#7 7月21日 炎天/冷房/幽霊


 梅雨が明け、夏が真っ盛りだった。透明感の強い青空の向こうから、情けも容赦もない日差しが肌を灼いてくる。念入りに塗ってきた日焼け止めすら貫通してしまうのではないかと不安になるくらいだった。曇っていてくれてもよかったのに、と少しだけ思う。


 写真展会場の最寄り駅。改札を出てすぐのところに羽鳥湊咲を見つけた。すっかり顔は覚えたなと思いながら、待っている彼女のもとへと向かう。


「お待たせしました」


「いいえ全然!」


 羽鳥湊咲がはっきりとした笑顔を浮かべると、可愛らしく八重歯が覗いた。それはそれとして目元には今日も隈が見て取れる。そういう顔つきなのだろうか。童顔気味な印象とのギャップで、やっぱり目立つ。


「むしろありがとうございます。私、こういうときに誘える人がいなくて」


 意外といえば意外かもしれない。周りから距離を置かれるような人間には見えなかったが、そういえば飲み会でもうまく話せなかったと言っていたな。


「私も行こうかどうしようか迷っていたから、ちょうどよかったです」


 こちらの理由は単に出不精なだけだが、そこまでは言わないでおく。


「ホントですか? 嬉しいです」


 そうやってなんとなく微笑み合って、慣れない駅から踏み出す。


 もう初対面と言えないくらい一緒にいた時間はあった気もするが、距離感は今もよくわからなかった。特殊な状況ばかりだったし、それもそうか。


 会場までの道中は当たり障りのない曖昧な会話が続く。しかし内容はともかく、会話自体は思っていたよりも弾んで、予想外に気まずい空気は生まれなかった。そしてその中で、彼女が今年から一人暮らしを始めたことや飲食店の厨房でアルバイトをしていることを知る。


 そうやって飲食店の裏話なんかを興味深く聞きながら、スマートフォンに表示した地図をこまめに眺めつつ足を進める。表通りからは少し離れるようで、こういう機会でなければまず立ち寄らないような裏道に入っていく。検索した経路だと、駅から10分ほどの場所にあるらしい。


 地図を見ながら慎重に経路を辿ったため、会場まで大きく迷うことはなかった。

 着いたのは住宅街にポツリとあるような小さなギャラリーだ。生い茂った蔦に囲われた入り口に案内の看板が立っていた。


 建物に入った瞬間、しっかりと効いた冷房の涼しさに肌が驚く。受付を通っても他に客がいる様子はない。世間一般では平日だし、そんなものだろうか。


 簡単な受付を済ませ、順路の説明を聞いてから、並んだ写真と向き合う。


 まだ乾く前の汗が一筋、服の下で肌を伝っていった。


 1枚目の写真は夏の朝を写したもの。どこかの線路沿い、青々と伸びた草、遠景に写っている犬の散歩をする親子。きっとまだ気温の上がりきっていない湿った空気の気配と、長閑な時間の流れが、肌触りをもって感じられるような。


 この写真自体は写真集でも見たことのあるものだった。とはいえ印刷されている大きさも違えば、本のページのように湾曲することもなく飾られている。ここで見るほうが印象は明らかに鮮烈で、物足りなさは感じない。


 目の前に一枚の中に物語が流れている気がして。それをどうにか自分の中で形にしようと試みる。それが楽しくて、この人の写真が好きになった。


 そうやって見ているうちに、羽鳥湊咲と私の距離はゆるやかに開いていく。お互いが自分のペースを崩さず、その場で語り合ったりもしないから必然ではある。私はせっかく見るのなら勝手に好きなだけ見たいので、気が楽だった。


 写真から脳が作り出す物語の輪郭をじっと見つめるような感覚。日差しや喧騒から隔離されたようなギャラリーの雰囲気もその後押しになっていた。




 

 

 想像した情報量に少し疲れてきて、終盤に差し掛かっていると思われる辺り。


 やや高めの位置に掲げられた一枚を、少し先を進んでいたはずの羽鳥湊咲がじっと見つめていた。


 私は気圧されたような心地で足を止める。


 写真に対してではない。


 それを見つめる羽鳥湊咲の様子に、だ。


 彼女はこちらに気づく様子もなく、何を感じているのか読み取れない無表情で佇んでいる。写真と向き合っているその横顔が、近寄りがたい静謐さを放っていた。


 数歩離れた位置から眺めたその姿は展示物と同じか、それよりも。引き込まれてしまいそうな雰囲気で。


 けれどそれは今この瞬間、見つめるべきではないもののような気がした。


 私は一つ呼吸を挟んでから、やや下がった位置へ並ぶように近寄った。そして彼女が目を奪われている写真へと視線を向ける。


 添えられたタイトルは“幽霊”。


 どこかの街路だろうか。スポットライトのような街灯が僅かな空間を明るく照らしている。その明るさから少し離れたところに佇んでいる人影。やや肌寒さを感じさせるような、暗い夜の雰囲気。そんな写真だった。


 写真集には収録されていなかった写真だ。収録されていたのは比較的明るい写真が多かったから、そぐわないと判断されたのかもしれない。


 そんなギャップも含めて印象的な写真ではあると思う。他の作品に違わず背景や物語を想像したくなるような魅力は確かにあって、私にとっても好きと言える作品なのは間違いない。


 その一方で、羽鳥湊咲がこんなにも魅入られているのはなぜだろうかと思う。想像がつくほど、私は彼女のことを知らないけれど。


 そんなことを考えたところで私は鑑賞を止め、静かにその作品を離れた。羽鳥湊咲は視線を逸らす気配もなく、じっと見つめたままだ。私が追いつき、先に行こうとしていることにも気づいていないみたいだった。


 そこからはまた比較的明るい、けれど静かな印象の写真が続く。そして余韻を残すように展示は終わった。出口の手前にも係員がいて、展示されていた作品のポストカードや、今日のきっかけとなった写真集も売っていた。後ろに置いてきた羽鳥湊咲が追いついてくるまで、ぼんやりと眺める。


 売られているポストカードの中には、羽鳥湊咲がその前で立ち尽くしていた、幽霊と名付けられた作品のものもある。改めて平たく並べると、やはりそこだけ一際色味が暗い。


 そうやっているうちに、追いついてきた羽鳥湊咲に声を掛けられた。


「おまたせしました」


 会場に入る前より、声に覇気がない。純粋に疲労してしまっているように聞こえた。


「全然、物販見てましたし」


 それからなんの気なしに、例の写真のポストカードを指し示す。


「さっきじっと見てた作品、小さいけど売ってますよ」


「あ……」


 羽鳥湊咲は反射のように手を途中まで上げて、そこで彷徨わせた。迷っているように見える。


 彼女の経済感覚はわからないが、写真集よりはずっと安い。コンビニで飲み物を買う程度の値段だ。気に入ったのであれば、何に悩んでいるのかわからないけれど。


 それを見て浮かんだ次の動作に対して、私の方も迷いそうになって。迷うほどの金額ではないと思い直して、そういう問題でもないと改めて客観視もしながら。


 会期はそう長くなく、この瞬間を手元に置いておけるのは今だけだ。


「これを2枚、ください」


 考え続けるのもあまり益はない気がして、口に出してしまった。羽鳥湊咲が隣でかすかに身じろいだような気配がある。


 売り場の女性はにこやかにうなずいて、包装をし始めた。


「他に何か買ってく?」


 財布を取り出しながら、羽鳥湊咲に聞いてみる。


「えっ、と」


 小さく狼狽えるようにして、羽鳥湊咲の言葉は濁って消えてしまった。その間には包装が終わっている。そして小銭と引き換えに薄い袋を受け取った。察し良く、一枚ずつ別の紙袋に入れてくれていた。


 そして一枚は自分の鞄へ。もう一枚は羽鳥湊咲へ差し出した。


「もしよければ、一枚どうぞ」


 押し付けがましいだろうとも思う。すぐに買おうとしていなかったから、もしかすると単純な好き嫌い以上の感慨があったのかもしれない、けれど。


「強く印象に残ったものって、とりあえず持っていてもいいと思うから」


 なおさら逃してしまった後悔は大きくなるのではないだろうかという、お節介。


「あ、りがとう……ございます」


 どこか呆然とした様子で受け取ってくれた。嫌がられてはいないように見える。


「じゃあ、行きましょうか」


 あんまり突っ立っていても不審だろうと思って促した。


「あっ、と、はい、そうですね」


 羽鳥湊咲はまだ落ち着かない様子で、たどたどしくうなずいた。呆気にとられたような表情はそのままだ。


 物販のお姉さんに改めて頭を小さく下げつつ、出口へ向かう。


 展示を見ている間は集中していて気が紛れていたが、気づけばそこそこ空腹だった。時間的にも遅い昼食にちょうどいいくらいだろうか。


 会場だったギャラリーを出る。エアコンの効いていた屋内との気温差に目眩がした。軒から出ることを躊躇いそうになるほど光が強い。


「あっつ……」


 思考を介さない言葉が漏れる。それから、ことさらに軽い口調を意識して口を開く。


「もし好きで気になってたわけじゃないなら、適当に放っておいてくれていいからね」


 勢いで押し付けたが、先程の尋常ではない集中具合を鑑みると余計なお世話である可能性も十分にある。まぁ、そう言われても扱いに困ってしまったりするのが貰い物の常だったりするけれど。


「いいえ、あの、そうじゃなくて」


 数歩離れた位置から追いかけるように歩いてきた羽鳥湊咲は、髪がはっきりと揺れるくらいの勢いで首を横に振った。


「本当に好きなんです、この写真」


 まだ手に持ったままの小さく薄い紙袋を、胸の前に掲げるように持って。


「それと私、あんまりこういう、もらったりとか、したことがなくて」


 感情に追いつかないような、突っかかりぎみの言葉と。


「ありがとうございます、嬉しいです。すごく」


 それでも彼女の声に込められた熱のようなものは、暑気越しにも伝わってきた。


 見慣れぬ裏路地、眩いにもほどがある陽の下で。


 小銭の対価にしては、十分すぎるくらいの笑顔を浮かべてくれる。


 そんな羽鳥湊咲の反応は想像以上に大げさすぎて、盛大に照れくさい。


 そのせいで上がったはずの体温は、暑さに紛れてわからなくなった。




 


 その後、昼食を摂るため適当に入ったカフェで、食後のコーヒーが運ばれてきた頃。


「そういえば、今更なんだけど」


 まだ熱すぎるコーヒーを、おざなりに小さくすすりながら口を開く。コーヒーの味はそれなりだ。さっき食べたオムライスもそうだったけれど。


「学生さん?」


 バイトの話なんかも聞いたし、これくらいは良いのではないかと考えて踏み込んでみる。


 一般的には今も平日の昼間だ。これまでに見かけたのも平日ばかり。学生であればそれなりに時間の融通は利くだろうし、違和感はない。そうでなかった場合は……適当に濁すつもりだ。


 そもそも20歳と言っていたし、ほとんど確信を持った上で、気兼ねのない確認くらいの質問だった。学校の話でもしてくれたら話題になるかな、程度の考えで。


「あっ、と、まぁ、そう、なんですけど」


 羽鳥湊咲やや困ったようにそう言いながら視線を泳がせる。


「ちょっと今、休学中で」


 想像と違った反応には、続いた言葉で納得した。


「あー……」


 納得はしたけれど、聞かなければよかった。気まずい。


 彼女は何も悪いことをしているわけではないのだから、それも勝手な話ではあるのだけれど。


「えっと、全然気にしないでください……って私が言うのも違うかもなんですけど」


 余計なことを聞いてしまったのは間違いないので、謝っておく。


「無遠慮すぎました。ごめんなさい」


「いえ……ちょっと、どころじゃないくらい、怪しいですよね、私」


 苦笑いを浮かべてから羽鳥湊咲はコーヒーを口に含む。


「まぁ、最寄りでもない駅前で酔い潰れてるのは、確かに怪しかった」


 そう言うと、んぐっ、とつんのめるようにして、羽鳥湊咲は吹き出すのをこらえる。やられていたら私にもかかっていたところだったので、一瞬緊張した。


 彼女がコーヒーを飲み下したのを確認してから付け足しておく。


「だって、すごかったよあの時」


 今思い出しても、街灯の下、ベンチでうなだれたあの画は怪しい。


「あれは……そう……でしたか?」


「そりゃあもう。慣れてる駅前じゃなかったら完全にホラーだった」


 街灯と夜、というワードから思い出すのは先程の写真。しかし同じワードでも、酔いつぶれて寝込んで落とし物までしていた彼女とは天と地ほどの差がある。


「そういえば、さっきの写真」


 その連想から、ふと思い至って。


「そういう図なのに、全然怖くないというか、不気味じゃなかったね」


 暗さを基調とした強いコントラストと、姿のはっきりしない人影。それなのに陰鬱な雰囲気がないのは、今更ながら不思議かもしれない。


「あの、ちょっと聞いてみたいんですけど」


 羽鳥湊咲は上目でこちらを窺うようにしながら質問を投げかけてくる。


「鈴川さんは、どう……でしたか? あの写真を見て」


 ふむ、と会場の様子を思い出そうとして、せっかく手元にあるのだからとポストカードを取り出した。つまみ上げるようにして改めて写真を眺める。さっき展示されていたものと比べると印象は薄くなるが、あの瞬間感じたものを思い出すためにはまだ十分だった。


 浮かんだ印象の端っこを捕まえて、舌に乗せてみる。


「寂しくて、寒いような感じで」


 どちらかというと乾いた雰囲気で、秋から冬の気配がした。その湿度の低いさらりとした感触は、不気味さを感じさせない要因の1つかもしれない。


「街灯の明るさが綺麗で、だから周りの暗さが引き立つような……でも、周りの景色もちゃんと写されてるんだよね」


 暗いけれど、潰れてしまっているわけではない。どこかの街角。


「なんてことのない街の景色で、そういう景色は見慣れてるから、明暗がはっきりしていることが印象づくというか」


 どこかに存在することを、躊躇いもなく疑えるくらいの景色。希少性が低く馴染みの良い風景なのに、見慣れないほど明暗が強調されている。


「それで……こんな寂しい中に立っているのは、どういう気分なんだろうって」


 言葉が追いついて来ないような気がして、厚い紙の縁を指先でなぞる。


「眺めながら思わず考えちゃって、私も好きだった」


 あまり長々と話し続けるのもどうかと思い、そう締めたつもりだった。


 羽鳥湊咲はじっと、何かを考え込むように黙っていた。それから。


「……それはどういう気分だと、思いますか?」


 予想外に深堀りされて、わずかに面食らった。それはそれとして自分の印象を眺め直してみる。


「うーん……寂しさが主題になってるのは、かなりしっかり感じるけど」


 繰り返して、時間を稼ぐ。


 こちらを見つめている羽鳥湊咲の視線から逃れるように再び写真を見つめて、読み取れることを探す。


「でもなんだか、この人は光の外側に立つことを選んでいるようにも見える、かな」


 写真の中、光の少し外側に立つ人影を見つめる。


 言葉を探る間をつなぐため、抵抗なく飲める温度になっていたコーヒーを口に含む。香ばしい甘さが鼻から抜けて、淡い苦味が舌に残った。


「だとしたら……そこになにか、この人が居る理由があるのかもしれなくて」


 照らされているのはたった一部で、写された景色の大半はむしろ暗がりの中にある。


「写っている人のそういう意志を強く感じるから、だから怖くないのかな」


 やや過剰解釈な気もするが、強引に結論まで持っていく。


「本人にとっては、辛かったりもするのかもしれないけど」


 自分がなにを言おうとしているのか、言っている途中で見失っているような感覚がある。慣れないことをするもんじゃない。


「それでも多分この写真は、それを悪いことだと断言してはいないように見える……とか、そういう感じでどう?」


 やや逃げるようにまとめた。読み取った情報一つ一つを整理せず言葉にしても、あまりうまくいかない。いつも本のレビューを書く時は何度も振り返りながら情報を整理しているから、こういうアドリブは経験値が足りていないことを痛感した。写真という慣れない視覚媒体に対してだったから尚更だ。


 振り返って、支離滅裂だったと自分でも思う。こんなことを聞かされたって困るだろうが、聞いてきた側の責任もなくはないだろう。ということで許して欲しい。


 どんな反応をされているだろうかと、羽鳥湊咲の顔を窺ってみる。


 見つめ続けられているだろうと思っていたら、いつの間にか彼女は手元のコーヒーの水面に視線を向けていた。


「私も……」


 そしてそのまま何か言いかけて、途切れる。ぎゅっと眉根を寄せ、必死に言葉を捕まえようとしているような、苦しげにも見える表情。


 やり取りとしては、他愛のない感想の言い合いみたいな状況であるはず。そんな会話にそこまで必死になる理由はわからない。私からもう少しなにか言うべきかどうか迷って、とりあえず待ってみることにした。


 思い返してみれば、この写真を見ていた彼女の透明な横顔がどうにも気になってしまうのも確かだ。私と同じものを眺めながら、彼女はなにを考えていたのか、なにを読み取っていたのか。解釈を聞けるものなら聞いてみたい気がした。


「なんて言葉にしたらいいのか、わからないんですけど」


 また少し間があった。羽鳥湊咲の話を待ちながら、私は残り少ないコーヒーを啜る。


「なんだか、ちょっとだけ救われるような」


 絞り出すようにそれだけ口にしてから、彼女はまた口をつぐむ。耐えているような、我慢しているような、そういう気配を感じる。


 正直、救われるという言葉の意味はわからない。あの肌寒い写真のどこからそんな印象が来たのだろうか。


「……まぁ、別にさ」


 苦しげな彼女の表情を見て、今度こそ言ってしまう。


「言葉にするのは今すぐじゃなくてもいいと思うよ。ゆっくり考えればいいし……ポストカードなんて、そのために買って帰るようなものだしね」


 それほど印象深ければ、多少時間を空けてからでも考えられるのではないだろうか。今すぐにと急ぐことで苦しむ必要はない。


「じゃあ……その、また遊びに行ったり、してもらえますか」


「そりゃあもちろん」


 断る理由はない。ちょっと傲慢な言い方をすれば、半日ほど一緒に居て、しっかり楽しい相手だった。


「なんなら今、次の予定も決めちゃう?」


 相変わらず必死さを感じる彼女の様子を見かねて助け舟を出してみた。


 泥酔していた時といい、どうも手を差し伸べたくなってしまうような、放っておけない雰囲気があると思う。本人に狙っている気配が感じられないあたりも要因だろうか。


「あっと、そう、ですね」


 羽鳥湊咲はややうつむきがちになりながら言葉を濁す。乗り気なのかそうでないのか、どちらだろうか。


「ただ……ちょっと、今、私あんまり……その、お金が」


 言われて納得のいく理由ではある。というか、そもそもある程度は考慮するつもりだったけれども。


 背景が分からない以上、金銭問題はどうしてもナイーブになりがちであり、どんな言い方をするのが一番適切だろうかと考えていたら。


「あっ、そうだ」


 彼女はなにか思いついたように顔を上げた。


「その、私でよければ、ご飯作ったりとかはできると思うんですけど」


 確かに飲食店勤務と言っていた。意味を理解するまでに一瞬間が空いて、それはつまり私の家に来て、ということだろうか。踏み込みが急すぎやしないか。


「もし、その、ご迷惑でなければ……って感じなんですけど」


 言葉はやや尻すぼみ気味に。彼女にも一足飛びの自覚はあるようだった。


 私としてもいきなり自宅で……という抵抗感がないわけではない。しかし、あんな状況だったとはいえすでに一度家に上げているし、職場だって知られている。隠せるものはもう見当たらず、迷う理由があるかと自問しても、それらしい理由は見つけられない。


 警戒に寄った思考をしてみれば、私に不利益が発生するような企みをしている、という可能性が今もないわけではない。しかしそれにしては、どうもやり口が不器用すぎるように感じる。そもそも金目の物があるような家でもない。一人暮らしの自宅を知っているという意味では、お互い様でもあるだろう。ろくでもない勧誘なら、別に家に上がり込む必要も薄いわけで。むしろもうちょっと慎重に距離を詰めようとするのではないか。


 ごちゃごちゃと考える。


 羽鳥湊咲との距離感がよくわからないから、単純に戸惑っているというのが一番近いだろうか。


 偶然知り合って、偶然再会して、その度になにかイベントがあった。特殊な出会い方で、自分の人間関係のどこに位置させるべきなのか測りかねている。


 特殊と特別は違う。そう理解してはいるけれど、こんな出会いを特別視してしまいたくなるのは確かだ。


 ……まぁ、腹を括るというほどのことでもない。なにしろ一度目は私から引っ張り込んだようなものだし。


「うちで良ければ、普通に遊びに来ればいいよ。なにもないけどね」


 口にしてみれば、意外と言葉は簡単で。


「次の空いてる休み、教えとく?」


 約束するのなら、とっとと取り付けてしまうに限る。


「ありがとう、ございます」


 羽鳥湊咲は気が抜けたように笑う。我に返ったという方が近いかもしれない。頬が赤く見えるのは恥ずかしくなったから、ではないだろうか。


「お礼を言うのはこっちかもね。ご飯作ってくれるんでしょう?」


 状況を進めてしまった。格好を付けてしまった、と言うべきかもしれない。


「自分じゃ料理なんてほとんどしないし、楽しみにしておくね」


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