#15 11月9日 ラジオから流れる/溢れる/秘密の話


 秋もすっかり深まって、過ごしやすさよりも肌寒さに意識が移り始める頃。


 相変わらず、湊咲は毎週のように家にやってきては晩ごはんを作ってくれている。


 そして1度泊まって弾みがついたのか、湊咲はあれ以来ほぼ毎回泊まっていくようになっていた。日によっては、食後のお茶を飲んでいる間に曇っていく湊咲の表情に耐えかね、私の方から提案することもあったけれど。


 季節柄なのか気温のせいか、私の方も人恋しいような気分にはなりがちで。利害の一致といえばそうかもしれない。


 そんななし崩しの関係をどう扱っていくべきか。改めて考えることもある。


 少なくとも彼女の料理は間違いなく美味しい。なんなら最初の頃よりも更に上達しているようだった。加えて酒の飲み方も覚えてきたようで、一緒に休前日を過ごして楽しい相手なのは間違いない。


 ただ、湊咲について私の知っていることはほとんど増えないままだ。


 素性も知らない相手と、多くの時間を共にしていること。


 私は何も損をしていないのだから、深く考える必要もないのかもしれないけれど。羽鳥湊咲に対する実際と内心の距離感が縮まるほどに、彼女の抱えているらしい何かに意識が向きそうになるのは確かだった。


 私と一緒にいる時間を延ばそうとすることに対して、今でも湊咲は申し訳無さそうな表情を浮かべることがある。


 私にはどうしていいのかわからなくて、あまり気づかないフリをしている。

 



 まぁ、それはそれとして。


 本日の晩ごはん。


 メインの皿の上では、揚げた野菜や鶏肉にとろみのある餡がかかっていた。更にレンコンのきんぴら、水菜と油揚げのサラダ、キノコの中華スープが添えてある。


 こんな料理が家で作れるのか……と慄きながら、薄衣に餡の絡んだ鶏肉を頬張る。甘酢の適度な酸味がある餡と、じゅわりと染み出す鶏肉の旨味。どう考えてもご飯に合うのだが、誘惑に負けて先にレモンサワーへ手を伸ばした。


「おいし……」


 どんな感想を言おうかなどと考えていた気もするが、そんな思考とは関係なく、ため息と一緒に言葉が漏れた。


 湊咲はむずむずとした笑顔を浮かべながら、次にレンコンをつまむ私を眺めている。こんな姿でよければいくらでも提供しようと思う。


 湊咲と一緒に居る時、テレビを点けるのもなんだか違う、けれど無音も居心地が悪い。ということで、この頃はラジオを流すのが習慣だった。スマートフォンのラジオアプリからスピーカーへ音を飛ばしている。


 知りもしない他人の近況を綴ったメールが、パーソナリティのあっさりとした声で読み上げられるのを聞き流しながら食事を続ける。時折ラジオの些細な発言を捕まえて、他愛もない、記憶にも残らないような会話につなげたりしつつ。


 そうやってお互いがほとんど食事を食べ終わった頃。わずかに早く食べ終えた私は、最後に残ったレモンサワーを飲み干してしまう。弱まった炭酸が口腔で弾けるのを感じて、ごちそうさまでした。


 食後の後片付けに以降する前の僅かな時間。満たされた気だるさをじんわりと堪能しつつ、目の前の食器たちが放つ圧力を感じている。少しだけ、と次の動作を先送りにする代わりに、ラジオの音に耳を傾けていた。


 騒がしかったという印象だけを残すCMが挟まった後、ラジオから次の番組が流れ始める。なめらかな口調のパーソナリティが滔々と話し始めた。


“さて、気温もずいぶんと低くなってきた今日このごろですが、まだ間に合う芸術の秋、ということで、本日は若手アーティストたちのお話はいかがでしょうか。ゲストは美術評論家の……”


 その瞬間、湊咲が目を見開いて露骨に顔色を変えた。そしてラジオの音声を流すスピーカーを睨みつける。


 それから慌ててこちらへ向き直った。やってしまった、と口を開かずとも伝わるような表情で。


 のんびりとしていた空気が一変してしまったような気がして。


 ここで何事もなかったように流してしまうのも、それはそれで誠実ではないと思ったから。


「あのさ」


 私は自分のスマートフォンを手繰り寄せ、ラジオアプリの停止ボタンを押す。


「言いたくなかったら、本当に言わなくて良いんだけど」


 言葉の間の静寂。乾いたような、軋んだような、その空気。湊咲は最後の一口ぶん残ったレンコンのきんぴらを前に、動きを止めていた。


 何らかの形で、決定的なやり取りになってしまうかもしれないと自覚してから。極力軽い口調を意識して尋ねた。


「学校、休んでる理由って、あったりする?」


 口にした質問は軽くはなかった。しかし躊躇いもなかった。今更といえば今更だ。


 湊咲は表情を変えない。けれど握ったままの箸の先が微かに震えた。


 聞き方が率直すぎたかな、と思う。ラジオに対してあまりに露骨な反応をしていたから、言葉が足りないままに尋ねてしまったかも。


 私だって、この子との仲を途切れさせたいわけではない。


「ごめん、野次馬根性みたいなものだから、言いたくないなら本当に――」


「あの、私」


 湊咲は私の言葉に割り込んで、一度すぐに途切れてから。


「……聞いてもらいたい話があって」


 決意を感じさせるような、存外に前のめりな言葉。


「本当は、言っちゃダメなんですけど」


 小さなひび割れから漏れるようなその声色に、湊咲が泣き出すのではないかと思った。しかし彼女の目元を見ても涙の気配はない。


「もうこれ以上、迷惑かけるのもって、思うんですけど」


 どこか弱りきったようにも聞こえる。


「何度も言うけど、湊咲のことを迷惑だなんて思ってないよ」


 ここまで伝わっていない理由も、そこにあったりするのだろうか。


「それに誰かに言ったりしない。ただ聞くだけなら迷惑だとも思わない」


 断言を意識する。妙な部分で不安がらせたいわけじゃない。


「まぁ、聞いたからって私に危害が発生するような秘密だったら、それは嫌だけど」


 わざとらしく肩をすくめて見せた。例えば、ひどい犯罪に関わるような内容でなければいい。


「それは大丈夫、だと思います。その、内緒にしてもらえるなら」


 少しだけ緩んだように湊咲は笑って言った。


「言わないよ」


 繰り返して、うなずきを返す。


「まぁ、聞くだけしかできないとは思うけど」


 聞こうとしておいてなんだが、そう告げておく。過度な期待はきっと誰のためにもならない。


「はい」


 湊咲は小さくうなずいて、深呼吸をして。


「……ありがとうございます」


 それからしばしの沈黙があった。どう考えても気軽な話ではなさそうだったので、その間に私は卓上の食器を片付けることにした。湊咲は食事を続けられる様子でもなく、残されていたレンコンのきんぴらは私がつまんでしまう。


 小気味いい歯ごたえとごま油の風味のあと。唐辛子の辛味がほんのりと舌に残った。




 


 騒々しくならないようにゆっくりと手を動かし、時間をかけて皿洗いを終えた。


 綺麗になった机の上に、麦茶のグラスを2つ置く。


 それからまた少し経って、グラスの表面の結露が滴って水たまりを作り始めた頃。

 話すことを決意したように湊咲は肘から先をテーブルの上に置いて。意を決したように口を開いた。


「私、絵を描いていたんです」


 予想通りといえば予想通りの話だ。


「今も……描いていないわけではない、と思うんですけど」


 使い込まれている印象の手先は、料理のせいだけではなかったのだろう。


「それで実は結構、いいところまでいってて」


 目を伏せながら、ぽつぽつと言葉をちぎって並べていくような語り口。


「高校の頃はたまに、賞もらったりとか」


 内容とは裏腹に、誇らしいような様子は全く感じられなかった。


「私はなんか……描きたくて描いて、たまに褒められたらそれも嬉しいなって、そのくらいだったんですけど」


 湊咲は卓上に置いた手の指先を、合わせたり離したりしながら。


「賞を狙うとかそういうことよりも、絵を描くのが楽しいって気持ちがずっと強くて……もちろん褒められたら嬉しいし、良い賞もらっても嬉しかったんですけど」


 淡々と言葉を連ねるその声はどこか他人事のようにも聞こえる。


「趣味と実益を兼ねた、みたいな……別に賞をもらうのが実益ってわけでもないかな」


 才能と衝動、そして外部からの評価。それだけ客観的に並べれば、誰もが羨むような内容みたいで。


 それでも湊咲の様子は、おそらくそうでなかったことを表している。


「まぁでも、そんな感じで……絵を描いていて。これを続けられたら良いなぁって、ずっと思っていたんです」


 そこで一度彼女は手を握り合わせ、落ち着かなげにまた離した。


「それで、高校3年生の頃」


 不意に、家の前の道をバイクが駆け抜けていく音がけたたましく響く。


「結構、良い賞をもらったんです。学生以外もたくさん応募するようなところのやつを」


 騒々しいエンジン音の後には静けさが置いていかれた。


「そうしたら」


 湊咲は息継ぎのような呼吸を一つ挟んだ。その顔は重力に負けるようにうつむいていく。


「声を、かけてもらって」


 話の先はまだ見えてこない。


「展示会をやって、絵を売ってみないかって、言われて」


 湊咲の顔は完全に下を向いてしまった。それでも言葉は続く。


「大学でも絵の勉強はしたくて、やっぱりそれってお金もかかるし」


 目元はすっかり前髪に隠れて見えなくなって、小さく動き続ける口元だけが見える。


「そういう足しにもなるからって」


 その話の流れ自体は間違っていないと思う。持ちうる能力で稼げるのならば、大抵の場合はそれに越したことはない。


「展示会って言っても、受験の邪魔になるとよくないから、今あるストックを紹介することにしようって」


 私はその行為を実際に見たことはないし、表情が見えないせいもあるのだろうけれど。


「でも、足りなかったんです」


 湊咲の様子は、まるで懺悔のようで。


「私の描いた作品だけじゃ、売り物として、単独で出すには数が足りなかったみたいで」


 そこで一度湊咲は言葉を切った。続きを躊躇うというより、説明の順番を探しているような様子だ。


「……そもそも、私が絵を描き始めたのは母がきっかけで」


 思い出したかのように、湊咲は首を少しだけ持ち上げた。ぎりぎり表情が見える程度、まだほとんどうつむいたままのその顔は、擦り切れたような、バツの悪そうな苦笑いを浮かべていた。


「母は本当に、人生の趣味として描いているような人だったんですけど」


 疲れることに慣れてしまったようなその表情は、場違いなほどに気楽そうで、痛々しいとすら思ってしまう。


「だから母が絵を描いているのを見て、私も描き始めて……結構ずっと、教えてもらったりしてて」


 そう語る口調は変わらず平坦だ。


「絵に関しては先生みたいなものっていうか……だから、絵柄は似てたんですよね。そもそも私の絵、ほとんど母のコメントもらいながら描いてたし」


 湊咲が身じろいで、膝を立てて座り直す。手はテーブルに載せたまま、膝へ前のめりに寄りかかるように。姿勢が変わって、華奢な身体はより小さく見えた。


「それで、そう……なんていうかな」


 力なく芯のない、投げやりな声で。


「かさ増ししよう、って話になって」


 核心を聞いてしまったのだろうと思った。


 私の喉のあたりで、心臓がうねるように脈打つ。


「母の絵のうち未発表で、私が描いたことにできそうなものも、私の絵だってことにして売ろうって」


 嫌な話だった。どうしようもなく、嫌な話だ。


「ズルなのは分かってたんですけど、画廊の人も母も、もうやる気で……その時は私も、その、仕方がないのかなとか考えたりしちゃって。予備校とか受験勉強とか、ほんとに忙しかったのもあって」


 それから湊咲はまた笑った。その笑顔が彼女にとって自傷でしかないことは、私にも分かる。


「それで結局、本当に売ったんですよ。こんな値段つけていいの? って私は思っちゃうような値段で」


 湊咲は言葉を止めた。意識を逸らしたがるように手先を動かして、テーブルの天板を何度か撫でた。


 そして諦めるように深く息を吐いてから、小さく吸い直して。


「そうしたら、売れたのはほとんど母の描いた絵ばっかりだった」


 言葉の意味がすぐに伝わってこないほど、虚ろに空気が揺れる。


「思い返してみれば、制服着て写真撮られたり、何度も取材されたり、テレビとかも」


 呟くように語るだけで精一杯なのかもしれなくて。


 その時の湊咲が何を考えて、感じていたのか。


 それから今まで、何を。


「あぁ、そういうことかって、後から思ったんですけど」


 あの画材だらけの部屋で。どこかの厨房で。見知らぬ路地で。この部屋で。


 いつも寝不足気味で、消えない目元の隈の理由は。


 暇を持て余しているなんて奇妙な言い草で、私と一緒に居ようとした理由は。


 何を抱え続けていたのか。何を味わっていたのか。何が見えていたのか。


 湊咲は首の筋を伸ばすように顔を上げて、数秒だけ目をつぶった。それからまた俯いた姿勢に戻る。


「別に……別に、私、いつも自分が描きたいと思って、絵を描いていたんですけど」


 何もかもが遠く感じる。湊咲の言葉の合間が静かすぎて、耳鳴りがしている気がする。


「だから売れたとか売れなかったとか、どうでもいいはずで」


 目眩のしそうな暗さだけが、私の脳裏で渦を巻く。


「賞をもらったのも確かだったから、認められなかったなんてこともないし」


 漫然と彼女の傍にいた事を後悔しそうになって、何を後悔しようとしたのか分からなくなって、後悔すべきなのかどうかも分からなくなる。


「そう思っていたし、今でも思ってるんです。本当に」


 湊咲の手元が目に入る。爪が皮膚に食い込むほどに力を込めて握り合わされていた。


 私は慌てて手を伸ばして、湊咲の手を包むように握る。身体の線の細さからは想像出来ないような、筋張って使い込まれた手。タコになっていたであろう、部分的に固くなった皮膚が私の手のひらに触れた。


 湊咲は驚いてこちらを見てから、磨り減ったような笑顔を浮かべる。


「……ありがとうございます」


 彼女の手に籠もっていた力が抜けるのを感触で確かめる。少し迷ってから、手を離して引き戻した。


 何かをリセットするように、湊咲は置きっぱなしだった麦茶を口に運んで、1つ息を吐く。


「それに数は少なくても、私の絵にも……お金を、すごい額、出してくれた人もいたんだから、それはすごいことで」


 言葉は続く。淀みの少なさに、きっと何度もその事実を噛み締めようとしたのだろうと思う。


「それは絶対嘘じゃないと思ってて、ずっと自分で考えてても、やっぱり変わらなくて」


 湊咲がそれを都合よく受け取ってしまえたのなら、良かったのだろうか。


「でも、描きたいと思う気持ちがどこにあったのか、わからなくなって」


 自分の頭の重さに耐えかねたように、湊咲は立てた膝に頬を押し付ける向きで頭を乗せた。


「探しても、見つからなくなっちゃって」


 潰れた頬の隣で唇がうごめいて言葉を発する。


「ごまかしたり、無理にでもやってみたり、やろうとすれば手は動くんです。描けるものも、別に気に入らないとかそんなこともないし」


 ついさっき触れた、今も目の前にある彼女の手。


「けど、何も思えなくなっちゃって」


 使い込まれたその皮膚と筋肉の感触。


「前はただ、絵を描いて、手を動かして、それが形になっていくことが楽しかったのに」


 そこだけ文字にすれば、やっぱり幸せにも見えてしまうだろうか。


「自分が何をやってるのか、わからなくなって」


 その喪失が、まして理不尽な形で見失ってしまうことが、どれほどの苦痛なのかは想像もできない。


「贅沢なんだろうって思うんですけど」


 私になだめられてから力なく投げ出されたままの湊咲の手が、手先だけ伸びをするように開かれる。そのまま手のひらを下にして、人差し指の先でテーブルの天板を引っ掻くようにしながら。


「だから去年は、ずっとごまかしながら学校行ってたんです。通ってたら、もしかしたら、そのうち戻るかもしれないと思って」


 そうなっていたら、私は迷子と出会っていなかったのかもしれない。


「それでも、そういう学校だから、みんな、やりたくてやりたくて仕方がない人たちばっかりで」


 私のいたような、いわゆる「普通の大学」とは、モチベーションの高さは比べ物にならないのだろう。


「そういう人たちの中にいるのも、つらくなってきたというか」


 湊咲は机の上の手先で指先をこすり合わせるようにした。


「自分が何をしてるのかわからないって気持ちを、外からも見せられてるみたいで。嫌なことをされたりとかは、全然、驚くくらい全然なかったんですけど」


 メディアへの露出もあったと言っていた。入学前からの実績に筋違いな嫉妬を向けられる懸念もあったのだろう。そして、人目につかない調理のアルバイトを選択していた理由も今更のように察する。


「私、ずっと……中学くらいからは、ただ絵を描いて、それでいいよって言われることも多かったりして」


 環境にも能力にも恵まれていることは、もちろん、それを持ち得ないよりは幸せなのかもしれないけれど。


「他のこと、全然頑張ってこなかったなって」


 湊咲の行動の端々に見える危うさや不器用さ。そういった要素の根は、彼女を取り巻いていた環境にもあるのかもしれない。


「何言ってるんだろう……ほんと、ごめんなさい」


 湊咲は膝から頭を上げ、今度は額を膝に当てるようにまた俯いた。


「ただ、その、なんていうか」


 すっかり丸くなった姿勢で。


「ちょっと、苦しくて」


 殻にこもるようにうずくまった姿を見ながら、彼女の話を反芻する。反芻して、頭の中でぐるぐると回して。私に直接関係ないのも事実ではあるのに、どうしようもなく思考は重い。重いだけで、なにも形にはならない。


 改めて、今更、この期に及んで。湊咲に対して自分がどうするのか、見当がつかなくなっている。


 彼女の事情が犯罪絡みでなければいい、などと思っていた気がするが、話の内容は詐欺といえば詐欺だ。けれど確かに、私や関係者が口外しなければ何の影響もなさそうな話でもある。


 湊咲はやっと顔をこちらへ向け、苦笑いしながら口を開いた。


「あと……ごめんなさい。本当は、聞かれたら言おう、言わせてもらおうって、思ってました」


 こんな話だから、本当に言っちゃいけないんですけどと茶化してから。


「これもやっぱり、ズルいですね」


 ため息を吐くようにそう言って、溢れていた言葉はついに途切れた。


 そこまで聞いて、なにか言わなければならないと思って口を開く。


「そんなことは思わないけど」


 すっかり温くなったグラスを手にとって舌を湿らせる。麦茶の香りだけはどうに感じ取れた。


「きっかけって、必要でしょう」


 最初から分かっていたことだったけれど、私にはただ話を聞く以上のことはできそうになかった。


 事実として、騙された人がいるのも確かなのだろう。本人が気づくのかどうかは別として。誰が悪いのかといえば湊咲と彼女の家族に話を持ちかけた画廊か何かの人間だろうが、それを改めて言葉にしたところで何も解決はしない。そもそも湊咲の話しぶりからしても、今更悪者を決めたいわけでもないのではないか。


 なんて、意味もないことを考えるだけで言葉は出てこない。発話未満の断片的な思考が澱んでいるだけで、役に立たない頭だと思う。


 湊咲はいつもの会話と同じ明るさまで声を戻して付け加える。


「後からこんな事を言うのもなんですけど、ほんと、忘れてもらっていいので」


「……内容がすごすぎて、きちんと聞けた自信もないかも」


 実際、そういう世界の内側に触れたことのない私には理解が及んでいない部分もたくさんあるはず。


「それで大丈夫です」


 私へ言い聞かせるように湊咲の声は柔らかい。


「むしろ、聞いてもらっただけで」


 どこか満足気にも、安心したようにも聞こえる気がした。私がそう思いたいだけだろうか。


「遅くなっちゃいましたね。寝る準備しましょうか」


 重さをかき消そうとするように、何事もなかったように微笑んで湊咲は立ち上がった。


 話し終えた彼女の態度はあっさりしたものに感じる。それは誰かに聞いてほしかっただけという言葉とも矛盾はしない。話しぶりを思い出しても、湊咲の中では激しい感情から距離を置けているようにも感じられた。


 今ここで私が考えていたって得はないのもその通りだ。湊咲が、少なくとも表面上で普通にしている横で、私だけ沈んでいるのもおかしいだろうし。


 今この瞬間、私が座って何もしないでいることで、何かが改善に向かうことはない。


 そう自分に言い聞かせて、湊咲の行動を追うように立ち上がった。


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