#23 2月8日 雪の日/無彩色/凍てる


 昨夜から降り始めた雪は、朝になっても降り止む気配をみせていなかった。


 スマートフォンで眺めたニュース曰く、今日はもう一日中降り続くらしい。昨日の予報の時点である程度覚悟していたので、今日はいつもより少し早い時間の起床である。


 カーテンを開けると、窓ガラスから染み出すように冷気が漂ってくる。指先で窓の結露を拭ってから眺めた薄暗い街路は、すっかり白く覆われていた。朝日とは違った色で空はぼんやりと明るくて、これが雪明かりというやつだろうか。


 窓から離れ、座椅子の背もたれに掛けたままにしてあったカーディガンを羽織る。点けっぱなしの暖房で喉が渇いていた。


 水道をひねって出てきた水はあまりにも冷たい。とてもそのまま飲む気になれず、一度ヤカンに入れる。火にかけて、せっかくなのでそこに手をかざした。足元の冷えと手先の暖かさの対比はどこか心地良い。しばらく呆けるようにそうしてから、熱めのぬるま湯になったあたりでカップに注いだ。


 温度の割に大げさな湯気を立てるカップを口に運びながら、またスマートフォンを手に取った。SNS越しにニュースを眺める。大雪警報が発令されていること、首都圏はほとんどの電車が停まっていること、東京にこんな量の雪が降るのは数年ぶりなこと、外出時の注意事項などなど。


 とりあえず出勤してみるしかない立場の私としては、どれも参考程度にというところだ。


 通勤にあたって考えうる限りの防寒対策を頭に思い浮かべながら、また冷えてしまう前に白湯を飲み干した。





 

 家を出ると、雪の降る音が聞こえそうなほどの静けさだった。出勤を諦めた人も多いのか、いつもと比べて通行人の数はひどく少ない。


 一歩踏み出すと、雪を踏みしめる軋んだ音が足裏から伝わってくる。


 手持ちの中では一番生地の分厚い靴に、防水スプレーをたっぷり振りかけて履いてきた。しかしつま先はあっという間にガチガチに冷えてしまう。2枚重ねた靴下も大した意味をなさなかった。もう少し暖かい靴を買っておけば良かったと思う。


 稀にすれ違う人たちも足元を気にしながら一歩一歩慎重に歩いている。普段は自分の足裏が何を踏んでいるかなんてほとんど意識しないような道なのに。


 そこに何があるのか見えなくなっただけで、次の一歩の重さは大きく変化する。少し体重の掛け方を間違えたら、雪の下に見えない何かが潜んでいたら、なんて考えれば、そうなるのも当然ではあるのだろう。


 そんなことを考えながら歩いている。色々と気を使いながらの歩行は結構な運動だ。脳に送られる酸素が減り、無心で前へと進み続ける。


 そんなこんなで店に着く頃には息が切れ、やや汗ばんでいた。先に来ていた店長が暖房を点けてくれていたから、汗冷えしなくて済みそうなのはありがたい。


 それからの仕事はと言えば、荒天だからといって全くの暇、ということもなかった。ビジネスコートの裾に雪をくっつけたままの人がちらほらと現れる。出勤を試みて駅までは来たが、結局諦めるしかなかったから本でも買って帰ろう、とかそんな感じだろう。周りの店は開いていないところのほうが多いくらいだったし。


 昨夜の時点でアルバイトの子たちに今日は出勤しなくていいと伝えてしまっていた。なので出勤したのは私と店長の二人だけで、それなりに作業は発生する。


 とはいえそれもそう長くは続かない。昼が近づいた頃に客足はほぼ完全に途絶えた。


 それでも営業時間ではあるので、時折外に出ては寒さに震えつつ入り口付近の雪を退ける。店内に戻って雪で濡れた床を拭いておく。特別にやらなければいけないことはそれくらいだ。


 仕事をしているのはいつも通りだが、ささやかな非日常は今も感じ続けている。どこかのんびりとした気分で、たまにであればこれも悪くないかもしれない。帰り道のことを考えなければ、ではあるけれど。


 不意にパンツのポケットでスマートフォンが震えた。どうせ客もいないので、すぐ手にとって確かめる。


 “雪すごいですけど、大丈夫ですか”


 表示されたのはそんなメッセージで、送り主は湊咲だった。


 “特になんともないけど、仕事はしてる。誰も来ないけど”


 “大変ですね……”


「鈴川さん」


 そこに店長から声を掛けられる。


「今日はもう閉めようか」


 そして諦めたような様子で言われた。


「まぁ、そうですね。電気代の無駄かも」


 普段はやらないバックヤードの整理やら、できることが全くないわけではない。しかしどうしても今やらなければならない作業でもない。


「そうだねぇ……一応、13時で閉めますって張り紙作っておいてもらえる? 僕は締めの作業してるから」


「わかりました」


 うなずいて、作業用のPCへ向かいつつ湊咲へ返信をしておく。


 “誰も来ないから、今から店閉めることになった”


 返信はすぐに来る。


 “あの、じゃあ、今から行ってもいいですか?”


 “いいけど、電車止まってるでしょ”


 “歩いていこうかなって。雪が降ったところ、歩いておきたいし”


 湊咲の家から私の家まで、迷わずに歩けば40分くらいの距離だ。今日の状況だと1時間くらいだろうか。


 “まぁ、わからなくもないけど”


 PCが立ち上がる間にそんなやり取りをしつつ、物好きだなというのが本音だ。それからふと自宅の様子を思い出し、もう一言送っておく。


 “でも食べるものないよ”


 今日の食事は保存食として確保しているレトルトかインスタントか、コンビニにまだ残っている何かで済ませるつもりだった。24時間営業の牛丼屋は開いていたっけ?


 “スーパー開いてないかなぁ。ちょっと様子見てまた連絡しますね”


 湊咲からは特に気が変わった様子もない返信。


 “了解。気をつけてね”


 食べるものは……まぁ最悪、どうにかなるだろう。


 湊咲の散歩好きがこの珍しい天気に刺激されてしまった以上、ある程度慣れているであろう私の家を目的地にしてもらったほうが良いはず。誰にするともない、そんな言い訳じみた思考を渦巻かせつつ。ごくごく簡潔でそっけない文面の、閉店時間の告知を印刷した。果たして誰かがこれを見ることはあるのだろうか。


 その後、閉店作業まで終えてから店の指定エプロンをロッカーへ仕舞い、代わりにコートを取り出す。それを羽織って、マフラーを巻いて、鞄を引っ掴めば帰り支度は終わりだ。


 去年買った灰色のコート。買ったばかりの時は厚手すぎて失敗したかと思ったが、今日はむしろちょうどよかった。羽織ってしまえば包まれている部分はほとんど外界と遮断されて、冷気の侵食を防いでくれる。


 スマートフォンを鞄に仕舞う前に確かめる。追加のメッセージが届いていた。


 “スーパー開いてました。お鍋にしましょう”


 朗報だった。そちらの店員さんたちもお疲れ様だ。


 “いいね。今ちょうど仕事終わったとこ”


 そそくさと返信を打ち込む。屋外で指先を露出させるのは嫌で、店を出る前にやり取りを済ませておきたい。


 “ほんとですか? 駅で落ち合えるかも”


 “じゃあ、広場のところで待ってる”


 “凍えないでくださいね”


 “遭難しないようにね”


 お先に失礼しまーす、と最後の鍵閉め点検中の店長へ声を投げかけて、待ち合わせ場所へと向かった。





 

 駅前の広場はまばらな足跡だけが残っていて、人気はほとんどない。空も地面もモノトーンに占められている。ロータリーのベンチにもこんもりと雪が積もっていて、どこか不格好な可愛らしさがあった。朝から電車も走っていないから、駅は完全に沈黙している。


 予報とは違って、雪はいつの間にやら降り止んでいた。けれど白い雲は健在である。また降ってきそうでもあるし、積もった雪はまだしばらく溶けないのではないか。


 そしてやっぱり人気はほとんどない。傍から見れば、こんなところで佇んでいる私も変人だろうか。


 自らの吐き出す吐息だけが動きをもって宙に漂った。


 何もかもが静かに冷たくて、止まっているみたいだと思う。


 コートに包まれた体はまだ快適だが、露出している顔は当然寒い。


 けれど、この真っ白な停滞が心地よくもある。これほどまでに気温が低いと、寒さは張り詰めたように凛としたものに感じた。


 寒いという事実に思考も痺れて、視界の情報も白さに塗りつぶされて、日常ではありえないほど無心になれるような。


 口元までマフラーを引き上げた。鼻呼吸と同時に硬く透明な匂いを感じる。冷えすぎた粘膜がただ錯覚しているだけなのか、それとも本当にこの寒さに匂いがあるのか。


 そんな風に内心は気取りつつも、このままだとそのうち凍えてしまうだろう。


 しかし結局、さして待つこともなく。


「ごめんなさい、おまたせしました」


 足元が悪いにしては早足を意識していそうな様子で、湊咲がやってきた。


「全然大丈夫。買い物ありがと」


 片手にぶら下げた買い物袋からはネギの頭が飛び出している。無事に食材は確保できたらしい。僥倖と言っていいだろう。


「寒いね」


 出会い頭の挨拶のように、当たり前のことを言ってみる。


「ですね。でもちょっと、楽しいです」


 湊咲は履いたブーツのつま先で雪を跳ね上げてみせた。


「今日は外で寝てたら死んじゃうから、飲みすぎないように」


 子供っぽい仕草に懐かしい話を思い出してからかってみる。場所もちょうどこの辺だった。


「飲んだら奈緒さんの家から出ないようにしますね」


 どちらともなく家の方向へ歩き出して、雪を踏む音の合間に小さな笑い声を含ませつつ、湊咲が言う。


「大した家じゃないから、潰れて床で寝たら風邪引くけどね」


「じゃあベッドの上で飲みます」


「それは許さない」


 至極どうでもいい会話を広げつつ、人気の少ない道を歩く。


 道には朝よりもはっきりした轍が出来ていて、通勤時よりはまだ歩きやすい。雪に埋もれない分、足先の冷えもマシだった。


「雪が降ると」


 湊咲がぐるりと周囲を見渡しながら。


「全部、違う場所みたいですね」


「そうだね」


 そこかしこにある白色。積もった雪で変わった塀や木のシルエット。曇っているのにぼんやりと光が満ちるような明るさ。世界はそんな風になっている。


「色がなくなるからかな」


 湊咲は白い息と共にそんなことを言う。彼女にとっては色の印象が強いのだろうか。


 空気はこんなに冷たくて張り詰めているのに、色も光もどこか淡い柔らかさを漂わせていてる。その印象は確かに、白というよりも無色かもしれない。


「あと、音がしないってのもあるかもね」


 立ち並ぶ家の間を歩いて、ふと思ったことを付け加えた。誰も彼もがひっそりと家にこもって様子を窺っているような気配が流れている気がした。もちろん雪が音を吸っていて、車がほとんど走っていなくて、という理由もあるのだろうけど。


 なんてことを話した矢先、通りすがりの公園では反例のように子供が雪遊びをしていた。凄まじいはしゃぎぶりで、無邪気な熱と歓声をまき散らしている。


「雪遊び、いいなぁ」


 歩みを緩め、公園を眺めながら湊咲がこぼす。


「雪うさぎくらいなら作ってもいいけど」


 子どもたちが興じていたのは雪合戦だった。それをなぞるのはちょっと勘弁、というか無理だ。そんな若さはもう持っていない。


「うちのベランダにも積もってるだろうから」


 付け足してから思い出したが、しばらくベランダの掃除はしていない。だからやや泥っぽくはなるかもしれない。


「あぁ、いいですね。一匹ずつ作って並べましょうよ」


 そう言って湊咲は赤みが差した頬で嬉しそうに笑った。同時にこぼれた息が白く揺れる。


 公園を通り過ぎてしまえば、またほとんどの音が消えてなくなる。


 隣を歩く湊咲と自分自身の発する音だけが、私たちについてくる。




 


 包丁の音、水道の音、冷蔵庫の扉の音。時折こぼされる小さなひとりごと。


 今はまだ卓上コンロと食器だけが置かれたテーブルの前で、私は本を読んでいた。


 大きめの土鍋とか、卓上コンロとか。湊咲が来るようになっていなければ、きっとこの家にはなかったものだ。


 それ自体は大した値段ではないし、仕舞う場所にも困っていない。それでも、私が一人で生きていた中で、自発的に買っていなかったもの。


 そういう性質のものが家に増えるたび、湊咲はなんとなく恐縮したような、それでも嬉しそうな様子を見せる。


 私も決して嫌ではないし。買えばいいと提案するのも大体が私からで。


 そのくらいの距離感が丁度いいような気もしていたり。


 こうして調理作業を全てまかせて座っていることに、最初の頃はささやかな罪悪感や居心地の悪さを抱いたりもした。狭いキッチンで慣れない作業を手伝ったところで、邪魔にしかならないと理解していても。


 今ではもう、こういうものだと思えるようになっている。いくつかの議論を経て、食材費は概ね私持ちにしているという理由も大きいけれど。


 距離感と意識の変遷をふと自覚する瞬間はどうにも気恥ずかしい。


 そして全く悪い気はしていない。


 最適化されるように、収まるべきところへ収まっていくような感覚。これが錯覚だとしても、それはそれで構わない。


 ただ、そう感じているのが私だけでなければいいな、なんて。


 湊咲がこぼす音を聞きながら、そんなことをささやかに願っている。





 

 湯気の立つ鍋へ菜箸を突っ込み、良い感じに火の通った白菜をまとめて攫おうとした時だった。


「そういえば」


 湊咲はポン酢の入った取り皿を持ち、取り分けた豆腐を箸先で切り分けながら、ふと切り出した。


「実は、バイト辞めたんですよ」


「どうしたの?」


 たかがバイトと言えばそうで、驚くほどではない話だろうが。店でする料理も嫌いではないと聞いていたし、意外ではあった。


「えぇと……あの、バレちゃって」


「バレた、って……」


 その言葉の嫌な響きに、湊咲の言葉をただ繰り返す。


「ああ、全然、名前と顔だけというか、昔テレビ出てたよねとか、それくらいだったんですけど」


 私の顔色が変わったことを察したのか、そんなフォローが飛んでくる。


「でも、なんか居心地悪いなって、思っちゃって」


 湊咲は困ったようにも諦めたようにも見える表情でそう言った。


 気に病んでいないのならそれでいい。今更私にそういう側面を隠すことも、あまりないのではないかとも思うし。


「でも……その、大丈夫なの?」


 とはいえ、聞かずにはいられない。身の回りの話もそうだが、金銭面も影響はあるだろう。


「お金はほら、生活するくらいはないわけじゃないので」


 湊咲は特に気負った風もない。


 絵を売った分、ということだろうか。そのお金に手を付けないために働いているのではないかと、うっすら思っていたけれど。


 こだわりに対する諦めがついたということかもしれない。なんにせよお金はお金なので、こだわる必要もないとは思う。


 湊咲は話しつつ、普通に食事を続けている。本人が気にしていないなら、あまり心配しすぎても鬱陶しいだろうし。


「今までより、もっと暇にはなっちゃうんですけどねぇ」


 口調は軽いままだ。


「もっと手の込んだ料理でもやってみようかな」


 湊咲は私へ露骨な目配せをしながら言う。


「味見は任せて」


 私の返事へもちろんとうなずいてから、湊咲は何か思い出したような顔をして。


「あとそうだ、大根がですね、一本でしか売ってなくて」


 話題が変わる。すでに調理されているのは鍋の具材として入っているものと、薬味の大根おろし。


「半分くらい残っちゃってるんですけど」


 はんぶん、と口の中で反芻した。その量がどのくらいなのか、あまり見当はつかないが。


 頭の中で大根の調理法を思い浮かべようとしてみる。テンプレートのように浮かんだのは、おでんに入っている味の染みた大根。例えばあれはどうやって作るのだろうか。脳裏に描いた絵面は、コンビニか居酒屋のものしかなかったけれども。


「……善処はする」


 もう少し考えてみても調理工程の想像はできなかった。なにかの本で大根は米の研ぎ汁で煮るという話を見た気がするけれど、それはどの段階で行うんだ?


「あとで適当に常備菜作っときますね」


 私の様子に、湊咲はにやにやと笑いながらそう言った。


 なんとも言えない悔しさがあるが、そのまま置いていかれても扱いに困るのは目に見えていた。


 眉間にシワを寄せて遺憾の意のみ表明したら、湊咲はもっと笑っていた。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る