ある雨の日、私は恋を叶える
とは
第1話 六月九日 夜
「ただいま戻りました」
数年前に改築をしたこの屋敷は、外観や構造を変えることなく、だが快適さを増して今日も佇んでいる。
庭で咲き誇る薔薇の香りを感じながら家へと入った私に、いつもならば明るく掛けてくる家政婦の「お帰りなさいませ」の声に力がない。
どうやら良くない話が待っているようだ。
「
その言葉に足を止め彼女へと振り返る。
――本日は、ではなく『本日も』ですよね?
それに今日は……。
そう言いたいのをかろうじて止める。
理解のある大人びた子。
世間の私に対する評価だ。
そして周りがそう望んでいることも私は十分に分かっている。
それなのにちりちりと生まれるのは。
慣れたはずの、もう奥底にしまい込んで出さずにいたはずの感情。
今日ばかりはあざ笑うかのように、ずぐりと手を伸ばし、それは這い上がろうとしてくるのだ。
拳を強く握り締める。
爪が食い込み、小さく痛みを訴え続けて来る手のひらに意識を集中させていく。
細く、小さく息を吐き『いつも』の私へ。
皆を困らせることがない『いい子』になるべく心を落ち着かせていく。
明日、私は誕生日を迎える。
だがその日は出張の予定で、両親は家に居られないのは以前から聞いていた。
『せめて誕生日の前日は、一緒に夕飯を食べよう』
そう言ってくれたのは、ほかならぬ両親だったのに。
だがそれを目の前のこの人に言ったところで何も変わらない。
今日も一人だけで食事をする。
ただ、それだけのことではないか。
うつむき唇をかみしめる。
結んでいた唇の力を抜き、口角を上げて笑みを作り、私は顔を上げる。
「いつもありがとうございます。食事は自分で片づけが出来ますので、準備が出来たら帰っていただいて大丈夫ですよ」
私とは対照的に、彼女に浮かぶのは悲しげな表情。
理解あるふりを装い、私は言うのだ。
「今日は夜から雨が降るらしいですよ。早く帰った方がいいです」
「ですが
優しい人だ。
だが彼女にはまだ小さな子供が二人いる。
どうしてその子達に同じ思いをさせられよう。
「心配はいりません。父さんたちが忙しいのは理解していますし、週末にはきっと私の為に時間を作ってくれるでしょう。楽しみが延びた、それだけのことですよ」
その言葉に今度は彼女がうつむいてしまう。
私は明日、十六才を迎えるのだ。
こうして両親が働いているからこそ、代々続くこの
それがわからない年ではない。
特に母はこの歴史ある
主な取引先となる相手が海外の人物であること。
そしてその相手は、夫婦同伴での打ち合わせを強く希望してきていた。
当然ながら、それらには機密情報が伴うもの。
自宅での打ち合わせは、会社に比べセキュリティがどうしても劣ってしまう。
さらに打ち合わせの時間に時差がある以上、どうしても両親は夜間に会社に向かうことが多くなってしまうのだ。
これは仕方がないこと。
それが分からない年ではないのだ。
そして何よりも……。
「お腹が空きましたね。私、今日はたくさん食べますよ! 早く食べさせてくださいね」
私には彼女に一刻も早くこの家から退勤してもらいたい理由があるのだ。
◇◇◇◇◇
いつも以上に喜びの表情を作り、私は家政婦の作った食事をとる。
その様子に安心したのだろう。
彼女は定時でこの家を出て行った。
玄関が閉まる音を聞き、私は慌ただしく目の前の料理を食べていく。
自分のために作ってくれたものを残すのはやはりよくない。
しっかりと完食し、手を合わせ「ごちそうさま」と呟いてから片づけを始めていく。
食器を洗い風呂の準備を進め、時計をちらりと眺める。
時間は午後七時を過ぎたところ。
両親が帰ってくるのはいつも通り明け方近くになるはずだ。
手早く風呂を済ませ、パジャマへと着替える。
髪を乾かしながら、前髪が眉毛のやや上にまで伸びてきているのに気がつく。
学校から指導を受ける前に、そろそろ切っておかねば。
そんなことを考えながら、カーディガンを手に取り玄関から外へと足を進める。
私の何倍もこの家で年を重ねてきた玄関の柱へと目を向けていく。
改築の際にもこの柱だけは残して欲しいという母の強い要望もあり、今日もこうして私を見守ってくれている。
その柱に私の頭一つ分、高い場所に刻まれた横一直線の傷。
そっとそれに触れながら、添えられるように書かれたある人物の名前を頭の中で
家政婦に言った通り雨が近いようだ。
空気と水が混じりあい、作り出された雨の匂い。
静かにそれを吸い込みながら、私は手入れをされた庭をゆっくりと進む。
六月始めとはいえここ数日は、夏を前借りしたかのような暑い日が続いている。
半袖のパジャマを着ていても、じんわりと汗が浮かんでくるほどだ。
敷地の隅にある蔵の前に立ち、ポケットに手を伸ばす。
両親の部屋から拝借してきた鍵を取り出し、鍵穴へと差し込む。
かちりと軽い音と振動が私の手に伝わってきた。
ポケットへと鍵を戻し、入れ替わりにスマホを照明代わりに掲げながら中へと入り扉を閉める。
入室したことによりセンサーが働き、間もなく明かりが灯った。
こちらの蔵も改築が済んでおり、内部は一定の湿度と温度を保つように設定されている。
この蔵の内部は十畳ほどの部屋が二つに分かれた構造だ。
ひんやりとした部屋の温度を感じ、私は持ってきたカーディガンをはおった。
目的の場所である奥の部屋の扉の前に着くと深呼吸をする。
心臓の鼓動が普段より明らかに早い。
今からあの人の姿が見える、触れる。
それだけで私の心は満たされていくのだ。
ノックもせずに、だが静かに扉を開け部屋の一番奥にいる彼の元へと向かう。
さらりと流した、目にかかるくらいの長めの前髪。
白い長袖のシャツを身に着けた、男性とは思えない透明感をたたえた美しいその男性に。
まだ十代だというのに、落ち着いた知的な雰囲気をまとっている姿に私はいつも見とれてしまう。
だがこちらを見るその目つきは射抜くように鋭い。
目が合い、私に訪れるのはゾクリとした感覚。
あれほど感じていた寒さに近い温度が一瞬にして消え失せ、私の頬は赤く染まっていく。
緊張をほぐすように着ていたカーディガンを脱ぐと、もう一度私は深呼吸をして彼のそばへと一歩ずつ歩みを進めていく。
その姿へと伸ばした私の右腕に、彼の指がそっと触れてくる。
汗ばんでいた私の腕は、部屋の空気によりかなり冷えてしまったようだ。
彼の指先からじわりと伝わってくる温かさが、私の腕にしみ込んでいく。
相対する私たちが触れ合ったことにより、互いの温度差を埋め合わせようとするかのように届く温もりに。
私はこの上ない幸せを感じていくのだ。
もっと触れてほしい。
どうかあなたを私に教えて。
そう願う私の耳に届くのはスマホからのメール着信の音。
びくりと体を震わせ、ポケットに入れていたスマホを取り出す。
メールは母からのもので、仕事が早く終わったのでもうじき家に着くという連絡だった。
帰って来るのが分かった以上、今日はもうここにはいられない。
慌てて私は蔵を出る準備を進めていく。
振り返りたい衝動に駆られるが、それをすればまた彼の元に戻りたくなってしまう。
明日は両親は泊りがけの仕事になるので、明後日まで帰ってこないはずだ。
そう、十六歳になる明日こそは私は……。
胸に秘めた決意を今一度、思い返す。
蔵の鍵を閉め、見上げた空からはまだ雫が落ちてくる様子はない。
濡れずに済んだことに安堵しながら、私は駆け足で屋敷へと急いだ。
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