幾重の悲願

「待ってたよ、藍原くん」


 振り返った華澄由子は酷く柔和な表情で血相を変えた藍原を迎える。藍原は思ってもみなかった態度に狼狽すると、腹に溜まった溜飲が行き場をなくして尻から垂れた。


「皆んな揃ったから。やっと終われる」


 意味深長な言葉が華澄由子の口から溢れ、藍原はそれを掬うのに身を屈める。耳をそばだてて、真意を捉えようとする恭順な姿勢であった。


「わかるよね。私と同じだもの」


  華澄由子は超然とした眼差しを詳らかにせず、理解を求めてやまない。だが、藍原は咀嚼して相槌を打つより心に迫るものがあった。それは、華澄由子の間近まで接近した、無数に伸びる腕の一つだ。華澄由子が自分にしてくれたように、藍原が間に割って入ろうとするが生憎、等身大の手は幾分早かった。人形のように掴まれた華澄由子が、一切表情を崩さないまま、藍原を見つめ続ける。


「瀬戸!」


 懇願に近い叫びは、引き締まる指の間から漏れ垂れる血を前に、徒労に終わった。それでも藍原は、瀬戸海斗の魔の手から華澄由子の身体を取り戻す。


「……」


 潰れた身体に乗っかった美しく保たれた死に顔との明暗に、目眩を催す。


「華澄さん、貴方の自殺願望のために色んな人を巻き込みましたね。幕引きはどうか劇的であってほしい。僕も同じようなことを思ってました。でも、それは、やっぱり、自己満足に過ぎないみたいです」


 藍原は顔を上げ、暴走状態にある瀬戸海斗を睨んだ。おもむろに立ち上がって、歩き出す。根を下ろすかのような一歩の重みは、全てを終わらすと決心した強い志を感じた。


 瀬戸海斗は植物のように身体中から枝の代わりに腕を生やし、駄々をこねる稚児さながらの大暴れを見せる中、近付いてくる藍原の存在に気付いたのか、三本の腕が一点に集中して伸びた。その軽重はもはや、蚊を潰すような光景に近く、ゆるりと躱すのに苦労しなかった。


「さっきの方がマシだったぞ」


 髪をかき上げるほどの風圧を伴えば、俊敏にとはいかない。嵐のように振り回す腕を軽々と避けていき、確実に瀬戸海斗のもとへ走り寄る。見上げなければ全身を把握できない距離まで近付くと、無防備な下半身を伝って頭頂を目指す。蟻を除けるように振り払おうとする腕の邪魔立てを、藍原は見事な身のこなしでやり過ごす。そして、胸部を足掛かりに頭に飛び付こうとするが、生物としての本能だろうか。本来の大きさを取り戻した腕が無数に胸部から伸びてきて、蜘蛛の巣に引っかかった虫さながらに藍原が捕まった。


「こんなことも出来るのか?!」


 神田の命を奪ったナイフでは決して届かぬ距離に瀬戸海斗は居て、口惜しさから虚空を何度も切った。そのときである。ピエロのマスクを着けた女が目の前に現れたのは。


「コイツが瀬戸、海斗でいいんだね?」


 藍原が無言で頷くと、女はマスクを外して睨めあげる。瀬戸海斗という名前を藍原の口から聞いたのは、これで二度目であった。自分を襲った仇相手が目の前にいる。女は藍原からナイフを受け取り、頭部へ飛び付く。

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