君とカフェテラス

「おはよう」


君の声で目を覚ました。いつも先に起きるのは君だ。


少し気怠い朝。


顔を洗い、歯を磨き、髪を梳かし、着替えを済ませ、靴を履き、玄関の鍵をかける。


***


蝉の声の中を歩く。夏風が頬を擽る。


君が歩く度に、その背中に獅噛みついたギターケースが揺れている。


私は今、君の後ろをただ、歩いている。


黄色い屋根のカフェテラスでパンとコーヒーを注文する。私はコーヒーが苦手だから、代わりにミルクティーを頼んだ。


二人で音楽の話をしながら、朝食が用意されるのを待つ。


運ばれてきたのは、一人分のパンとミルクティーだけだった。


――私は今、遠い昔の景色を見ている。


***


カフェを出て、道を挟んだ公園のベンチに座り、少し滲んだ世界を眺める。其処に差し込んだ日差しが余りにも綺麗すぎて、瞬きさえも惜しかった。


あれからどれくらいの時間が流れたのだろうか。


街に君の音楽が流れることも少なくなった。以前君が言っていた通り、人は忘れていく生き物だ。君が運命を委ねた死の力も、結局は刹那的なものに過ぎなかったのだ。


それでもずっと、ずっと、ずっと、私は君を覚えていたい。


今、私の心には穴が空いている。


君が最後に残したあの景色でさえも、この穴だけは埋められなかったみたいだ。


汚れたアパートに、君がいるだけで良かった。


どうにもならないことも沢山あった。悔しいことも、泣きたくなることも、嫉妬も、厭世も、孤独も、過去も、未来も、音楽も。それでも私は、踠き続けた君の人生の隙間に探した夢の続きを二人で想像するだけで、他に何も要らなかった。


だから、もう一度だけ、君の声が聴きたい。


***


夏風に草木が靡いている。その音に耳を澄まし、君の歌を思い出す。


月日が流れても、このベンチに一人で座ることには未だ慣れない。


今日みたいな夏の朝も、秋の夜も、冬の夕暮れも、春の昼下がりも、いつだって君の歌が此処にあったのだから。


此処に、君がいたのだから。


「幸せになってほしい」


あの手紙に書き残されていた言葉。


葛藤していたのだろう。自分の夢が私を不幸にさせる、と。


その葛藤をもっと分かってあげるべきだった。どんな痛みでも二人で分かち合えば乗り越えていけるはずだった。そうであれば君を失うこともなかったのかもしれない。今日も此処で、君の隣に座って、君の歌を聴いていたかもしれない。


そんな後悔だけが、未だ私の中で疼いている。


もう会えないと分かっていても、見上げた先の空には、今日も君が笑っている。


***


私はまた、一人になった。祖父を亡くしたときと同じ感覚だ。


日常の中に絶えず君を探している。終わらない音楽だけが心の中に流れている。


そうだ。私が生きる限り、君も生きているんだ。


街の風景がゆっくりと変わっていっても、君の影だけは何も変わらないまま、今も此処で、私の横で、ギターを弾き語っている。


***


――蝉の声が鳴り響いた。


私は、一人だ。私は今、独りだ。


胸の痛みは増していくばかりだった。


…君も同じ気持ちだったのだろうか。


心が潰されていく感覚に耐えられない。


この孤独の果てに君が選んだのは――


君が最期に見た景色は――


さよならを決めた君に、何を感じさせたのだろう。


もし、この孤独を浄化する何かが其処にあるのなら、


私は、それが見たい。

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