どろどろの口づけ

ピーター・モリソン

「ここに、何かいるような気がして」


 紀寺きてらアリスは喉の痛みを訴えた。


 顎のラインで切り揃えられた髪が印象的で、潤みがちの瞳が不安げに揺れている。手足は細いが、どこか肉感的な印象を与えた。


 休日診療。彼女は最後の患者だった。


「口を開けてもらえますか……」


 ペンライトで照らし出される口の中は、とても綺麗だった。ヘラで形のいい舌を押さえながら、その先を凝視する。雑念を追い払い、彼女の痛みの原因を探っていった。


 ……ああ、確かに。


「喉の奥に傷があるようです」


 ペンライトを消して、私はカルテに所見を打ち込んだ。


 彼女はハンカチで口元を押さえていた。


「もう少し、調べましょう……。ちょっと我慢してください」


 内視鏡を準備し、彼女の口へ入れていく。パネルを操作し、サイドモニターへ視線を送った瞬間、私は顔を強張らせた。……何だ? 中咽頭ちゅういんとう下部から下咽頭に至って、傷が一面にある。どうすればこんな傷が出来るのだろうか。


 いや、これは単なる傷ではなく、文字のように見える。それらがいくつも並んでいる。


 タトゥー? まさか、身体の中だ。


 内視鏡を操作し、それらを拡大していく。よく見ると、文字を構成している線という線は、赤い点の集合で構成されている……。


 私はその文字を心の中で読み上げた。


〈アリス きみを かんじている〉


 これはおそらく……彼女、紀寺アリスへ向けたメッセージなのだろう。しかし、これはいったい……。彼女の中に、誰かいるのか? そんなばかな。……自問自答を続けながらモニターを凝視していると、突然、黒い影が横切るのを見て取った。


 何だ。


 慌てて内視鏡の位置や角度を変えてみたものの、もう見つからない。


 彼女が苦しそうな仕草をしたので、これ以上はと諦め、私は内視鏡を抜き取った。


「……喉の奥がかなり傷ついていて、炎症を起こしています」


 文字のことをどう伝えればいいのかわからず、咄嗟にそう言った。


「……症状の原因に、何か心当たりはありませんか?」


「ここに違和感を覚えるようになったのは、旅先で事故にあってからだと……」


 彼女は喉を擦った。


「事故……?」


「ええ、半年前のことです……」


 彼女は母校のケービングサークルの仲間数人で、東南アジアの洞窟を巡る旅をしたらしい。そこで落盤事故に巻き込まれたという。


「地元の病院に入院しました。……打撲や切り傷で、怪我はたいしたことなかったのですが。……帰国してしばらく経ってから、喉に変調が現れて」


 事故そのものはおそらく関係ないだろうと私は思った。どう考えても、あの文字が自然発生的に現れたとは考えにくい。


「旅先で、普段しないような、何か変わったことをしませんでしたか?」


「いえ、特に思い当たることは……」


 小さく首を振る。


 彼女に、モニターに映った映像を見せるべきか、私は躊躇ためらっていた。彼女自身、何も知らないのだろうか。いや、知らないふりをしているだけなのか。……どうやったらあんな文字が体内に書けるのか。疑問だけが渦巻いた。


「先生、わたし……」


 言葉を詰まらせたが、小さく頷くと静かに話し始めた。


「事故以来、何もかもがすっかり変わってしまった、そんな気がするのです。まるで誰かが運転している車にずっと乗っているような、おかしな感じなんです」


「自分のようで、自分じゃない……?」


「そうです。……事故によるPTSDの症状かと思って、その方面の治療もしてみましたが、効果はなく、その感覚は日増しにひどくなっていくばかりで……」


「……紀寺さん」


 私は彼女の話を遮った。


「これを見てくれませんか……」


 意を決し、内視鏡で撮影した映像を再生し、モニターを彼女の方に向けた。


 その映像を見て、彼女は一瞬驚いた様子を見せた。が、すぐに平静を取り戻し、映し出される文字を食い入るように見つめた。


「これが、わたしの中に……」


「ええ、そうなんです」


 私は映像を止め、肝心の部分を拡大した。


「紀寺さん、これはいったい何なんですか?」


「……あの」


 私の質問をかわすように、彼女はうつむいた。


「言い忘れたことが一つあります」


 膝の上でマニキュアの指を伸ばす。


「……旅先の事故で先輩が一人、亡くなりました。岩の下敷きになったのです。……その人は、わたしの大切な人でした……いつもそばにいて、わたしを支えてくれていたんです。だけど……」


 そう言い終わるや、彼女は滑るように診察椅子からくずおれた。


「紀寺さん……。紀寺さん?」


 呼びかけつつ、私は膝を折った。何かの発作だろうか。呼吸はしているが、意識がない。とりあえず抱きかかえて、診察台に寝かせてみる。


「大丈夫ですか?」


 再び呼びかけると、彼女はごろごろと喉を鳴らした。呼吸が出来ないのか? すぐに気道を確保しかけたが、薄く開いたその口に何かがせり上がって来ているのを見て、私は手を止めた。


 それは黒い塊のように見えた。のたのたと唇の隙間から這い出してきて、その動きを止めた。


 何だ、これは?


 どろどろとした粘液に包まれている。


 ……真っ黒い胴体から、短い手足と尾っぽが生えていた。体長は二センチ弱。その姿は蛙になる前のおたまじゃくしと海牛うみうしをかけ合わせたようななりをしていた。


 その奇妙な生き物は短い首をひねり、点のような小さな瞳で私をぐっと見据えた。明らかな意思のようなものが、そこから感じられる。


 思わず息を飲む。


 すると、くっと耳が詰まり、身動きが取れなくなった。その生き物と私とが緊張した糸のようなもので、ぴんと結ばれたように感じた。


 不意に。


 ぐいと、その糸に引っ張られ、私の意識は身体から引っこ抜かれると、弧を描きながら軽々しく宙を飛んだ。ついにはその生き物の眼前に迫り、伸びてきた舌でにゅるりと絡め取られ、口の中へまんまと運ばれた。


 何が起こったのか? 


 誰かの悪夢へ、無理矢理放り込まれたようだった。


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