マリー・アントワネットの反撃

@erawan

第1話 その1

 前作「400年の螺旋階段」でロスチャイルド家の企みに一石を投じた後、こんどはマリー・アントワネットがフランス宮廷へ戻るのを支援する。


 ロスチャイルド家マイアーの三男ネイサンは、ロンドンの国債取引場に併設されているサロンでたった一人椅子に座っている。これ以上変わりようも無いだろうと思われるほどの青白い表情をうかべ、虚な目を辺りに投げかけ、ただそうやって無為に時間を過ごしていた。

 そう、この男はたった今、半日にも満たない時間のイギリス国債取引で、ほぼ全ての財産を失ったばかりなのだ。

 当時のイギリス・ロスチャイルド家はイギリスが発行している公債の約6割を所有していたとも言われている。もちろんこの損失でネイサンの資産が全てなく無なったわけではない。全財産を失ったと言うのは大袈裟である。それでもヨーロッパの王族達を手玉に取る程の手腕を誇ってきた彼にとってこの失態は、自分の心臓をえぐり取られたに等しい打撃だっただろう。それを防げなかったのだ。


 ほんの数時間前の事だった。

 ワーテルローの戦いでナポレオンが負けた、という情報を誰よりも早く知ったネイサンは賭けに出た。

 自分の行動が周囲の投資家から注目されているのは十分承知している。自分が買えば周りも買うし、売ればナポレオンが勝ったと思いこみ売るに違い無い。

 ワーテルローの戦い、全力で出陣したイギリスの命運は、この一戦にかかっている。投資家だけではなく、イギリス国民誰もがこの決戦の報を待ち、それぞれの思惑を胸に、息を潜めているのだ。

 ネイサンは冷静にこれから起こる事を見据えていた。国債取引での値動きは、常に半年も先を見通して動くという。イギリス軍がナポレオンに破れたのであれば、敗戦国の運命はどうなるか分からない。市場での狂乱にも等しくなるだろう値動きで、国債は紙屑にもなりかねない。全ては状況次第で乱高下する、それが相場というものだ。

 ここは群衆心理を上手く利用する。徹底的に売って暴落を引き起こせば、途方もない勝機が生み出されるだろう。後はパニックに陥った市場で、何食わぬ顔をして底値で買い戻せばいい。


 いよいよ立会が始まってもネイサンはサロンを動かなかった。市場に顔を見せない方が、かえって投資家達の想像力を掻き立てるだろう。その代わりもちろん代理人には細かな指示を出してある。

 やがて市場の状況が使用人を介して逐一サロンに入ってくる。ネイサンの売り圧力から国債の価格は次第に下り始め、すぐに暴落しだしたと連絡が入る。

 ネイサンは笑みを浮かべてグラスを傾けた。

 しかし途中で少し暴落を止める動きが有ったとの報告には少し首を傾けたが、とくに新たな指示は出さずにいた。

 その後やはり暴落が止まったのは一時的で、国債の価格は下がり続けているとの報告にネイサンはニンマリと笑った。


 ところが立会も終盤に差しかかった頃だ、普段あまり飲まないネイサンは、珍しく何杯目かのグラスを傾けていた。しかし誰かが一気に買い始めたとの思いもかけない知らせに顔色が変わる。信じられない事だが、これはロスチャイルド家以外にも、ワーテルローの勝敗をいち早く知った者がいると考えていい。

 椅子を蹴って立会場内に駆けつけると、ネイサンは手を振って代理人に向かい大声を上げる。

「待て、売るな!」

 しかしその悪魔の様な形相を、離れた位置から見た代理人は、恐れを抱いたのではないか。指示通りの暴落を完遂出来ずにいるからだ。更に必死になって売り続ける。ネイサンの声など届いていないのだ。

「止めろ、直ぐに買い戻せ!」

 やはりその声は周囲の騒音にかき消され、代理人に届く事はなかった。




「王妃さま、これで彼のイギリス・ロスチャイルド家は破産するかもしれません」


 もう常連となっているスターバックスの奥まった席に、おれと結菜さん、そしてストロベリー・フラペチーノを前にした王妃さまがいる。


「しかし、今回の狙いはそこではありません」

「…………」


 王妃さま、正確には元フランス王妃マリー・アントワネットは、スプーンをソーサーの上に置くと、おれの顔をじっと見つめ、次の言葉を待っていた。

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