17
望むものはひとつだった。
たったひとつ、生まれて初めて欲しいと思えた。
『礼は…、何がいい?』
いつものように庭園の中で話をする。
ここは僕の世界。
この庭は僕の全てだった。
彼は遠くから僕を見ていた。
どうしてそんなに離れているのか、おかしくて笑いそうになる。
もっと近くにいればいいのに。
『礼?』
振り向くと、彼は東屋の柱にもたれ掛かり僕を見ていた。長く突きだした屋根の下で、影になった表情はよく見えない。
『礼って?』
日差しは強いのに風は少し涼しい。
短かった夏ももう終わる。
『俺を、ここに置いてくれたことの…』
『そんなこと?』
言いにくそうに言うのが面白くて揶揄うように返すと、分かりやすく彼はむっとした。
『そんなこととは何だ』
『そんなことだろう?』
枝の間に張った蜘蛛の糸に蝶が足を取られていた。ばたばたともがいている。申し訳ないと思いながら、僕は蝶に絡まった細い糸を切った。
さあ、逃げて。
解放された蝶が僕の指先に止まった。ひと休みさせてから、そっと傷つけないように空に放した。
『礼をされるほど大したことはしてないよ』
『……』
黙り込んでしまった彼から視線を離し、空を見上げる。ひらひらと瑠璃色の羽をした蝶は僕の頭上をまだ飛んでいた。
空には大きな雲が浮かんでいる。
『何か、欲しいものは?』
声の近さに顔を向けると、いつの間にか彼は僕のすぐそばに立っていた。
手には花を持っている。
それは…
『欲しいもの?』
彼の手が僕の被っている帽子を取った。髪を指で梳き、そこに花を刺した。
いい匂いだ。
『何でもいい。何かないのか?』
『……』
何か。
欲しいものはひとつある。
でもそれは口に出せないものだ。
たったひとつだけ、生まれて初めて欲しいと思っているもの。
『何もないよ』
顔に出さずに嘘をつくのには慣れていた。慣れ過ぎて、どちらが本当か分からなくなるほどに。何が自分の本心なのか、自分でも時々見失ってしまう。
『嘘をつくな』
『本当だよ』
きつく眉を顰めて彼は僕を見る。
ばれているはずなどないのに、心臓がぎゅっと痛んだ。
『本当に何もないよ』
彼の手が僕の肩に置かれる。
きっと次は振り向かされる。
僕の名を呼ぶ、その声が好きだ。
きみが好きだ。
だから、その目を見ては駄目だと自分に言い聞かせる。
見ては駄目、見てしまったら、知られてしまう。
僕が何を欲しがっているかを。
***
翌朝には腫れた頬は嘘みたいに引いていた。痛みもなく、唇の端にうっすらと切れた痕が残るだけだ。
洗面所の鏡で頬を撫で、七緒はまじまじと自分の顔を眺めた。
「冷やすのってすごいんだな…」
人と殴り合った経験などないが、こんなにも効果があるだなんて知らなかった。昨夜はあの後梶浦に言われるがまま、長い時間頬を冷やし続けていたのだ。
「七緒」
鏡の中に梶浦が現れて、七緒は振り返った。
「あ、ごめん」
「朝飯は?」
「あー…、部屋戻れば食パンあるけど…」
ここは梶浦の部屋だ。
結局朝までここにいてしまった。帰るとひと言えばよかっただけなのに、なぜか言い出すことが出来なかった。梶浦も特に何も言わず、ごく自然に一緒に過ごした。途中七緒は眠ってしまったが、目が覚めると梶浦はもう起きて支度を済ませていた。
「そうじゃなくて。食べれそうか?」
「え?」
とんとん、と梶浦は自分の口の端を指で叩いた。
そこは七緒の傷と同じ場所だ。
「食べられるなら作るよ」
「えっ!」
思ってもみなかったことに声を上げると、梶浦はくすっと笑った。
「大丈夫そうだな」
そう言ってキッチンの方に姿を消した。慌てて追いかけると、梶浦はもうフライパンをコンロにかけ火をつけていた。
「え、でもっ、おれ…」
「なに?」
うわ。
鮮やかな手つきで卵を割る。それに七緒が見惚れていると梶浦がやんわりと急かすように言った。
「着替えて支度して来いよ」
「う、うん…っ」
七緒は頷いて大急ぎで隣の自分の部屋に戻った。
支度は着替えるだけで済む。荷物も何もかも昨日から梶浦の部屋に置いたままだ。シャワーも昨夜梶浦の部屋のを借りて…
服を脱ごうとして、七緒は固まった。
今七緒が着ているのは梶浦の服だ。自分の部屋に取りに行こうとしたら、半ば強引に梶浦に押し付けられた。
『いいからそれ着てろ』
『いや、だって…』
部屋に帰れば済むことだ。実際七緒はそれを口実に帰ろうと思っていた。けれど梶浦はなぜか引かなかった。
『朝戻ればいい。とにかくシャワー浴びて、もう少し冷やさないと』
『ええと…』
『早く行け』
渡された服を押し付けられ、洗面所に押し込まれた。仕方なしに七緒はシャワーを浴び、梶浦の服を着たのだけど…
「……っ」
これ、梶浦の匂いがする。
ゆっくりと脱ぎ、顔に押し当てた。
何かの花の匂いだ。
何の匂いだろう。
「…おれ、気持ち悪いよな」
借りた友人の服に顔を埋めている。しかもその友人を好きだなんて。
どうしよう。
無意識に下半身が疼く。
誰かにこんなところを見られたら──言い訳なんて出来ない。
「七緒?」
「っ!」
玄関からした梶浦の声に、七緒は飛び上がった。
「は、はいっ!」
「出来たぞ」
顔を出すと、梶浦が怪訝な顔をしていた。
「冷めるぞ」
「ご、ごめ、すぐ行くっ」
慌ててシャツを羽織り、ズボンを穿く。脱いだ梶浦の服を脱衣かごの中に入れ、七緒は部屋を出て鍵を閉めた。
「ななー」
一限目が終わった途端、沢田が教室に入って来た。相変わらず賑やかな声に七緒は自然と笑顔になった。
「わーるい、ごめんけど教科書貸して! 忘れてきた」
「いいけど、何の?」
「英語」
「英語な、ちょっと待って」
七緒のクラスは午後から英語の授業だった。鞄から取り出して渡すと、沢田は嬉しそうにそれを受け取った。
「あー助かったー、ありがとな」
「いいって」
ねえ、と前の席で別のグループと話していた茉菜が、急にくるりと振り向いて沢田に言った。
「沢田くん、今日森塚くんは?」
「あーあいつなら今日休みだよ」
「休み?」
茉菜よりも七緒が先に聞き返すと、沢田は不思議そうな顔をした。
「あれ、なな知らなかったん?」
「え、うん…」
朝教室に入ったとき篤弘はいなかった。最近は来ないことも増えていたので七緒は特に気に留めていなかった。
「連絡ないんだ?」
「ない、とおも──、…あれ?」
そういえば今日は一度も携帯を見ていなかったと、鞄から取り出そうとして、七緒は首を傾げた。
「どしたん?」
「いや…」
鞄の中に携帯が見当たらない。
コートのポケットかと、教室の後ろのコート掛けにある自分のコートのポケットを探ったが、何もなかった。
もちろん制服のポケットにもない。
あ、と七緒は小さく呟いた。
もしかして──
「家に忘れて来ちゃったの?」
茉菜が心配そうな顔で七緒を見た。
「そうかも」
七緒は小さくため息をついた。
家は家でも…
(多分、詞乃のところだ)
昨夜遅くに事情を知ったスーパーのオーナーから謝罪の電話が掛かってきた。それを梶浦の部屋で受けたから、きっと通話した後そのまま置きっぱなしにしている気がする。
「それ、大丈夫?」
「え、なに?」
茉菜の言葉に沢田が首を傾げた。茉菜が何を言いたいのか、七緒には分かった。
「大丈夫だよ」
安心させようとにこりと笑うと、何のこと? と沢田が茉菜と七緒の顔を交互に見比べた。
梶浦の部屋に忘れた携帯を早く取りに行きたい気持ちだったが、今日はバイト先に行かなければならなかった。本来なら昨日の今日で休むことになっていたが、オーナーが店に来るので昨日のことを含めて話をしなければならなかった。電話では七緒の家に謝罪に行きたいと申し出られたが、それは丁寧に断っておいた。
「詞乃、ごめん」
校門の傍に梶浦は立っていた。
待った? と訊くと梶浦は首を振った。
「行こうか」
「うん」
オーナーからの電話の後、梶浦は七緒のバイト先に一緒に行くと言って聞かなかった。七緒に保護者がいないことを相手は知っているし、どう出てくるか分からないと懇々と言われ、七緒も最後には了承した。
「別に大した話じゃないと思うけどなあ…」
「そうだといいけどな」
「心配のしすぎだよ。なんか、親みたいだな」
隣を歩く梶浦を見上げると、少し嫌そうに軽く顔を顰めた。その表情が可笑しくて七緒は噴き出した。
「なにその顔…」
ふっと、面影が重なる。どこかで、見た記憶が目の前を過った。
「──」
「? な…」
聞き覚えのある声が後ろから追いかけてきた。
「なな先輩!」
はっとして振り返ると、高橋が走って来るところだった。
なな先輩?
「高橋くん」
「なっ、──奥井先輩、帰るところですか?」
「そうだけど…、七緒でいいよ?」
分かりやすく言い直した高橋に、七緒は笑った。
「えっ、ほんと?」
「呼び方なんてなんでもいいよ」
「ほんとですか!」
「ほんと」
施設の子供たちも皆七緒のことを「なな」と呼ぶ。沢田もそうだし、親しい友人は皆そうだ。母親が付けてくれたこの名前を昔は女の子みたいだとさんざん周りから揶揄われたものだが、最近は誰も揶揄って来なくなった。
それはなぜだろう。
「じゃあ僕のことは
「うんいいよ」
「ほらな!」
高橋は梶浦を見上げ、にやりと笑った。後ろの梶浦を振り返れば、ひどく嫌そうな顔をしていた。
「僕の勝ちだな」
「うるさい」
「僕も途中まで一緒に行っていいですか」
「いいよ」
ぱっ、と高橋は弾けるように笑った。
「ほーらな!」
「うるさい。行くぞ」
ふいとそっぽを向き、七緒の腕を取って梶浦は歩き出した。引きずられるようにして歩くと、にこにこと高橋もついてくる。
なんだろうこれ。
「詞乃、ちょっと、なあ」
歩くのが早い。
「た…、佑都がついて来れないって」
「いいから」
梶浦はぼそりと言い、歩くスピードを緩めなかった。
***
陽が落ちた部屋の中は暗く、しんと静まり返っていた。
誰もいないことは知っている。それでも音を立てないように足音を忍ばせて歩き回った。
なにかあるはずだ。
なにか、知りたくないものが。
ふと目の端に何かが留まった。
手に取った瞬間、腹の底が煮えた。全身が火に包まれたようだ。
「──」
視線を感じて窓の外に目を向けた。
誰かがいるはずもない。ここは二階だ。
窓の外を一匹の蝶がふわりと飛んでいた。
…こんな季節に?
瑠璃色の羽が暗がりに煌めき、ゆっくりと過って行った。
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