19


 彼の庭園を去らなければならなくなった朝は、雨が降っていた。

 むせ返るような花の匂い。

 霧のような雨がすべてのものに降り注ぎ、等しく濡らしている。

『すぐ戻る』

 蔵の中は暗く、石壁のひんやりとした空気に雨の匂いが混じっていた。

『そう』

 土にまみれた手を桶に浸し、彼はゆっくりとした動作で洗う。小さな水音がやけに大きく響いた。

 蔵の端と端、聞いているのかいないのか分からないような返事に、もどかしくなって一歩足を踏み出した。

『二、三日したら、すぐに──』

『別に、戻って来なくてもいい』

『え?』

 彼はこちらを向いた。

『もう戻ってくるな』

『ど…』

『きみのためにならない』

 どうして、と声が喉の奥に詰まった。

『自分がいるべきところに帰ったほうがいい』

『俺は』

『ここにいてきみに何が出来る?』

 洗い終わった手の先からぽたぽたと水が落ちていく。少し荒れた手のひら、陽の光を浴びてばかりいるのに焼けていない白い腕。いっそ青白いほどに。

 彼は向き直り、まっすぐに俺を見た。

『きみはここで何をするんだ?』

『…』

『僕は自分の役目を分かってる。ここで植物を育て皆の役に立てるようにすることがそうだ。…きみは? シノ』

『──俺は…』

 ひとつだけある窓から差し込む鈍い光を跳ね返す、深い藍色の目。

 この目を見たときから、そうだ。

『昨日、きみを探しに使いが来た』

 ぎしりと心臓が軋んだ。

『婚礼が控えているそうじゃないか。使いの方が嘆いておられたよ。早く帰って来てくれなければ困ると』

『俺が決めたわけじゃない』

『花嫁が泣いているようだよ』

『会った事もない女だ』

『何も珍しくないだろう』

『俺が結婚など──』

『手紙を預かっている』

『──手紙?』

 彼は乾きかけている手を丁寧に拭いて、服のポケットから真っ白な封筒を取り出した。

 封筒には見覚えのある蝋印が押されていた。

 差し出された封筒を受け取ってから、俺ははっとした。

『読んだのか?』

『是非僕にも読んで欲しいと言われたんだ』

『……っ』

 小賢しい。

 老獪な使者の顔を思い出し、舌打ちが漏れた。

 俺は苛立ちながら封筒を破るようにして中の便箋を取り出した。皺だらけになった封筒が足下に落ちる。

 手紙に目を走らせた。視界の端で彼が俺に背を向ける。

 汚れた水の入った桶を外に持って行く。


 早くあなたに会いたいのです

 ずっとこの日を待っていました

 わたしはずっとそう思っていました

 あなたもそうだと

 なのに

 どうしていらっしゃらないのでしょう?

 あんなに愛のこもったお手紙を下さったのに

 

 便箋を丸めその場に捨てた。

『──』

 手紙?

 手紙だと?

 俺は彼女に手紙を書いた覚えなどない。

『おい…っ!』

 彼を追って蔵を出ると、霧雨の中、母屋に入る後ろ姿が見えた。

『待て、──』

 彼の名を呼ぶ。

 思い出の中で──遠い記憶の中では、彼の名はいつも空白だった。その名を口にしているはずなのに、名前は失われたまま。

『ここを開けろ!』

 閉じたドアにはすでに鍵が掛かっていた。錆びた取っ手を引き、力任せに叩く。だが頑丈な作りの扉はびくともしない。それもそうだ、元々ここは長く隣の領主に仕えていた近衛長の邸宅だ。俺の祖父の代まで領主とはつながりがあったが、その後跡継ぎがおらず領主一族は絶えてしまった。主がいなくなれば従者もまた同じ。

 長く人が寄り付かず、風雨にさらされボロボロになってしまったこの屋敷と広大な敷地を、彼が美しい庭園に変えたのだ。

 厚い扉の向こうに彼の気配を感じた。

『…開けろ、頼む』

 この向こうにいる。額を扉に擦りつけ、囁いた。古い木材の匂い。庭園に咲き誇る様々な花の香りが雨に溶けて、俺を濡らしていく。

 頬を伝った雨の雫がぽたりと地面に落ちた。

『頼むから…ここを、開けてくれ』

 彼が立てるわずかな衣擦れ。

 息を潜め待った。

 長く。

 だが扉は開かなかった。

『明日、戻ってくる。また話をしよう』

 一度屋敷に戻らなければならなかった。結婚話もそうだが、どうしてもなさなければならないことがあった。

 彼の傍を離れたくはなかったが…

『約束する。明日必ず戻ってくる』

 そう言って、ゆっくりと扉から離れ背を向けた。

 歩き出したとき、かたん、と小さな音が聞こえた。

『出来ない約束は要らない』

 雨音に掻き消えてしまいそうなほど小さな声で、確かに彼はそう言った。返す言葉を見つけるよりも早く、遠ざかっていく足音がして、もう彼はそこにいないと分かった。


***


 息が止まるかと思った。

「そんなん出来ない約束──、っ」

 そう言われた瞬間、七緒の腕を掴んでいた。

 驚き、目を見開いた七緒に、梶浦は動揺を悟られないよう、ゆっくりと言った。

「俺に彼女なんていない」

 どうしてそうなるんだ。

 まるで。

 まるで──過去をなぞるように。

「そんな、いいって」

 苦い顔で七緒は顔を背けようとした。こちらを見て欲しくて、梶浦は掴む指に知らず力を入れていた。

「あれは彼女じゃない」

「でも」

 俯いたまま七緒が呟いた。

 そうじゃない。

 誤解を解こうと梶浦が口を開きかけたときだった。

「出来ない約束なんかいらない」

 ああ。

 ああ、あのときと同じだ。

 あのとき、あの雨の朝と。

 自分たちは同じことを繰り返しているのだ。

 こんなに長い時間が過ぎても。

 七緒の目にじわりと涙が滲むのを見た。見られまいとするように、さっと七緒は俯いた。

 でも今度は目の前にいる。

 ふたりの間を隔てるぶ厚い扉はなく、こうして掴まえていられる。

 七緒に触れている。

「出来ない約束じゃない。…七緒」

 ゆっくりと力を抜いた。きつく掴んでいた腕から肩に手のひらを滑らせて俯く七緒の顔を上げた。

 明かりの下、琥珀色の瞳には梶浦が映っている。

 彼であったときとは違う。でも、同じだ。

 この目にずっと心を奪われている。

「俺はそんな約束はしないよ」

 たとえ七緒が何も思い出さなくても。

 自分が過去の記憶を持っていなくても。

 きっと同じように奪われていた。

「おれ…」

 七緒の目に涙が滲んだ。

「俺が好きなのは七緒だ」

「──」

「もうずっと、七緒だけが好きなんだよ」

 もうずっと。

 ずっと捜してきた。

 生まれてはすれ違い、会えぬまま死んでいったいくつもの人生。

 やっと、逸れた手を掴むことが出来た。

 見開いた七緒の目から大粒の涙が零れ落ちた。はらはらと頬を伝っていく。瞳に映る梶浦がゆらゆらと揺れている。

 まるで溺れているようだ。

「おれ、おれ、っも…」

 七緒がしゃくり上げ、嗚咽が零れ出す。

「おまえが、っ、おまえ、が…」

 くしゃりと七緒の顔が子供のように歪んだ。

「すき…っ」

 堪らなかった。

 もう──

 梶浦は込み上げる激情のまま、その唇を塞いだ。



「ん、っ…」

 大きな手のひらが、七緒の後頭部を掴んでいる。

 逃げたくても逃げられない。

 逃げたいわけじゃない、けれど…

「…あ、あ…っん」

 なにこれ。

 なにこれ、こんなの知らない。キスが久しぶりだとかそんなことがどうでもよくなるほど、翻弄される。七緒の腰を抱え込んだ梶浦の右腕がもっとと言うように体を引き寄せられて、びくりと肩が跳ね上がった。

「や、あ…ぁ」

 立っていられない。

 小さなキッチンの前。密着した梶浦の体の熱さに足が震える。

 なんで、こんな。

「は…っあ、はあ、んっ、…っ!」

 わずかな隙間も許さないとばかりに唇を覆われる。角度を変え、さらに深く梶浦の舌が七緒の口内の奥まで入り込んできた。口蓋を厚い舌に舐め上げられて、ぞくりと腰に快感が走る。こんな激しいキスを知らない。七緒が知っているのは中学で初めて付き合った女の子と交わしたキスで、それも唇が触れ合うだけの軽いものだった。

「…っ」

 腰を抱いていた手が背中に回る。肩甲骨をなぞり、背骨に沿ってゆっくりと上下する。

 気持ちいい。

 気持ちいい。

 頭が溶けていくようだ。

 気がつけばあれほど疼いていた左肩の痛みも消えている。後頭部から下りてきた梶浦の手がその肩に触れた。

 温かい。

「ん…」

 舌先を擦り合わせられ梶浦の腕にしがみつくと、貪るようだった口づけはゆっくりと優しいものに変わっていった。

 梶浦の唇が離れ、濡れた唇を舐められた。ぼんやりと快感で痺れたようになった目を開くと、梶浦の瞳がじっと七緒を見つめていた。

 おれが映ってる。

 おれが、この目に。

「っ、…ん」

 少しかすれた声で、七緒、と梶浦が耳元に囁いた。唇を押し付けるようにされ、七緒の体がびくりと跳ね上がった。

「しの…、ぁ、…」

 何を求めているのか分かってる。

 何を求められているのかも。

 もっと、もっと。

 もっと。

 梶浦の鼻先が耳朶を辿り、吐息が肌に触れた。しがみつく指先に力が籠る。まだ濡れている唇がゆっくりと下りてきて、七緒の首筋を啄んだ。かすかなその音に全身が熱くなる。鎖骨の窪みに口づけが落ち、柔らかな舌で舐められ、その骨の出っ張りに梶浦が歯を立てた。

「ア、あっ、あ…!」

 肌に歯が食い込んだ。ピリッとした痛みに背骨が反ったとき、けたたましい音が部屋中に鳴り響いた。

 構わずに梶浦は自分が付けた痕を舐め上げる。

「だめ、しの…っ、で、んわ」

「いい」

「よく、な、…っあ」

 あれは七緒の携帯の音だ。篤弘にふざけて変えられたままの着信音が鳴り続けている。

 出ないと。

 それに、このままだと…

「ばか、…っ、あ、痕、だめ、え」

 ボタンを外した制服のシャツの間から鼻先を入れた梶浦が、七緒の肌にまた歯を立てていた。

「あ、…、い…っ!」

 肌の表面にぴりりと走った痛みで、また痕がついたことを知る。

「なん、で、ばかっ、痕なんか…っ」

 仕上げとばかりに首筋にキスを落として梶浦は体を離した。離れたとたん、くたりと七緒はその場に座り込んでしまった。

「大丈夫か?」

「だい、じょばないっ…」

 完全に腰が抜けていた。七緒は肩で息をしながら、覗き込んできた梶浦を上目に睨みつけた。

 困ったように梶浦は微笑んだ。

「取ってくる、どこ?」

「制服のポケット…」

 一度止んだ携帯はまた鳴り始めていた。梶浦は立ち上がると、七緒の制服を取りに行った。

 でも助かった。

 七緒はどこかほっと息を吐いた。あのままいっていたら、きっと、多分、最後まで。

 最後まで。

 かあ、とおさまっていた熱がまた上がってきた。

 腰が気怠くて、重い。

 静まれ、と七緒は脈打つ心臓に言い聞かせた。本当はもっと欲しい。もっと──最後まで。

「はい」

「あ、っ、ありがと…」

 鳴り続ける携帯を差し出されて、七緒は慌てて顔を上げた。床にへたり込んだまま画面を見れば掛けてきているのは沢田だった。

「…瑛司だ」

 てっきり篤弘かと思っていた。

「友達?」

「うん」

 そういえば梶浦はまだ沢田に会ったことがない。

 七緒は通話をタップした。

「ごめん、瑛司、何?」

 沢田が電話を掛けてくることは珍しかった。大抵はメッセージだけのやり取りで終わってしまう。

『七緒、あーやあっと出た!』

「ごめん、…ちょっと、風呂」

 本当のことなど言えるわけもなく嘘をつくと、くすりと梶浦が笑う気配がした。

『あーそっか! ごめんごめん、あのさ篤弘そっちいねえ?』

「篤弘?」

 思わず梶浦を見た。

 梶浦もふっと真顔になり、七緒を見ていた。

「篤弘が何?」

『いやさあ、さっき篤弘の家から連絡あってさ、あーほら親同士知り合いだからさ、そんで』

「ああ、そうだっけ」

 たしか母親同士が元々同級生だとか、そんな話を聞いたことがある。

 思い出しながら頷くと、そうそう、と沢田は言った。

『でさ、いないんだよ篤弘が』

 いない?

 いないって、と七緒は呟いた。

「今日、具合悪いって話じゃなかったか?」

『そう。だけどいねーの、どこにも』

 連絡してもつかないんだってさ。

 軽い口調で沢田が言う。その声を聞きながら、なぜか七緒は、じくりと左肩が痛んだ気に捕らわれていた。

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