2

 

 淡い視界の中で誰かが笑っている夢を見る。

 誰なのか知らない。

 顔も覚えていない誰かの顔が浮かんでは消えていく。

 そして何度も繰り返している。

 どうして、──

 ──どうして、こんなことになったのだろう。



「……──」

 目覚ましを止めると、部屋の中はまだ薄暗かった。

 ぼやけた輪郭を振り払うように重い瞼を無理やりに持ち上げて、七緒は枕元に置いていたスマホを引き寄せて画面に触れた。

 六時半。いつも起きている時間だ。でも今日は土曜日、伸ばした手を引っ込めてもう一度布団の中に潜り込もうとして、はっと七緒は目を開けた。

 そうだ。

 ごみ──、ごみの日だ。

「っ、まっず…っ」

 この地区は回収に来るのが異様に早い。先週も出し忘れたごみを、今日こそは出しておかないと。

 がばっと飛び起きた七緒は急いで台所に向かった。昨日の夜まとめておいたごみ袋と鍵を引っ掴んで玄関に向かう。履き古したスニーカーの踵を踏んづけてドアを開けると、冷たい風と共に雨の匂いが流れ込んできた。

「うわ、雨」

 細かな霧のような雨が青暗い朝の中に降っている。

 天気予報じゃ晴れるって言ってたのに。

「もー…っ」

 七緒は玄関の中に置いてあった傘を取って外に出た。

 階段を下りて道路ぎりぎりに設置されている指定場所に入れた。最近住人でもない人がごみを置いて行くというので、鍵付きの金網で囲いを作られてしまい、ごみ袋一つ出すのにもひと手間掛かる。家の鍵と一緒に付けていた小さな南京錠の鍵を掛け、七緒は階段を上がろうとして、足音に気づいた。

 誰かいる。

 すぐそばに。

「──」

 人の気配に傘の中で顔を上げた。

 階段の上から誰かが下りてくる。

 傘に隠れて足下しか見えない。

「あ…、おはよう、ございます」

 ふたり並んでは通るのがぎりぎりの狭い階段だ。男ふたりでは尚更だ。七緒は階段下でその人が下りきるのを待ってすれ違いざまに挨拶をした。

「…おはようございます」

 アパートの住人の全てを知るわけなどないが、それは今までに聞いたことのない声のような気がした。

 七緒は階段の途中で振り返った。

 背の高い男の後ろ姿が、アパートの敷地から出て行くところだった。

 ふと思う。

 今──あの人、どこから出てきたんだろう?

「…──」

 まあいいか。

 首を傾げながら階段を上がった。

 部屋に戻った七緒は簡単な朝食を作り、バイトに行く前に部屋を片付ける。元々育った環境からかあまり二度寝をする習慣はない七緒は、まだ少し眠い体を動かしながら細々としたことをこなしていく。

 施設にいたころはみんなで交替で掃除をしていたけれど、今はもう自分だけだ。何でも自分でしないといけない。

 ほぼ一週間分溜めていた洗濯物を室内にどうにか干し終えてひと息つくと、七緒は出掛ける準備をした。適当に服を選んで着替える。今日は十時から倉庫の仕分けのバイトをして、それから休憩を挟んでいつものスーパーに行く。

 随分前に買ったくたびれたモッズコートを羽織って外に出る。雨はまだ降っていた。

 帰るときには止めばいいけどなあ。

 家に帰ってくるのは遅くても二十一時頃だ。

 雨だから自転車は使えない。バスで行くかと傘を差して七緒は階段を下りた。最後の段を踏んだとき、何気なく顔を上げた。

 ゆっくりと右を向く。雨に煙るアパートの駐車場、その奥に敷地を仕切る塀がある。塀の向こうは同じような建物が続いている。そのまた向こうも同じ景色だ。

 視線を感じたのは気のせいだろうか。

「……」

 誰もいない。

 七緒は背を向けてバス停に急いだ。



 午前から始まったバイトは昼を過ぎた頃終了となった。

「お疲れ奥井くん、また頼むね」

「はい」

 お疲れさまでした、と言ってバイト代の明細の入った封筒を受け取る。このバイトは短期だったので今日でお終いなのだ。

「年末年始とか、忙しかったら連絡するよ」

「はい。いつでも」

 バイト代が入れば何だっていい。ここの時給は今までのバイト中でもかなり良い方だったので、七緒は二つ返事で了承した。倉庫内にある事務所を後にして、次のバイトの時間までどこかで休憩しようと思ったとき、ポケットの中でスマホが鳴った。

 篤弘だ。

 ゆっくりとした動作で七緒は通話を押した。

「はい?」

『おー、お疲れ。バイト終わった?』

「終わったよ」

『なあ、次までどんくらい時間ある?』

 篤弘の声の後ろががやがやとうるさい。今日は確か予備校がある日だ。きっとその予備校の中にいるのだろう。篤弘も休憩中だろうか。

「んー、二時間ないくらいじゃない?」

 次のバイトは十六時からだ。スマホの画面を確認しながら言うと、じゃあ、と篤弘が呟いた。

『ちょっと茶しようぜ? どうせまだ何も喰ってねえんだろ?』

 オレもまだだし、と続いた声に七緒は笑い、いいよと返した。

 いつも行くファストフード店で待ち合わせ、簡単な昼食を取った。篤弘は何も食べていないと言いながらハンバーガーをふたつ頼み、一時間半ほどの間、ずっと喋っていた。七緒がハンバーガーをひとつ食べ終わってもまだ篤弘は食べ切ることが出来なくて、押し問答の末、結局その残ったハンバーガーは七緒が持って帰ることになった。

「予備校終わってから喰えばいいじゃん」

「ばか、食い物の匂いしたらうるせえだろ」

「ええ、そんなん気にする?」

「予備校の教室ん中、追い込みで殺気立ってるからさあ、あんま周りの連中刺激したくねえわ」

「ふーん、なるほどねえ…」

 もう十一月も半ば。すでに本格的な受験シーズンは始まっていて、篤弘がそれに向けてずっと努力してきた事を七緒は知っている。

「あー…、だりいわ」

 店内から窓の外を見る篤弘はどこか憂鬱そうで、肩のあたりが強張っている気がした。

 底をじっと見つめ、七緒はストローの包み紙を小さく指先でちぎった。

 外は小雨だ。

 アスファルトの窪みに溜まった水溜まりの水面が揺れている。

 そっと、七緒は彼の肩に触れた。

「ん?」

 ぱっと振り向いた篤弘に、七緒はにこりと笑った。

「ごみ」

 指先に挟んだ小さな紙切れを見せると、篤弘は少し目を丸くして、ありがと、と言った。

 その体から強張りが抜けたのを見て、七緒は篤弘に見えないように指先を擦り合わせた。ぴりぴりとした微かな静電気のような感覚が水に溶けるように消えていく。

「そろそろ出よう」

 七緒がそう言うと、篤弘は頷いて大きく腕を上げて伸びをした。

「あーっ、なんか肩凝ってたけど、ちょっと休憩したら少しほぐれたかも」

「よかったじゃん、休憩した甲斐あったな」

「まあなー」

 七緒は微笑んで席を立った。

 人が多くなり始めた店を出て、そこで篤弘と別れた。



 ゆらゆらと揺れる水の塊のようなもの。

 人の体に貼りつくように揺らめくそれを、七緒は幼い頃から当たり前のように視ていた。

 何だろう、これ。

 触れると、一瞬で弾け、ぴりっと指先が痺れる。

 やがてそれが現れるのは怒りや苛立ちといった、いわゆる負の感情を抱いている人に付いているのだと知った。

 そして他の誰にも視えていないことも。

 自分だけが視ている、透明な水の塊。

 指先で触れるだけで消えてしまう。

 脆いその塊が無くなると、その人たちが持っていた負の感情も不思議と消えていくのだ。

『ありがとうね』

 疲れやすく体の弱かった母親の背中は痩せていて、骨の形が分かるほどだった。そこに揺らめきはなかったが、何かしたくていつも手のひらでさすっていた。

『ななの手、いい匂いがする。あったかいなあ』

 小さな手のひらをぎゅっと握り締めて自分の頬にあてがい、慈しむような眼差しを七緒に向けてくれていた。

「お疲れさまでしたー」

 午後八時を回り、スーパーの裏口を出て、七緒はアパートへの道を歩く。洗ったばかりの手のひらが冷たくて、自分の息を吹きかけた。

 白い息が夜の闇に溶ける。

 繰り返し言われた母親の言葉を思い出した七緒の唇が、ふっと笑みの形に綻んだ。

 今はもう、そんなに温かくはない。

 指先はいつも冷たかった。

 母が言ったようないい匂いもしない。するのはかすかな消毒液の匂いだ。

 人の負の──怒りや苛立ちを消す力は、今の七緒にはほとんど残っていなかった。

 きっと成長と共に消えていくものなのだ。なくなっても困らない。この力が人を癒すことが出来ればよかったかもしれないが、そんなふうに都合よくはいかない。

 ただまだ視えているうちは無意識に手が伸びてしまうのだ。昼間の篤弘のときのように。

「……?」

 アパートの敷地に入ったところで、七緒は何気なく顔を上げた。いつもがらんとした駐車場に小型のトラックが止まっている。トラックの荷台には、テレビのCMなどでよく目にする引っ越し業者のマークが大きく描かれていた。

 引っ越し?

 こんな時間に?

 誰かまた出て行くのだろうか。開いていたトラックの荷台から作業服を着た人が下りてきた。荷物を抱え階段を上がっていく。目で追うと、その姿は七緒の隣の部屋の中に入って行った。

 階段を上った奥の角部屋。

 先日親子が姿を消した、あの部屋だ。

 明かりが点いている。

 開け放たれた玄関のドアから眩しいほどの光が暗がりの中に溢れていた。階段の上までが明るい。共用廊下の腰高の壁に寄りかかるように、誰かが立っていた。

 背の高い人影。

 見上げていると、ふと、背を向けていたその人が振り向いた。

 ……あ。

「──」

 逆光で暗く、見えない顔。でもそれが今朝すれ違った人物だと、七緒には分かった。

 見上げる七緒をじっと見下ろしている。

 きっと目は合っている。

 何か言わなければと七緒は口を開いた。

「こ──、こんばん、は」

 相手が一瞬沈黙した。

「…こんばんは」

 言葉が返ってきた。思うよりもずっと低い声で。

 そのとき、七緒の耳元で別の声がした気がした。



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