……旦那様は、どうせ帰って来ないんでしょう?」
「……はい」
公爵家に来て一ヵ月。アデリーナは、未だにルクシオン公爵ことカルセインに会っていない。
結婚したはずなのに、旦那様の顔も知らないとは……と、アデリーナは苦笑した。エミリオも申し訳なさそうだが、どうしようもない。
「その、旦那様は王城にて残務処理が」
「わかってる。あの、ルクシオン公爵様ですもの……忙しくない方がおかしいわ。結婚式もやる暇がない、結婚相手の顔も見る暇がない、よっぽど忙しいのね」
いずれは会うだろう。それに、公爵夫人としての『役目』だってある……この国の筆頭公爵であるルクシオン家に『跡継ぎ』は必要だ。
覚悟はできているが、身体だけを必要とされているのも気分が悪い。当然、顔や声には出さないが。
アデリーナはエミリオに言う。
「お昼も夕食もいらないから、この部屋の掃除だけよろしくね」
「かしこまりました。あの、奥様」
「ん?」
「その……奥様は、どちらにお出かけなのですか?」
「……ふふ、秘密」
アデリーナはいたずらっぽく笑った。
◇◇◇◇◇◇
「ブティックか、劇場か、宝石店か……」
エミリオは、メイド数名に部屋の掃除をさせ、机回りだけ自分で掃除していた。
重要な書類もあるので、メイドに掃除させるわけにはいかない。
エミリオの呟きが聞こえたのか、メイドの一人が言う。
「エミリオ様、いいのですか?」
「……何がだ?」
「奥様ですよ!! 公爵夫人とあろう者が、毎日毎日遊び歩いて……」
「だが、仕事はきちんとやっている。それに、金遣いが荒いわけでもない。何をしているのかは知らないが、飲み歩いているわけでもないし、問題はない……」
「でも……お、男とか」
「…………」
エミリオは否定できなかった。
アデリーナの気持ちもわかる。まだ十七歳、もうすぐ十八で成人とはいえ、メイドの一人を連れて生贄同然にオルステッド帝国に来たのだ。事前調査で、アデリーナはササライ王国のシシリー公爵家の次女だが、愛人の子供で、シシリー公爵家ではいい待遇ではなかった。
オルステッド帝国は、ササライ王国より発展している。
顔も見せない旦那様より、外で遊ぶ方が楽しいに決まっている。それに、公爵夫人としての仕事もきちんとこなしている。
もしかしたら、このまま離縁した方がアデリーナには幸せなのかもしれない。だが、ササライ王国から送られた『婚約者』を無下に突き返すわけにもいかない。
ルクシオン公爵こと、カルセイン。
帝国最強のソードマスターにして、帝国と王国の間に出現した『魔王』を屠りし者。巷ではカルセインを『勇者』と呼ぶ者も少なくない。
そんなカルセインと結婚し、すぐに離婚となれば、アデリーナの立場も、カルセインの立場も悪くなる。
そこまで考え、エミリオは決めた。
「……旦那様に手紙を送る。一度、屋敷まで帰り奥様に挨拶だけでもするように、と」
「エミリオ様……顔色が悪いですけど」
「ははは。大したことないよ」
顔色だけでなく、エミリオの胃もキリキリ音を立てているような気がした。
◇◇◇◇◇◇
さて、言われ放題のアデリーナだが。
現在、アデリーナは買い取った喫茶店の二階で着替えを済ませ、薄い金色のウィッグを付けた。
服は平民の普段着にエプロン、薄い化粧、頭には三角巾を巻いている。
「ふふ、完璧!!」
「お嬢様、下ごしらえは全て終わりました。それと……看板も」
「お、いいわね。というかエレン……お嬢様は禁止って言ったでしょう? それに、私はもうお嬢様じゃなくて公爵婦人、さらにこの喫茶店のマスターよ?」
「は、はい」
「そうねぇ。アデリーナ、アデリーナ、あで、アデ……うん、この店でだけ、私のことはアディって呼ぶこと。城下町外れの小さな喫茶店のマスター、アディ。あなたは友達のエレン……じゃなくて、エリね」
「エリ……」
「うん。私は、おじいちゃんと二人暮らし。おじいちゃんが田舎に喫茶店を開くことになったけど、オルステッド帝国を離れるのが嫌でこの店を受け継いだ……っていう設定ね」
「用意周到ですね……」
「まぁね。あ、それ看板?」
「はい」
看板には、本日のおススメランチメニューが書かれている。
「ここ一週間でだいぶカンも取り戻したし、料理はバッチリね」
「はい。コーヒー、紅茶の淹れ方もばっちりです。というかおじょ……こほん、アディはお茶淹れの才能があったようです」
「そりゃ、エリの指導がよかったから。あ、そうだ」
アデリーナはポンと手を叩く。
「お店の名前決めないと。えーと……うん。『サイネリア』にしよう」
「……意味は?」
「なんとなく。語呂が気に入ったからじゃダメ?」
「……どうぞお好きに」
看板の上部に『喫茶サイネリア』と書き、表へ出した。
アデリーナは腕組みし、ニヤリと笑った。
「喫茶サイネリア、オープンよ!!」
◇◇◇◇◇◇
数時間後……。
「だーれもこない……ふぁぁぁ」
店には誰も来なかった。
エレンは改めて気付く。この店は、立地的に最悪な場所にある。
通行人もほぼいないし、住人たちは仕事でもしているのか、周囲の家は静まり返っている。
アデリーナは、再び欠伸した。
「ま、いっかぁ。ね、エリ、明日から本も持って来ようか。バーカウンターでのんびり読書しながらお客さんを待つ……なんか、喫茶店のマスターっぽくない?」
「おじょ、アディのイメージするマスターがどういうのか、なんとなくわかりました」
「ふふ、そう?」
それからしばらく時間が経過。
エレンが二階で休憩している時だった。
───カランカラン。
「!!」
ドアが開いた。
入ってきたのは、フードを被り顔を隠した……男、女?
無言でカウンター席に座り、「ふぅ」とため息を吐く。
「い、いらっしゃいませ~」
「……水」
「はい、お水ですね。って……ここは喫茶店!! お飲み物のご注文は?」
「……騒がしいな」
声で男だとわかった。
フードを外そうともしないし、小さく舌打ちすら聞こえた。
さすがに、アデリーナはムカッとした。
「お客様。そのフード、どうかお取りくださいませんか? ここは帽子の着用禁止ですので」
「…………はぁ」
男が帽子を外すと───その美貌に息をのんだ。
漆黒の髪はサラサラで、真紅の瞳はルビーのようにキラキラしている。目、鼻、口、耳の位置が完璧としか言いようがない。絶世の美青年だ。
アデリーナも、ゴクリと喉を鳴らす。
目の前にいる男は、つまらなそうに言った。
「コーヒー。軽めの軽食」
「…………」
「おい、聞いているのか」
「あ、はひ」
思わず噛んでしまった。すると、目の前にいる男が「ふっ」と馬鹿にしたように笑う。
アデリーナは目元をピクピクさせながらも、コーヒーの準備に取り掛かった。
焙煎したコーヒー豆を、ミルで砕く。
お湯を沸かし、デカンタを準備し、フィルターを用意して……。
「……ふ」
「……何か」
「いや、慣れてないのが丸わかりだ」
「それはどうも。今日がオープン初日なので」
「そうか」
男はそれっきり黙って見ていた。
今更だが、アデリーナは見られていると緊張する。相手がこんな美青年ならなおさらだ。
パンを焼き、野菜を挟み、ベーコンを焼いてさらに挟む。
軽食を用意しながら、チラッと男を見た。
「なんだ?」
「……お客さん、もしかして貴族?」
「そう見えるか?」
着ているのは身体を隠すローブだけしか見えない。ローブも高級品というわけではなさそうな、その辺にいくらでも売っていそうな安物にも見えた。
だが、顔立ちから高貴な印象を受ける。
「ま、貴族ならこんな町外れの小さな喫茶店に来たりしないよね」
「かもな」
「来るとしたら、よっぽどの変人か犯罪者くらい!!…………あ、ごめんなさい」
「お前、客に対する礼儀を何とかした方がいい。そのうち蹴られるぞ?」
「で、ですよねー」
これはアデリーナも反省。
初めてのお客さんということで、『素』が出ていたようだ。
サンドイッチとコーヒーを出すと、男はコーヒーを飲み始めた。
「……美味い」
「え、本当ですか?」
「ああ。俺好みの濃さだ。だが……俺以外に出さない方がいい。舌が死ぬぞ」
「え」
後で知ったが、豆の入れすぎだった。
だが、男にはピッタリの味だったようだ。
そして、サンドイッチを頬張る。
「ほう……」
「ど、どうですか?」
「悪くない」
それだけ言い、サンドイッチを一気に間食。
コーヒーを飲み干し、銀貨を一枚テーブルに置いた。
「釣りはとっておけ」
「あ、ありがとうございます」
男は立ち上がり、ドアの取っ手を掴む……すると、アデリーナが言った。
「あの、またのお越しを!!」
「…………」
男は無言でドアを開け、外に消えた。
◇◇◇◇◇◇
男はフードを被り、店から少し離れた場所で立ち止まる。
殺気……完全に包囲された。
そして、家の影から数人の騎士が現れ、男を包囲する。
「ようやく見つけましたよ……カルセイン!!」
「シドニア……よくここがわかったな」
「全く!! これからユグノー侯爵の屋敷で食事会があるんですよ!? それなのに、いきなり『行きたくない』なんて言って、こっそり馬車から抜け出すなんて……」
「すまんな。あのタヌキじじいはどうも苦手で。それに、もう一か月以上屋敷に帰っていない。そろそろ屋敷でのんびりしたいんだよ」
「ああ、確かに。それにカルセイン、あなたは新婚でしたね」
「新婚?───……ああ、そういえば結婚していたな」
「え」
「どうでもいいことだから忘れていた。ササライ王国から婚約者をもらったんだ」
「……そういえば、あなたはそういう奴でした」
「悪いな。仕方ない……侯爵の食事会、顔だけ出すか」
「はい。ところで、どちらにいたんですか?」
「喉が渇いてたんでな、コーヒーを飲んでいた」
男、ことカルセインは喫茶店を振り返る。
たどたどしい手つきの女マスターが淹れたコーヒーは、美味かった。
「…………行くぞ」
カルセインは、それ以上言わなかった。
なんとなく……部下たちに、あの喫茶店のことを知られたくなかったから。
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