第63話 歌姫召喚 1

———彼女は目を覚ました。

正確には騒々しい声が頭上を飛び交い、安らかな眠りを妨げられた。

授業中に眠ってしまったのか、それとも帰りの電車でうとうとしていたのか。

起き抜けの頭で、眠りに落ちる前の記憶は定かではない。


「おお! 歌姫が目を覚ましたぞ、皆の者!!」


男性の声だ。

寝起きの視界はまだぼんやりしている。

聞いたことのない言語なのに、何故か意味が理解出来た。


明らかに異常事態だ。彼女の頭がさらに覚醒を促す。

次第にハッキリしてくる視界には見覚えのない人々がいて、彼女を見ていた。

自分が彼らの前で横たわっていた事を自覚し、慌てて飛び起きる。


「あなた達、誰ですか?」


誰何の声は掠れてしまった。

彼らは彼女を遠巻きに囲んでいるが、知らない場所に連れてこられた以上、警戒を緩める事は出来ない。


彼女は目を覚ますまでの行動を思い出した。

飲食店のバイトを終え、その帰りだった筈だ。

そこから先の記憶がなくなっているという事は、気絶させられて拉致された可能性が高い。

今のところ危害を加えられてはいないが、これからもそうだとは言い切れない。


「歌姫よ」

「っ!」


ずいっと、先程声を張り上げた男が彼女に歩み寄る。

反射的に彼女はその分後ずさった。

男の目がスッと細まる。


「そう警戒するでない。私の名はアドルト・スフィーダ。このドゥエル王国の王だ。誓って、そなたを傷つける事はせぬ」

「王……様?」


彼女との会話がわずかでも成立した事に気を良くしたのか、王の口角が上がる。


「そうだ。私がそなたを——歌姫をこの世界に召喚した張本人だ」

「召喚……」


彼女の日常生活において、馴染みのない単語だ。

ただ、友達に貸してもらった漫画や小説の中では見た事がある。

それが自分の身に起こるなんて、にわかには信じられない。

王は彼女の気持ちを見越したように、優しく囁く。


「そなたの戸惑う気持ちも当然の事。祖国を離れ、遠い異世界に召喚されたのだからな。しかし、我がドゥエル王国の為にそなたが歌ってくれたのなら、何でも望みの物をやろう。金でも宝石でも領地でも」


「だったら、私を元の世界に帰して!」


彼女の切なる願いの声に、アドルト王は笑みを崩さぬまま、眉だけピクリと震わせた。


「お金も宝石もいらない! お母さんのいる世界に帰してください!」


彼女は必死に訴えた。

父親が亡くなり、1人で懸命に自分を育ててくれた母親と離れるなんて、考えられなかった。


「歌姫よ。すまぬがそれは無理だ」

「え?」

「異世界から来た者はいても、帰った者は誰一人おらぬ」

「! そんな……………っ」


彼女はくずおれ、しくしくと泣き始めた。

周りを取り巻く人々はただ戸惑い、掛ける言葉もない。

王だけが苛立たしげに顔を歪めたが、泣き伏せる彼女がそれに気づく筈もない。


「歌姫は混乱しているようだ。誰か、部屋に案内して休ませろ」

「はっ!」

王の命令に臣下の1人が侍女を呼びつけ、彼女をあらかじめ用意してあった部屋まで送り届けさせた。



再び静まり返った空間に、王の溜息が殊更大きく響く。


「宰相よ。アレは確かに『歌姫』だと思うか?」

「儀式により召喚されたのは間違いありません」

宰相は恭しく首を垂れて答える。

「………そうだな。今度は慎重に事を運ばねば。奥の手を使ってしまった以上、我らに選択肢は残されておらぬ」


「あの、陛下」

おずおずと、臣下の1人が口を開く。

「アーベント殿下は、その………」

王の鋭い眼光に睨まれ、彼はそれ以上言葉を続ける事が出来なかった。


「死んではおらぬさ」


しかし王はボソリと呟くと、身を翻し扉へと向かう。

慌てて臣下達がその後を追う。


「力があるかどうかは二の次だ。宰相よ、明日『歌姫召喚』の事実と成功を国内外に伝える。準備をせよ」

「ハッ! ゼルドナ王国への牽制ですね」

「もちろんそれもある」


扉の外の景色は徐々に夜へと傾こうとしている。

夜の闇は全てのものを包み込む。

闇を恐怖するのは見えないからだと、王は思った。

見えないもの、得体の知れないものは怖い。


最初に召喚したもう1人の『歌姫』。自分が彼を酷い目に遭わせて棄てたのだ。

あの時、判断を間違えさえしなければ———

ぶるりと、王は身体を震わせた。


『歌姫』の読めない動向に、王は恐怖を覚えていた。

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