第9話 夜崎さんの家2

 気が滅入る。夜崎さんを平手打ちしから一週間、私は家でぼーっとテレビを見る日々が続いていた。暑くてどこに行く気にもなれない。

 夜崎さんとの連絡手段がないことがこれほどもどかしいとは。デートの約束云々とは訳が違う。夜崎さんの家に行けばいいのだが、そんな気は毛頭ない。私が行く必要はない。謝るのは夜崎さんだ。

「ちょっと出かけてくるね」

 お昼を食べ、クーラーが効いている居間でくつろいでいるお祖母ちゃんに声をかけた。

「夕ご飯は」

「それまでには帰るよ」

 外に出ると日差しが容赦なく私を刺す。ずっと家にいるのもどうかと思い外に出たが失敗だったかも。

 とりあえず県内で一番栄えている駅の方に向かうか。私はだらだら流れる汗を拭い歩き出した。

 駅に着き、駅ビルに入ると少しは涼しい。さてどうしようかと悩んでいるところで、右肩を軽く叩かれた。

 驚いて振り返ると、先日夜崎さんの家に向かう途中で出会った狡猾そうな美人がそこにいた。名前は忘れた。

「や」

 人懐っこい笑顔を浮かべ、軽く手を振ってきた。

「……どうも」

 私は一応会釈をし

「では」

と言ってその場を立ち去ろうとした。

 すかさず私の両肩がつかまれる。

「そんなに急がなくてもいいじゃん。ゆっくり話がしたいんだよ」

「私はしたくありません」

 一目見たときから、直感でしかないが、この人と関わってはいけないと感じている。だからこうして距離を取ろうとしているのだが……。

「そう言わないでさ。美枝のこと知りたいでしょ」

 この人は夜崎さんとどういう関係なのか、気になると言えば気になる。美枝、と名前で呼んでいるし。

 ここは私が我慢するか……。

「分かりました。で、どこへ」

「その辺の喫茶店に入ろうか」

 そう言うとさっさと歩き出してしまう。私は慌てて追いかけた。

「あの、お金あまりないので……」

「私が出すよ。高校生に、それもお金がなさそうなあなたに出させたりしないよ」

 何だその言い方は。たったこれだけのやりとりでこの人と関わってしまったことを後悔し始めていた。

 私たちは最初に目についた喫茶店に入り、お店の角の席に座った。お客さんは少なく、テレビがついているのか甲子園の実況が聞こえてくる。

 私は嫌がらせのつもりで一番高いコーヒーを頼んだ。

「同じのを」

値段を気にするそぶりも見せずに注文した。大して効き目はなさそうだ。

 お店の人が注文を取り終え、一息つく。

「さあて、どこから話そうかな」

 楽しそうに笑いながら言う。

「そう言えば、あなたの名前は?」

「内海春子。……あなたの名前忘れたので教えてください」

「春子ちゃんね。私は相田彩花。字は……どうでもいいか。もう会わないだろうしね」

 それはありがたい。私も今日以降は会いたくないからどういう字かなんぞ興味はない。

「春子ちゃんは、美枝のセフレなんだよね」

 タイミング良く、私たちの飲み物が運ばれてきた。この場にそぐわない単語を聞かれていないか気になり、ちらりと見たがさすがはプロ、表情一つ変えず去って行く。

「……恋人です」

 ふうん、と言いながら相田さんが私をじっと見つめてきた。居心地が悪い。

「でも、美枝はセフレだって言ってたよね」

「……夜崎さんはそう言っていますけど、そのうち恋人になります」

 相田さんが人目も憚らず大声で笑い出した。

「春子ちゃん、君は聖人なの? セフレだと堂々と言われても、恋人になる、だなんて普通は言えないよ」

 相田さんがコーヒーを一口飲む。

「将来悪い人に捕まりそうだよね、春子ちゃん」

「夜崎さんは悪い人じゃないですよ」

 相田さんが目を丸くした。初めて余裕そうな笑みが消えた気がする。が、すぐに笑みを浮かべた。

「その未来はあり得ないよ。美枝は私がもらっていくから」

 夜崎さんとの間に恋愛関係があったのだろうか。所謂元カノってやつ?

「相田さんは、夜崎さんとどういう関係ですか。元恋人ってとこですか」

「ううん……」

 相田さんがわざとらしく腕を組みながらうなり、考え込む仕草をする。

「そのうち恋人にはなるかな。でも、一番しっくりくるのは、救世主かな」

「……はあ?」

 あまりに予想外な言葉に変な声を上げてしまった。救世主? 夜崎さんに何か施しでもしたと言うのか。傲慢という言葉がぴったりだ。

「訳分からないので、ちゃんと説明してください」

「そうだね、一から説明しようか。まず、美枝のことどれくらい知ってる? 家が荒れてることは知ってるよね」

「はい」

「美枝が小さい頃から、酷く荒れててね。と言っても大学進学でこっちに来たから、小さい頃の話は美枝から聞いたんだけど」

 大学進学でこんな田舎に来たんですか、と口を挟もうと思ったがやめた。無駄な労力を割きたくない。

 夜崎さんと初めて会ったとき、顔にガーゼが張られていたのを思い出した。それからもう一回くらいガーゼを張った姿を見たことがある。あれは、暴力を受けた痕だった? だから私がそのことを聞くと嫌がったのか。身内から虐待されていると言いたくなかったんだ……。

「美枝の母親は男癖と酒癖悪い。その所為で父親は誰か分からないし、母親は酔った勢いで美枝を殴ったり蹴ったりしてたみたい」

 夜崎さんの家で遭遇してしまった虐待の現場は、当然小さい頃からだったのか。分かってはいたがショックを隠せない。

「とは言っても、ほとんど家に帰ってこないから基本的には平和だったらしい」

「よく餓死とかしなかったですね」

「お金だけは渡してくれてたみたい。月一で家に帰ってきては、一万円と暴力を受け取ってたって」

 胸糞悪い。平気でそんなことをする人も、淡々と話せるこの人も気持ち悪い。

「誰のお陰で生きていると思っているんだ、生きているだけありがたいと思え、お前がいなければ今頃自由だったのに、そんな言葉をずっと浴びて育った、美枝は何事もないかのように話してくれた」

 嫌なものが込み上げてきたが、誤魔化すためにコーヒーを流し込む。こんな話聞きたくない。それでも夜崎さんと付き合うにはこういう話も受け止めなくてはならない。

「……それで、相田さんが救世主だっていう話とどう繋がるんですか」

「重かったかな。春子ちゃんは美枝を諦めた方がいいんじゃない?」

「話を逸らさないでください」

「失礼失礼。こっちに来て美枝と初めて会ったのが五年前。美枝が中一で私が大学一年生。美枝に一目惚れしたんだよね。スラッと細く、憂いのある表情と目、色々なものを諦めたような達観した雰囲気、そして整った顔。私の手で救ってあげたいって思った」

 大分頭のネジが飛んでいる発想をしている。顔がいいのは分かる。でも憂いのある表情を見て救いたいと思った? それで一目惚れ? 理解に苦しむ。

「だから救ってあげようと思ったの。バイト代を稼いでは美枝のために使った。ご飯や服、それと下着。信じられる? 中学生になってもブラを買ってもらえないんだよ」

 虐待する親だしそれくらいそうだろう。

「で、見返りが、美枝の体ってわけ」

 前に夜崎さんがファーストキスと初体験は十三だって言っていたのを思い出した。その相手は、この人? それしか考えられない。

 こんな卑怯なやり方で……。

「大学四年間、美枝との関係は続いた。私のお陰で美枝は生き延びることができた。最初はガリガリだったけど大分肉付きも良くなったし、背も伸びた。血色も良くなった。さすがに美枝の母親に勘づかれたりするかと思ったけど、本当に無関心でね、美枝の変化にも全然触れない」

「つまり、相田さんがいなかったら夜崎さんは今頃どうなっていたのか分からない。だから救世主だってことですか?」

「そういうこと」

「夜崎さんと初めて出会ったのが五年前で、お金だけの関係が大学四年間続いたって言ってましたけど、卒業後から一年間はどうしたんですか」

 敢えてお金だけの関係と強調したが、気づかない振りをしているのか平然と続ける。

「就職で東京に行った。連絡を取る手段がなくて美枝に何も渡せなかったから心配で心配で。とは言ってもお金は結構与えていたから一年くらいは大丈夫かなとは思ってたけど」

 先週のデートでは、屋台で買ったもの全部夜崎さんがお金を出してくれた。そのとき、このお金にいい思い出はないと言っていた。それはつまりこの人から受け取ったお金だから……?

 それと、携帯電話。今時持っていない女子高生なんているのかと思ったが今なら納得できる。あの母親がそんなものを買い与えるはずがない。相田さんが買う話も出たのだろうが、夜崎さんの母親に見つかったら面倒になるのは火を見るより明らかだから買わなかったのだろうか。それとも生活必需品を揃えるのが優先だったのか。

「東京で働いている人が、何で今ここにいるんですか」

 すでにお盆は終わっているし、平日だ。東京で働いている社会人がここにいるのは変だ。

「ああ、社会人には有給ってのがあるからね。美枝を説得するために取ったの」

 まだ働いていないからよく分からないが、どうも平日に東京から離れたこの地にいることは問題ないらしい。

「で、今更夜崎さんをどうしようって言うんですか。去年は何もしなかったんでしょ。何で今」

「いや、去年もお盆にこっちに来たよ。お金渡してセックスしただけになったけど」

「お金と体の関係のことは聞いていません。夜崎さんをどうしたいのか聞いているんです」

「嫉妬しちゃった? どうしたいかって、単純だよ。私に着いてきて欲しい」

 着いてくる……? なんだそのプロポーズのような言葉は。

「東京で一緒に暮らしたいってことですか?」

「そう。美枝は絶対私と暮らした方が幸せになれる。あんな暴力受けながら将来の展望もない生活をする必要はないでしょ?」

 確かに、あの家は出られるなら出た方がいいに決まっている。夜崎さんの過去について聞いた今ならなおさら強くそう思う。

「私と一緒なら、何も困らない。衣食住全て私が賄える。私は誰もが知っている有名企業で働いているから、給料も悪くない。これからどんどん昇給もする。私と一緒に来ない理由はないはずなんだ」

 この人と一緒に行かない理由ならいくらでもあるでしょ。夜崎さんもこんな人に依存しながら生きていくのはまっぴらだろう。夜崎さんにまともな選択肢はないのか……。

「どうしてそんなに夜崎さんに拘るんですか」

「愛だよ」

 即答され言葉に窮する。随分歪で一方通行な愛だこと。

「そんな自己満足な愛情表現しかできないから夜崎さんは相田さんと一緒に東京に行かなかったんですよ」

 相田さんが心外だ、と言わんばかりに目を丸くする。

「私は美枝にとって命の恩人だよ。私と来ないはずがないんだよ」

「でも現に断られたんでしょ」

「人間は何かと理由を付けて現状維持をしたがる動物だからね。美枝は新しい環境が怖かったんだよ」

 よくもまあそんな自分勝手に理屈をこねられるものだ。感心する。と同時に夜崎さんへの執念が少し怖い。

「去年断られたのに、今年も来たんですか。諦めたらどうですか」

「今年こそは私と来るはずだよ。だって、今年で卒業でしょ」

「……どう関係あるんですか」

「美枝は高校を卒業して、その後どうするの? あの家で暮らすにしても、お金は? 働けるの? 仮に稼いだとしても、母親に巻き上げられるんじゃないの」

 そう言うことか。夜崎さんを見くびっているようだが、多分就職するだろう。安い給料を母親に奪われる可能性は高い。そうなったとき、果たして「ちゃんと」生きていけるのか。でも、この人と東京へ行けば、何の心配もすることなく生きていける。夜崎さんの命を盾にしている。

「美枝は好む好まないに関わらず私の元へ来るしか選択肢は残っていないんだよ」

 そんなことはない、と言いたいが自信を持てない。夜崎さんがこの先のことをどう考えているのか分からない以上、言い切れない。

「そういうわけだから、春子ちゃん、美枝のことは諦めてね。私なら美枝を救えるけど、春子ちゃんには無理でしょ?」

 確かに夜崎さんを救う、なんて大それたことはできないと思う。夜崎さんに具体的に何ができるのか私には分からない。

 でも、こんな人の元に行って欲しくはない。

「そんな上から目線で、夜崎さんが相田さんになびくと思ってるんですか」

「何度も言わせないで。なびくなびかない、好む好まない、なんて簡単な問題じゃないの。生きていくには私に頼るしかない、中学生のときのように」

「……夜崎さんにこっぴどく振られればいいのに」

「それはないよ。と言ってもこの一週間振られっぱなしだけど。……あ、そうだ今から一緒に美枝の家に行こうか。美枝を説得してよ。春子ちゃんも美枝にはちゃんと生きていて欲しいでしょ」

 夜崎さんを説得して欲しい、それだけを言うために私に話しかけたのか。ようやく目的が見えた。

「美枝とは連絡が取れないけど、家にいるでしょ。母親は、いないかな、どうかな」

 その瞬間、私の頭に嫌な考えが閃光のように走った。本当にそんなことするのか……?

「相田さんでも夜崎さんと連絡取ろうとしたら直接会わないといけないんですね」

「そりゃあね」

「あの日、私と夜崎さんと相田さんが出会ったお祭りの日、夜崎さんの家に行きましたよね、夜崎さんに会うために」

「何を言いたいの」

 相田さんが少し語気を荒らげる。この人は本当に嫌な人だ。

「夜崎さんの母親が家にいることを知ってたんですよね」

「それが?」

「知ってたけど、夜崎さんに教えなかった。夜崎さんに暴力が振るわれる可能性があることは分かってましたよね。それなのに、何で……」

 相田さんが少しだけ感心したような表情を見せた。

「へえ、不良ばかりの高校に通ってる割にはそれなりに頭が切れるね」

 相田さんがすっかりぬるくなったコーヒーを一気にあおった。

「美枝の母親が家にいるのは知ってた。家の呼び鈴押したら出てきてびっくりしたよ。しかもかなり酔ってた。その後偶然美枝と春子ちゃんに会った。で、閃いた」

 相田さんが顔を近づけてきた。コーヒーの匂いが漂ってくる。

「このまま美枝が家に帰れば、殴られたりするのは確定。そこを私が慰めれば、一気になびくと思ったんだよね。失恋した人を慰めて手に入れる理論」

 本当にこの人は最低だ。自分のことしか考えていない。本当に夜崎さんのことを思っているなら、あの場で家に帰ってはいけないと言うべきなんだ。

「随分長くなっちゃったね、そろそろ行こうか」

 相田さんが伝票を手にし、立ち上がった。

「どこへ行くんですか?」

「美枝の家。言ったでしょ、美枝を説得してって。衣食住、安全が保証された私と行くようにって」

「行きません。私は夜崎さんが相田さんといることで幸せになれるとは思えません」

 相田さんは芝居がかったように肩を落とした。

「残念。春子ちゃんなら協力してくれると思ったのに」

 こんな話を聞かされてそう思えるならめでたい頭をしている。

「仕方ないか、一人で口説くよ。たまたま春子ちゃんを見かけたから声をかけたけど見込み違いだったか」

 ……たまたま? 私は気まぐれに駅ビルに来たが、そこへ偶然相田さんが私を見かけた? そんなことあり得るのか。

「もしかして、私の家を知ってるんじゃないですか」

「どういうこと?」

「祭りのあの日、夜崎さんの家を出た私の後をつけていたんじゃないですか」

 夜崎さんにむりやりされそうになった後は呆然としていて、周りのことなど見えていなかった。この人に尾行されてても気づけるとは思えない。問題は、理由だが……。

「当たり。美枝と春子ちゃんに会ってから駅に向かう振りをしてすぐに引き返した。しばらくしたら美枝の母親と春子ちゃんが出てきた。本当はすぐに美枝に寄り添おうと思ったけど、春子ちゃんがどんな人か、場合によっては私の味方になるんじゃないかと思って、後をつけさせてもらったよ。情報の引き出しは多い方がいいからね。あ、安心して、春子ちゃんの家が分かった後にちゃんと美枝を慰めたから」

 あの日からしばらくは夜崎さんを説得していたけど、上手くいかなかったのだろう。そこで手を変えるために私を利用しようとした。私が出てくるのを見計らうために私の家を監視し、私が出かけたタイミングで話しかけた、そんなところか。

「いい性格をしてますね」

「ありがとう、褒められると嬉しいね」

 相田さんがこれで話は終わったという雰囲気を醸しだし、私たちは店を出た。お代は本当に相田さんが出してくれて、そこだけは感心した。

「春子ちゃんの家は知ってるけど、春子ちゃんに利用価値はもうないから、家に行くことはないよ。安心してね」

 それだけ言うと相田さんは駅の改札を通って行ってしまった。夜崎さんの家に行くのだろう。

 夜崎さんがあんな身勝手な人の元に行くとは考えたくない。でも実際問題、夜崎さんのこの先を考えるとあり得ないと言い切れない気がする。大学は多分行かないだろう。そうすると就職ということになるが……。

 夜崎さんはどうするのだろうか、どうなってしまうのだろうか。いや、私たちはどうなってしまうのだろうか。

 このままの関係は嫌だ。

 夜崎さんを何とかしてあげたい、そう思っても何もできない自分が歯がゆい。

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