本番当日④ アンコール
第三楽章も無事に終わり、いよいよ最後の第四楽章。
実は、最後まで付き合うのに苦労したのが、この第四楽章だ。
冒頭、二本のヴァイオリンがオクターブ違いで短いフレーズを奏でる。
ゆったりめのテンポながら、何だか怪しい雰囲気を醸し出す。
フェルマータ(音を好きなだけ伸ばす)で締めくくられるそれはテンポを敢えてロスさせ、今度はヴィオラとチェロの低弦二本による、これまた短いフレーズ。
先の物とは異なるが、低い音域で、怪しさは更に増している。
そして今度はテンポが打って変わり、チェロがビートを刻み始める。
程なくしてヴィオラ、速いテンポの八分音符を刻む。
実はこのヴィオラの音型、冒頭でヴァイオリンたちが奏でたものによく似ているのだけれど、テンポが全く違うのでなかなか同じものには思えない。
しかし同じフレーズは第二ヴァイオリン、そして第一ヴァイオリンへと受け継がれ、曲はどんどん疾走していく。
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「うー……」
本番二週間前の練習中。美音が何だか唸り声を上げた。
「お、どうした、美音?」
明石さんがそれを拾う。
「四楽章、これまでの楽章と雰囲気が違い過ぎて、ボロディンは何でこんな曲にしたんだろう、って」
僕も同じようなことを思っていた。
一楽章から三楽章は、「奥さんとの日々」をテーマに、ボロディンの魅力である極上のメロディが楽しめる構成だ。
しかしこの四楽章は、そういう耳触りのよさが、ほとんどない。
「僕も同じことを思っていました。個々の技術もアンサンブルもすごく難しいのに、なかなかいい曲に思えなくて……こんなこと、あんまり言わない方がいいと思うんですけど」
「はは、ま、若者にはそう思えるかもな。
坂本さん、吉田さんは、どうですか?」
明石さんの振りに、吉田さんが答える。
「確かに、メロディアスかと言われると微妙だけど、クラシックやってるとこういう感じの曲、結構あるよね」
坂本さんもそれに応じた。
「そうですよねえ。何というか、こういうテクニカルな構成の楽章みたいのは、作者の腕の見せ所なんですかね?」
「僕はさ、当時と現代で観客の感性も違うのかな、と思っている。今はさ、大衆的な音楽と言えば『歌』ありきで、そこに良いメロディがどれだけ乗っているか、が大事じゃない」
「まあ、確かに」
ファンナイでもそれを意識するもんな。
「でもこういう器楽曲って当然『歌』はないし、もちろん旋律がすごくいいものもたくさんあるけれど、そうじゃないのも多いよね。構成を楽しむというか、楽器の組み合わせやフレーズの組み合わせで生まれる何かを楽しむ、みたいな。この楽章はそっちの方向だよね」
「なるほど。あんまりそういう楽しみ方は、考えたことがなかったです」
「私も」
「二人とも、普段は源田先生に付いて、ソロで弾くことが多いんだよね?アンサンブルの経験が少ないと、確かにこういう曲は取り組みづらいかもねえ」
そうか……まだまだ、知らない音楽の世界がある、ってことだな。
勉強になるな。
明石さんがまとめる。
「じゃ、テンポを全体的に少し落とそう。
その分皆さん、自分と他パートと、両方の演奏が耳に入ることを意識して弾いてください」
その指示に吉田さんが反応した。
「テンポを落としてくれるのは助かるねえ」
「いや、速さで誤魔化せない分、一段階上のレベルの要求をしています。
それじゃ、やってみましょう」
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本番、曲が流れていく。
明石さんの「自分も他パートも丁寧に」という指示のおかげで、曲の構成をかなり掴めるようになった。
そうすると、ボロディンが随所にちりばめた構成の妙が分かるようになってきて、やはり歴史に残る作曲家はレベルが違うということを思い知らされる。
確かにこの楽章は、例えば観客席にいる僕らの友達なんかには、届かないかもしれない。
でも、この楽章の良さというのは絶対に存在していて、それは誰かが演奏しない限り、他人に届くことはない。
そうか。僕らがこの曲を演奏するってことは、音楽を未来につなげる、ということなのかもな。
音楽はどんどんテンションを増し、最後のコーダへ。
盛り上がりは最高潮に達し、遂に最後の音符を――――――――――弾き切った。
同時に、観客席の誰かが「ブラボー」と叫び、割れんばかりの拍手がホールに鳴り響いたんだ。
演奏者四人は立ち上がり、観客席に向かって一礼する。
そして、一旦舞台袖へと下がった。
ステージ上はライトの影響もあり結構暑く、こういう激しい曲の演奏後は、一気に疲労感が訪れる。しかしそれはむしろ心地よいものだ。
美音も坂本さんもほんのり上気した顔をしており、吉田さんなんか汗だくだけれど、皆、揃っていい顔をしていた。
客席から聞こえる拍手は、まだ止まっていない。
「さ、ラスト、行きましょう」
吉田さんの促しに、僕らは改めてステージに登壇した。
椅子に腰かけ、楽譜をめくる。
そう、アンコール曲の演奏だ。
お客さんもすぐにそれを察し、拍手が止む。
美音がラの音を奏で、軽くチューニングして、と。
さあ、準備完了。
チェロの吉田さんが立ち上がると、客席に向かって一礼し、マイクを持って話し始めた。いつもはそんなことしないんだけど、今回は特例だ。
「本日は、四季色カルテットの第十四回演奏会にお越しいただき、誠にありがとうございます。
僭越ながら、アンコール曲を演奏させていただきます。よろしければ、手拍子をしていただいても構いませんので、お楽しみください」
吉田さんが座って楽器を構え直すのを確認すると、第一ヴァイオリンの美音が、弓を大きく振って、二つカウントを示す。
全員ユニゾンで、耳馴染みのいい旋律から、アンコール曲が始まった。
ヨハン・シュトラウス一世作曲、「ラデツキー行進曲」だ。
もともとはオーケストラのために書かれたのだけれど、今回は弦楽四重奏に編曲された楽譜を使用している。
ウィーンフィルのニューイヤーコンサートでは必ず演奏され、その他テレビなんかで使われる機会も多いこの曲。
クラシックを知らなくても、聞いたことがある人は多いと思う。
ずっと明るく楽しい雰囲気のこの曲は、クラシック音楽の持つたくさんの顔のうち、ある一面を代表していると言えるだろう。
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アンコール曲を決めたのは一ヶ月ほど前。
演奏会にはそもそも、「アンコールなし」という選択肢もある。
メインの曲の余韻で終わりたいというポジティブな理由の場合もあれば、プログラム内の曲が難しすぎてアンコールまで手が回らないという、ネガティブな理由場合もあるけれど……。
その辺の見極めのため、「四季色カルテット」では、本番の一ヶ月ほど前にアンコール曲を決めるのが通例となっている。
明石さんが皆に言った。
「今回、アンコールはどうしましょう?」
「正直、負担という意味ではアンコールなしという選択肢も視野に入れたいけど……」
そう答えたのは吉田さんだ。
「まあ、今回は難しいですもんねえ……明石さんもいないですし」
坂本さんもそれに応じた。
うーん、でもなあ……。僕も発言してみる。
「皆さんの気持ちも分かりますけど、ボロディンの四楽章ってオーディエンスとしては分かり辛い曲だと思うから、アンコールで気分を変えれた方が、演奏会の構成としてはいいんじゃないかと……」
「うん、それは確かにその通りなんだよ……だから悩むよね」
吉田さんも、同じことを感じてはいたみたいだ。
アンコールはしたい、でも完成度が追い付くか……。そんなジレンマに皆が頭を抱えかけたとき、美音が手を挙げた。
「はい、私、やりたい曲があります!」
「おう、美音、何だ?」
「ラデツキー行進曲」
「え、美音ちゃん、オケ曲だよ、それ」
「吉田さん、それは分かってるんですけど、弦楽四重奏版もあるでしょう?」
超有名曲だから、原曲のオーケストラ版に留まらず、吹奏楽やピアノ、その他室内楽まで、現代では色々な編成の楽譜が世に出回っている。
「まあ楽譜屋に行けば適当な楽譜が簡単に手に入るだろうね」
「あの、私、小さい頃、お正月にテレビでこの曲の演奏を観て」
「ああ、ウィーンフィル?」
「はい」
ウィーンフィルは、世界でも最高峰の楽団の一つだ。毎年お正月にニューイヤーコンサートを開催していて、日本でもテレビで流されている。
「それで、すっごく楽しそうだなあ、って。私も大きくなったらオーケストラに入って、この曲をやりたいと思ったんです。
ここはオーケストラじゃないけど、初めて他の人と合わせてやる演奏は、想像の何倍も楽しくて……その分大変さも数倍でしたけど」
えへへ、と笑う美音。
「だから、このカルテットで、ラデツキー行進曲ができたらなあ、って。
それにこの曲だったら、ボロディンの後の口直しにもぴったりだと思うんですけど」
なるほどなあ。確かに、曲調としてはありかもしれない。
吉田さんと坂本さんも呟いている。
「まあ、ラデツキー行進曲はオケ版を何回か弾いてるから、全然行けると思うけど」
「私も大丈夫です。そんなに難しくないですしね」
美音の提案は、難易度と演奏会の構成、二つの問題を同時に解決できるものだった。
「僕も美音に賛成です」
「よし、ラデツキーで行ってみようか」
「ええ、いいですよ」
こうして僕、吉田さん、坂本さんの順に賛成の意を示し、アンコール曲が決定したんだ。
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吉田さんのスピーチの通り、お客さんが手拍子をしてくれる。
それに合わせつつ、時にはこちらでテンポを作って、曲は軽快に流れていく。
繰り返しの多いこの曲は演奏時間ほどさらう箇所が多くなく、割とすぐに楽譜を覚えられた。おかげで心に余裕があり、メンバーの表情からお客さんの様子まで、十分に気を配ることができる。
ああ、楽しいなあ。
こんな快感を知ってしまったら、音楽をやめられる気がしない。
アドレナリンが多出されているのだろう。
最高の集中力で演奏できていて、時間の流れが遅く感じる。
音楽が、自分とメンバー、そしてお客さんを繋げていて、圧倒的な多幸感でもって僕を打ちのめしくる。
最後、曲は冒頭のテーマに戻る。
そして、ラストに付け加えられた四分音符の二連発を、美音に合わせて、四人がダウンボウで弾き切った。
美音と迎えた初めての本番。
再度、溢れんばかりの拍手と共に、その幕を下ろすことができたんだ。
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