#25 3月5日 卒業/挨拶/どこかのあなたへ
「鈴川さん」
声をかけられて、視線をPCのディスプレイから離す。
「長いことお世話になりました」
太田さんはそう言ってぺこりと頭を下げた。
「こちらこそ、今までありがとうね」
終わる気配のないPC作業を止め、向き合う。
無事に就職先の決まった彼女がこの店に出勤するのは、今日で最後だ。
SNSへの投稿にしろ店内のポップにしろ、太田さんにはただのバイト以上の仕事をしてもらっていた。そもそもの処理能力も高かった彼女の穴はしばらく埋まらないだろう。
その辺りは頭の痛い話ではあるが、それはそれとして。
「これからも頑張って、って私が言うまでもないだろうけど」
「はい、ありがとうございました」
いくらか愚痴を聞いたりしたこともあったけれど、ここで長話に興じるような間柄ではない……と思う。お互いの性格を鑑みても。
どちらかと言えば。
「最後の挨拶、してく?」
SNSのウィンドウを開き、PCの前を空ける。
「そうだった、そっちも挨拶しないといけませんね」
そう言って太田さんはキーボードを叩き、すぐに私へ返す。
「こんな感じで」
画面を見ると、今日で自分の出勤が最後なこと、伴ってこのアカウントでの呟きも最後になること、これまでの感謝の言葉が簡潔に綴られている。最後にこれが太田さんの発言であることを示す「バイトのO」という文字が並んでいた。
問題があるはずもなく、そのまま送信ボタンを押す。無事にそのコメントがインターネットに流れたことを見届けてから、太田さんは出口へと向かった。
「それじゃあ、帰ります」
「気をつけてね」
「はい」
最後にまた頭を下げてから、太田さんは部屋を出ていった。私はPC作業に戻る。
また会うことはあるだろうか。就職に合わせて引っ越すと言っていたから、生活圏はそれなりに離れるはずだ。わざわざ目的地とするような店ではないし、何かのついでで来る理由があるような立地でもない。新しい生活が始まれば、そこでまた十分に忙しい日々があるだろう。
大げさに言えば、これが今生の別れであってもおかしくはない。
そこに特別な感慨があるかどうかは微妙なところだ。アルバイトの多い、流動的な職場環境にはもう慣れている。太田さんは比較的長い方だったし、仕事上も頼りになっていたから、もちろん多少の寂しさはあるけれど。
私の目の前にも仕事は山積みだ。のんびりと浸る暇はない。
諸々ひっくるめて、春で、年度末だった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます